プロローグ『皿の上』
夜が黄昏の街に闇を落とした。
車の往来や、人々のざわめきや、活気を押し退け静寂が支配していく。
街が夜に包まれる。
一つ一つの石畳の模様は識別が困難になり、大通りは幽寂を塗られていく。
パリ旧市街地の様な街並みとは対照的に立ち並ぶ超高層ビル群の灯りも風が吹いたかのように一斉に消えていった。
屋舎にある全ての部屋の、木製のフローリングや天井は黒に染まり、テーブルやベッドの輪郭は崩れていく。
月明かりの道しるべは無い。
そうして、夜泣き声すらしない、純粋な闇夜が訪れた。
――不意に、キィと蝶使いを軋ませて小さな部屋の扉が開かれる。
そして扉の影から、拳大の小さな炎の玉が子供が駆けるようにして飛び入り、部屋がほの明るく照らされる。
炎の玉は天井辺りをクルクルと遊ぶように飛び回る。
炎の玉は部屋の温度が過ごしやすくなるまで温めた後、机の上に置かれた蝋燭めがけスルスルっと飛んで蝋燭の先を灯した。
その炎の玉の後を追うようにして、開けた扉を閉じながら銀色の食器とワインセット持つ一人の青年が入室する。
しじまを切り開く様に、フローリングに足音を立ててながら部屋を歩き、手に持った食器を窓の前にあるワインセットと不自然に火が揺らぐ蝋燭が置かれた机にそっと下ろすと、自分も椅子を引き、腰を下ろした。
少しの間、静けさが帰って来る。
そして、青年がふいに口を開く。
「君は痛みが分かるかい?」
突然、緩い様な見透かしてるのかの様な口調の声が、蝋燭の炎がほのかに照らす小さな部屋に訪れた。
……
返答は無い。
青年は返答の有無に構わずに尋ね続ける。
「殺すことへの痛みを、貴方は知っているか?」
まるで、自分に質問するかのように。
…………
だが、やはり返答はない。
「俺は知っていたと思う。
でも、殺し続けるうちに、僕は感傷的になれなくってしまった。
「明日の朝ご飯をどうバランス良く摂るか」とか、「この人間が消えればどう物事が作用するか」とか、「殺すのが当たり前」とか、ゴミはゴミ箱へ程度のレベルでしか考えていない。はは、何でだろう」
青年は、思い出したかのようにワインボトルを手に取り、ワイングラスに血のような葡萄酒が注がれ、流体を注ぐ音が部屋に満ちていく。
「前の俺だったなら、人を惨く殺したヤツを手に掛けた時にすら、罪悪感や、同情をしていた。
あの死に際の苦渋に満ちた顔を見たら、一線を越えたヤツでさえ血の通った人間なのかと思わずにはいられなかった。
……それに、あの時は他人を理解して、人を愛していた。限られた時間の中で人生をどう生きるか。その日その日を後悔せず生きられるか。どうしたら皆が笑って過ごせる日常が有り得るのか。愛する人の所へどう帰ればいいのか。そんなことを毎日考え生きていた。
そういう人間だったって俺を知っている誰もが口を揃えて言った。きっと」
まるで、自分とは真反対の誰かを謳う様に断言する。
はぁ、と一つ嘆息を漏らしワインを口に運ぶ。
半分ほど減ったワインを見るその目は、酷く哀愁を帯び、どこか遠い目をしている。
「きっと、今の僕は傍から見たら狂ったように見えるのだろう」
顔の前を手で覆い、苦しそうに言葉を連ねていく。
「どこの世界に行っても、無実の人が無意味に殺され、ただ私腹を肥やすだけの害虫が無差別に搾取して立場の弱い人間を飢え殺し、笑いながら野を駆け遊ぶ子供たちの背景には、対照的に泣きながら燃える荒野を駆け回る子供がいる。今日も、誰かの人生が苦しんで幕を閉じる。
でも、それらは自分を取り巻く環境には関係ないと切り離して考えた。
親しい人間がそこに居れば、ただそれだけで十分だと考えた。
人を殺すのはいけない事だ。人が死んでしまえば悲しむ人間が必ずいるからって考えていた。それは心が痛く辛いことだと感じていた」
幾らか間が開く。
「――でも、僕から見たら、前の俺の方がよっぽど狂っていた」
青年は覆っていた手を取ると、先ほどまで哀愁を帯びた顔がまるで嘘だったというのか今は顔はピエロの如く笑っている。
吸った空気を思い切っり、吐き出すかのように口を開く。
「俺は抵抗しなかった。狂った様に全てを受け入れた!人殺しが楽しくなった人間の心の痛みを!人間を愛するあまり壊れてしまった心の傷を!神に、国に捨てられた苦痛を!愛した人間が手の届く距離で死ぬ絶望も!どんなに辛くても、狂っているのが分かっていても!守れなかった者の骸を!」
そう言うと、立ち上がり、手に持っていたワイングラスの中身を一気に飲み干した。
ピエロは恍惚の表情を浮かべると、最後の言葉を垂らす。
「障害となるなら排除しよう。正義も悪も関係ない。邪魔するもの全て、再び王となり国民を導くために!」
たわいも無い言の葉を紡ぎ終わった途端にグゥと腹が唸った。
「さてと、冷める前に食べなければ。命に感謝して、いただきます」
声の主は銀食器に置かれた香しき手ごねハンバーグに向かって手を合わせた。
フォークで一口大に切り分け、口に運んで、ひとしきり味わい、飲み込む。
それをしばらく繰り返した後皿から肉塊は消えていた。
青年は手を合わせて「ごちそうさまでした」と言う。
口の油を拭い、外に広がる景色を見ると独り言のように口を開ける。
「痛みを知らなくても、これから傷みだすので待っててくださいね」




