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航介とメールのやりとりを約束したあと、アーニランは宿泊先へ戻っていった。航介は、アーニランと食事をしてから、本来の陽性をとりもどしつつあった。
ただ、ゼミに出席することはもうなかった。歴史を科学しようとする教授と顔を合わせたくなかった。悪意のない航介の発表に、苦笑や嘲笑をした多くの連中と、同じ環境に居たくなかった。
世間をななめに見るようになってしまった航介は、柳田國男のように、独自の道をきり拓いていく覚悟を決めた。手始めに、後進的で辺縁部ともいわれている自分の故郷から時空を超えた知のエッセンスを見つけ出してやろうと、地誌の研究を始めた。
地誌の研究というのは、意外なことだが、現代の地理学者は避けたがるものだ。ガイドブックを作ることなど、学者の仕事ではないらしい。彼らのそうした不遜な態度も、航介にとって研究のモチベーションとなった。航介は、まずどうしても避けられない難題から手をつけ、その解決に知恵をしぼることにした。
それは、糠部と呼ばれた青森県東部から岩手県北部にかけて広く散らばって存在する八戸などの、「戸」がつく地名の謎を解明することである。平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけて、すでに存在したこの特異な地名の由来は、その根拠となる文書がないばかりに、歴史ファンにとって古くから興味がある問題だった。
多くの学者や郷土史家は、この地名が南部氏によって馬産のために設定されたとしている。しかし、航介は、整備したのは南部氏であったとしても、設定されたのは南部氏が下向するより前だったという確信を得ていたことから、設定者は南部氏ではないという仮説をもっていた。
航介は、数字や方角を冠に戴く地名に土の匂いを感じなかった。真心を感じとれなかった。侵略的な意図をもった者が入植する際に名付けたために、無機質な地名になったのだろうと推測した。
はたして、誰が名付け親なのか?
航介は、地理学にこだわることなく、さまざまな分野の書物を読んだが、そのヒントは得られなかった。ひらめきもなかった。ところが、この難問を解決するヒントを与えてくれたのは、意外にも、彼女だった。
その日のメールには、こう書かれてあった。
『金沢では、一足早く初雪が降りました。京都より高く見える北極星によって、冷たい雪雲が導かれたのかもしれません。いっちーも、あったかくしてないと風邪ひいちゃうゾ。』
寒さで縮んでいた航介の頬が緩んだ。たしかに、金沢より緯度が高い航介の故郷では、初雪どころか、もう積もっているかもしれない。アーニラン風にいえば、「北極星によって、すでに雪雲が導かれている」。北へ進むと、次第に北極星が高くなるということは…。
航介は、両腕に鳥肌が立っていることに気づいた。決して、安アパート特有のすきま風のせいではなく、千年ものあいだ機能してきた謎の地名を解き明かした確信からだった。しかも、その仮説は、これまで誰も気づくことがなかった新鮮で美しいものなのだ。
航介は、急いで身仕度を始める。あの羅経盤もリュック・サックに詰め込んだ。目的地は、太秦にある航介のアパートから程近い平安京の聖地である。
平安京の北方を護る「玄武」は、この船岡山に天降ると考えられている。航介は、建勲神社の鳥居をくぐるとき軽く頭をさげて、祭神の織田信長に敬意を表した。五分ほどかけて登ると、広く南方へ眺望がひらける。航介は、次の機会に、アーニランへこの美しい夜景を見せたいと思った。
しかし、今夜の目的は南方に広がる地上の夜景ではない。北方に巡る天空の星々である。航介は羅経盤で磁北を確認し、柄杓の形の北斗七星と、W字のカシオペア座の位置を確かめようとした。この二つの星座を確認できれば、たとえ二等星の薄暗い北極星でも、容易に見つけ出すことができるはずだ。
ところが、柄杓星の柄の部分が京都盆地の北山の山並みに隠れて見えない。あと数時間早くここに来ていれば、北斗七星は全く見えなかったことだろう。それは、百五十万都市のネオンのせいではない。
アーニランは、金沢では京都よりも北極星が高く見えると教えてくれた。ということは、北極星だけではなくその周辺の星々も、京都より高く見えるはずである。しかし、北極星を中心に回転する北斗七星が、この日のこの時には、たまたま山並みの向こうに隠れていたために、小学生のころに習ったやり方が通用しなかったのである。
航介は、ようやく見つけ出した北極星を見つめて、ひとりの戦国武将を思い浮かべた。徳川家康である。家康は、生前、自らを久能山(静岡市)経由で日光(栃木県)に葬るように指示した。それは、自身を不動の北極星になぞらえ、死後においても日光から真南にある坂東八州の地を護持しようという強い意志をもっていたかららしい。
家康は、史上はじめて幕府をひらいた頼朝を尊敬し、秀吉や柴田勝家よりも信長を理解した。信長の統治哲学である「天下布武」を正確に理解していたのは家康だけである。信長の心を継いだ彼には、有能な者が集まってきた。その彼らの助言によって、家康は日光に坐し、神となり仏となったのである。
しかし、航介は、「タヌキ」と揶揄されている家康をあまり好きではなかった。家康は、その中年太りの風貌から「タヌキ」と呼ばれたわけではない。他人を上手く出し抜いてきた「他抜き」の家康は、たとえ一流の政治家だと歴史学者が評価していようと、航介にとっては、イヤな感じにしか映っていなかった。やはり、男らしく美しい死に方をした信長や、底辺からのし上がった秀吉に憧れを抱いていた。
「平安京の北東には、鬼門の扉か…」
航介は、北極星へ向けられていた視線をゆっくりと北東へ動かした。そこには、古来、全国から秀才が集まってくる比叡山という聖地が鎮座している。最澄が唐から持ち帰った法を耳にした桓武天皇は、その場所に道場を拵えてやることで、京に出入りしようとする鬼を遮り、町に隠れる鬼の働きを封じ込めることを彼に託していた。遷都を繰り返すなど不安定だった政権を強化するために政策を工夫した桓武天皇の傍らにも、家康と同じように、この山の僧侶が控えていたのだろうか。
「そういえば、鬼門を塞ぐ比叡山のインテリたちは、必ずしも延暦寺の僧だけじゃなかったな…」
航介は、「おとぎ話の会」で豊臣秀吉の幼名である「日吉丸」が、比叡山の麓にある古いお宮から採ったものだと教わっていた。
日吉大社(大津市)である。
天台宗における神仏習合をもとにする神道は、一般的に山王神道とよばれている。これは、天台教学と地主神と考えられる日吉山王信仰が融合し、家康のブレーンだった南光坊天海によって、やがて山王一実神道として整備されていく。家康が日光に祀られたのも、この哲学があってのことである。
そもそも、「日吉社」の「よし」が、くだけた言い方である「ええ」と転訛したことから「ひえい山」とよばれてきたと考えられるほど、比叡山と日吉大社の縁は深い。「山家要略記」に、興味深い一文がある。
『有陽名北斗七星、有陰名山王七神。』
天台座主である良源が遺したとされるこの一文は、まさに日吉社の最高機密をあらわしている。
「日吉大社は、北斗七星を神格化したお宮だ!」
航介がそう唱えた瞬間、それまで山並みに隠れて見えなかった北斗七星の柄の部分が、ゆっくりと反時計周りにその姿をあらわした。最後に、七番目のアルカイドが航介の目に飛び込んだとき、航介は、蛇と亀が絡み合う玄武の神がこの船岡山に降臨した感覚に襲われた。
平安京を造った桓武天皇。その古都の聖地に祀られている信長、日吉社との強い縁がある秀吉、そして北極星を神格化した神号をもつ家康。航介を媒介者として、いくつかの「武」がこの丘で紡がれた。
アパートに戻った航介は、本棚から「理科年表」を取り出した。ある恒星の赤緯を確認するためである。その星は、武に関わる者にとって特別な星である。
それがアルカイドである。破軍、揺光ともいう。
なぜ、破軍というのだろうか。元の徐道齢が遺した「太上玄霊北斗本命延生真経」を見てみよう。
『北斗第一陽明貪狼太星君、北斗第二陰精巨門元星君、北斗第三真人禄存貞星君、北斗第四玄冥文曲紐星君、北斗第五丹元廉貞網星君、北斗第六北極武曲起星君、北斗第七天関破軍関星君、北斗第八洞明外輔星君、北斗第九隠光内弼星君。』
この一節には、北斗七星ならぬ「北斗九星」が登場する。おおぐま座のα星からη星までの七つと、アルコルとよばれる八十番星、そしてふくろう星雲が「北斗九星」である。
航介は、船岡山で痺れたその感覚を忘れぬうちに、青森県東部から岩手県北部にかけての白地図を描き、荒涼とした大地を九つの松明で照らすための準備を進めた。
①陽明貪狼太 本来は一戸
②陰精巨門元 二戸
③真人禄存貞 三戸
④玄冥文曲紐 四戸
⑤丹元廉貞網 五戸
⑥北極武曲起 六戸
⑦天関破軍関 七戸
⑧洞明外輔 八戸
⑨隠光内弼 九戸
奇門遁甲とよばれる道教の兵法は、黄帝や太公望呂尚がつかいこなしたことで有名である。名参謀であり後に宰相にもなったあの諸葛孔明も、この呪術をおこなったことが伝えられている。占星術と易を駆使するこの方位術は秘術であるために、その具体的な効果や影響は推測の域を出ないが、直系への口伝のみによって伝えられてきたそのインテリジェンスは、とくに、破軍星とよばれたアルカイドを尊ぶことだったらしい。時間と場所によって見え方が異なるこの星を、アナログ時計の針先として見立てたのだろうか。時間の経過と共に士気が下がっていく自軍の隊形を、軍神として神格化したアルカイドに連関させることによって規律を維持し、ひきつづきエントロピーを小さく保つことで、相対的に戦力が上回るように工夫したインテリの知恵なのかもしれない。自らが変化することによってモチベーションを保ちつづけるという哲学は、うたかたの一生をしなやかにやり過ごす高度な処世術でもある。
北半球ならば北極星を中心に、年間を通して地平線の下に沈まない星を周極星という。周極星は、観測点の緯度によって決定される。つまり、観測点が極点に近い高緯度地方ならば、多くの周極星が存在するということである。武を正確に理解した王や宰相、そして軍師たちに尊ばれてきたアルカイドが、季節を問わず、そして時間を気にすることなく目にしつづけることができる場所は、星の赤緯と地球上の緯度を足して九〇度に達しないという特異点から高緯度だけとなる。
「これは、間違いない!」
その資料には最新のデータが記載され、航介が予想していた程度の数値を提供していた。二〇〇〇年のアルカイドの赤緯を確認した航介は、ダウンベストを着たまま寒いアパートのなかで、ひとり熱くなった。その喜びは、物理学者や数学者による一般法則の発見時のそれに近かったことだろう。
航介の仮説は次のようなものだった。まず、武の象徴であるアルカイドを、周極星として観測できる南限の緯線上に降ろす。任意のその場所を、「太上玄霊北斗本命延生真経」から第七番目の「戸」、すなわち七戸とし、残りの八つの「戸」は、開拓しようとする平原の地形上のバランスを考えて、北斗九星の形で配置したというものだった。
「あ、これはアカン…」
この時、航介は、地球の歳差運動を考慮に入れていなかった。アルカイドの赤緯が、千年前もほぼ同じであるという大きな誤解をしていたのだ。その誤解にすぐに気がついたのは、大脳の深いところにしまわれていた断片的な記憶を、刺激というパスワードで繋ぎ合わせ、たまたま引き出すことができたからだった。
興奮していた航介は、感度が上がった五感のうちのどれかをはたらかせて、夏休みに「おとぎ話の会」で聴いた神話を思い出していた。天孫降臨とよばれるその場面では、日向国の高千穂にニニギノミコトが降り立った様子が語られた。現在の宮崎県北部に日本の神様が天降ったという伝承を初めて聴いたとき、航介は、子供心にもその物語に違和感を覚えざるをえなかった。
「なぜ、飛鳥や奈良ではないのだろうか?」
本来ならば、社会の授業で習ったように、政権の中心地である近畿地方に神が舞い下りるべきだ。中央政権が畿内にありながら、祀りあげる神々が九州に降りるというのは、小学生の航介にとって、理解しがたいものだった。「なんで?」が口グセだった好奇心旺盛の航介は、その語り部に質問した。
「なんで、宮崎なの?」
「歴史の古い本に、そう書いてあるからだよ。」
語り部は、それだけしか答えてくれなかった。古い本に書かれているならばしょうがないと、十分な納得もせずにそこで思考を止めた航介少年だったが、およそ十年ぶりに、この問題にふたたび興味を持った。なぜなら、史料を重視するだけでそこから一歩踏み込んだ考察を加えないという元教師でもある語り部の態度は、今の航介の目には、怠惰な人文系のあの大学教授の姿とだぶっていたからだった。
「あんな田舎教師は、教科書に書いてあることしか、子供たちにものを教えられない…」
「戸」地名を設定した貴人に軽くいなされた航介は、もはや塞ぎこむこともなく、むしろ果敢に新たな発見と仮説をたてていこうとする気力に漲っていた。
航介は、高校時代に習った地学の知識を絞り出し、歳差運動を考慮に入れた星の赤緯を確認する計算式を解いていった。
「意外に、首をふってるんだなぁ…」
航介は、地球の歳差運動の大きさに驚き、数分前まで確信していた拙い仮説が否定されていくことを悔しがった。よく知られているように、月の引力や海水のせいで自転軸がぶれるために、現在の北極星と各時代の北極星は必ずしも一致しない。その差は、かなり大きかった。
ようやく航介が導き出した千年前のアルカイドの赤緯は、正解かどうかがわからない。覚悟をきめた航介は、ネットバンクのわずかな残高を確認した後、インターネット経由で天文シミュレーションのパソコンソフトを購入しインストールした。そのソフトは、観測点と時間をパラメータとして代入すると、当時見えた夜空をパソコン上に映し出すことができた。試しに、理科年表に書かれてあった二〇〇〇年のアルカイドの赤緯と、九〇度からその赤緯を引いた地球上の緯度、すなわち七戸町付近の緯度を代入しシミュレートすると、予想通りに、美しく地平線をなめるアルカイドが映し出された。
しかし、紀元一〇〇〇年を代入してアルカイドの様子を窺うと、その場所では六度弱の高度からは沈まない結果が映し出された。当時のアルカイドは、七戸では接地していなかった。
この時点で、航介のあの仮説は明確に否定された。当時のアルカイドも周極星ではあるものの、現在のように、七戸町周辺の地平線上を美しく巡行するわけではないのである。
その残酷な結果を見て、逆にひらめいた航介は、その観測点を日本神話の里とされている高千穂町(宮崎県西臼杵郡)に、さらに、観測する方位を北に固定したうえで、年代を変数として画面上のアルカイドの様子を窺った。皇紀が始まったとされる紀元前六六〇年から時代をくだらせたてみると、紀元五〇〇年から七〇〇年にかけてのところでアルカイドが周極星でなくなることがわかった。このシミュレーションの結果は、観測地の地形的な障害を考慮にいれなければ、日本書紀が書かれたとされる紀元七二〇年の前後で、破軍星と呼ばれていたアルカイドが、高千穂の上空で変質するということだった。逆にいえば、記紀をまとめるにあたって全国が調査された時、当時の破軍星の周極星たる観測南限点がその地だったために、後づけで高千穂を神聖化したにちがいなかった。
南北に長い日本列島において、六世紀から八世紀にかけて、おおぐま座η星アルカイドが周極星でありつづける南限は、唯一、九州を通過する緯線のみである。興味深いことに、阿蘇山のむこうには、「まつろわぬ勢力」とされた熊襲に比定される熊本地方が位置し、天孫が降臨したとされる高千穂と、反逆者がのさばる熊本は、周極星たるアルカイドの南限という点で同じ緯線上に位置するのだった。
航介の新たな発見は、邪馬台国論争に終止符を打つヒントになるかもしれなかった。しかし、航介には、邪馬台国がどこにあろうとあまり興味がなかった。自分の故郷に伝わる不可思議を解いていくことだけに、レーゾンデートルを見出していたのだった。
二〇〇〇年において、アルカイドが周極星でありつづける南限の緯線は、航介の故郷である青森県内を通過していた。「戸」地名が集中する糠部地方を通過していた。永らく太平洋ベルトと呼ばれてきた東西軸の厚みがある部分ではなく、わずか百キロ・メートル程度の幅しかない本州の北の果てこそが、現在の日本国における王、宰相、そして軍師たちの聖地なのである。この緯線より北では、アルカイドが地平線の下に沈むことはないのだ。
この天体現象は、破軍星を祀る者たちにとって特別なことである。もはや、微分することができないことに美を感じているインテリにとって、おおぐま座η星アルカイドが周極星でありつづける南限こそ、天空の破軍星が地上に天降る聖地なのだ。
「まさか、な…。」
航介は、ジーンズの尻ポケットから、よれてしまったラッキー・ストライクに火を点け、しばし感慨にふけった。千数百年もかけて、高千穂から北上してきた「エリート前線」が、まさに、航介の故郷を通過している。国花である桜と同じように、将来のエリートたちがその地で淡い色の花を咲かそうとしているのだろうか。悠長にそんなことを考えてみたものの、航介は煙を吐きながら苦笑するしかなかった。
「青森県民が日本のエリートであるわけがない…」
航介の故郷に対する認識は、侵略者と売国奴によって荒らされ、搾取され、そして虐げられているネガティブなものばかりだったのだ。
その地では、悠久の時を超えて機能してきた「戸」の地名が、今まさに消失する瞬間に直面していた。その原因は、各自治体の財政窮迫を契機とした「平成の大合併」によるものである。保守王国といわれるこの地方で、保守政治家を自称する首長や議員、そして役場職員らによる財政の私物化は、目に余るものがあった。浪費で溜まった彼らのツケを払うために、合併という手術にみえる応急手当で凌ごうとするやり方に、航介は憤りを覚えていた。
「保守を自称している連中なのに、守るべき古くからの地名を粗末にしている…」
航介は、九つの「戸」のうち、機能している八つの「戸」がつく自治体のホームページを検索し、首長に直接連絡できるという行政サービスを利用して、地名に対する想いが込められた電子メールを一斉送信した。次に、「戸」の地名を守るべきという趣旨を、便箋に自筆でしたため、八人の首長の自宅へ郵送した。とくに、六戸町長宛てのものには、航介の危機感が強く出ている文章が綴られていた。
青森県上北郡六戸町は、ほかの七つの「戸」自治体に比べて、「六戸」の地名が消失する可能性が高かった。隣接する下田町、百石町との三町合併は既定方針であり、新町名が「おいらせ町」となることまで決まっていた。
『謹啓
寒冷の候、ますますご清祥のことと存じます。
さて、六戸町における広域合併に関する方針について、拙いながらも意見がありますので、一筆とった次第です。遅くとも、十二世紀には存在していた「戸」がつくいくつかの地名のうち、この度の合併作業により、六戸町が消滅してしまうことに強い危機感を覚えます。町長ご承知のとおり、町内には「大字六戸」も「字六戸」も存在しません。全国的にみても、他には存在しないことから、六戸町という世界唯一の自治体名は、誇れる先達から受け継ぐ、守るべき財産だと考えています。管見ながら、姓名としての「六戸氏」も把握できないことから、「ことのはとしての六戸」ですら、この合併により失われてしまうことになるのです。そのうえ、新町の名称が「おいらせ町」だと聞きます。私は、全国的に流行しているひらがな地名に、強い違和感を感じています。また、「町」を「まち」ではなく、「チョウ」と音読みさせる理由がわかりません。これまで、青森県内にある自治体で、「町」がつくものは、ほとんど「まち」と訓読みさせてきたはずです。「チョウ」という読み方は、西日本で主流の感性です。町長は、あづま男でありましょう。是非、訓読みを大切にして下さい。ところで、町内を流れるあの川が、いつのまにか奥入瀬川という呼称に変更となり、当時の建設省のお墨付きを得たそうですが、住民の誰もがあの川を奥入瀬川とは呼びません。相坂川と呼ぶわけです。全国的に著名だからという理由で、媚びたことをやるべきではありません。そもそも、奥入瀬の「瀬」は、「渓流」の意味がある和語であり、奥入瀬川だの、奥入瀬渓流という呼称は、さしずめ、「味噌を入れた味噌汁」と言っている様なものです。町長は、保守系ということで、長年、政治活動されてきたことを存じ上げております。もし、あなたが日本人ならば、日本語を大切にしてください。もし、あなたが郷土愛をもつ多くの住民の代表ならば、「相坂川」という地図表記の復活を請願してください。そして、もし、あなたが後世の歴史家から評価されたいならば、愚行にみえる一連の合併協議から身をひくという判断をされるべきでしょう。若輩者が生意気を言わせてもらっていることは、百も承知の上です。しかし、これは戯言ではありません。私の郷土愛から生まれてくる良質の問題意識だと、自負しております。英断を期待します。
謹言 市野沢航介
六戸町長殿 侍史』
しかし、六戸町長をはじめ、そのほかの七人の首長からも、返信は一切なかった。政治家たちに失望した航介だったが、新たな別のアプローチを考えていた。それは、世論の盛り上がりを期待してのものだった。
航介は、この地方でもっとも購読されているローカル新聞の投書欄に、「戸」の地名の大切さを訴える投稿をした。文面は穏やかに、しかし、熱い思いが伝わるような工夫をして数万の民衆へ訴えかけた。
確実に首長たちの目にも留まっているはずだったが、相変わらず彼らの反応はなかった。しだいに、航介は、彼らの鈍感さに腹が立ってきた。瞬時に電子メールでやりとりできる環境のなかで、だんまりをきめこんでいる首長の態度は、いくらなんでも無礼ではないだろうか。彼らは、数行の痩せた返信すらよこさなかった。