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「それでは、工藤さん。こっちの『みちのく』ってのはなんですか?」
石橋は、「みちのく富貴」の四合瓶を指した。
「古い和歌にも地図にも、『陸奥』という地名は残されている。ただ、当時のインテリ達はほとんど伝聞形で記録を残している。自分で訪れたわけではない。京から物理的に遠い、現在の東北地方に関しては特にそうだ。」
「伝言ゲームと一緒ですね。間に余計なものが入ると、最終的に間違ったものが伝達されてしまう。」
「私は、『陸奥』を、『みちのく』や『むつ』と呼ぶことには違和感がある。」
工藤は、先日ナマズ釣りをしながら考えていたことを、石橋に言ってみた。
「東北地方を縦断する奥羽山脈を挟んで、東側を『陸奥』、西側を『出羽』と呼んだ。さらに、現在の青森県は、『津軽大里』とか『外ケ浜』と呼ばれていたらしい。」
工藤は、ウェイターにペンと紙を持ってきてもらった。器用に東北地方の白地図を描いてそれらの地名を書き込み、さらに、鎮守府が置かれた多賀城と出羽柵が築かれたあたりには、城跡の地図記号をつけていった。その手際の良さは、いかにも国土交通省の技官らしかった。
「これらが築かれたのは、八世紀の初め。平安京ができて、初代の征夷大将軍である坂上田村麻呂が、現在の盛岡市付近まで北上するのはここから百年後になる。さらに、頼朝と血の繋がりがある八幡太郎こと源義家が奮戦するのが十一世紀の中頃だから、多賀城築城から義家奮戦まで三百五十年もかかっている。頼朝の時代は、ここから百五十年も後のことなんだ。」
「すごいスケールですね。今から五百年前といえば、信長さえこの世に生まれていない。」
「現在の茨城県の大部分は、『常陸国』とよばれていた。ここには、鹿嶋神宮があることからわかるように、古くから朝廷の支配下にあった。」
「鹿島アントラーズのホームタウンですね。」
「『常陸国』は、一時、現在の宮城県南部まで拡大した。私は、この点に着目している。」
工藤は、「多賀城」と書き込んだ付近をぐるぐるとペンでなぞった。
「ふつう、漢字で書くところの『陸奥』をスラスラと『むつ』とは読めない。おそらく、もともと『常陸奥国』か『奥常陸国』の表記上の略だろう。強いて言えば、『ひたちのおく』というところだろうか。いや、私はそもそも『常陸』を『ひたち』と読む根拠を知らない。」
「国名、二文字の原則というやつですね。」
石橋も、国交省の役人らしく、律令政府による国名策定の原則を知っていた。「やまと」と読めないのに「大和」、「泉」だけでよいのに「和泉」。「和」という統治哲学を挿入しつつ、国名を二文字で表すというすばらしい原則が、かつての日本には存在した。
「そもそも、日本列島の東西軸にだけ興味があった大和朝廷は、鹿嶋を根城にした南北軸への展開を続けていくうちに、『常陸国』があまりにも拡大したので、分割する必要が出てきた。」
「そこで『常陸国』の一部を、『陸奥』、『出羽』などに独立させたということですか。」
「そのとおり。朝廷によって新たに設定された『陸奥国』は、国名を二文字にするという原則に沿って、『常陸奥国』を縮めた表記であるはずだ。」
工藤はネクタイを少しゆるめて、額の汗をぬぐった。
「それでは、その読み方を『むつ』とした理由は?」
若い石橋が貪欲にたたみかける。
「私は、『むつ』という読み方は、そもそも『常陸国』を構成していた郡のうち、北部にあった六つの郡に由来するとおもっている。」
「六ヶ所村ならぬ、六ヶ所郡ということですね。」
工藤は、石橋の反応の早さとそのセンスに感心した。たしかに、青森県上北郡六ヶ所村も、明治二十二年(一八八九)におこなった大合併の際の造語である。その由来は、泊村、出戸村、尾駮村、鷹架村、平沼村、そして倉内村の六つの寒村をまとめて、新しい村を施行したことからきている。「陸奥国」と「六ヶ所村」の間には、千年の時をこえて同じアプローチが働いているようだった。
工藤治三郎は、鎮守府が置かれていた多賀城や一之宮と考えられている鹽竃神社を中心とした半径五十キロ・メートルから百キロ・メートルの地域を、原初的な陸奥国と推定していたのである。
工藤は、「みちのく富貴」の四合瓶を手にとって、
「『みちのく』とは、『陸奥国』の奥、つまり六つの郡のさらに北方に隣接する所ではないのだろうか。漢字で書くと『陸奥奥国』、『奥陸奥国』、もしくは『奥六郡』。返り点を打って、漢文風に読んでみろ。」
石橋は、「奥六郡」にレ点を打ち、つぶやいた。
「むっつ/の/おく、むつのく、みちのく…。」
工藤は、「奥六郡」という謎の郡名こそが、「みちのく」と読まれるべきだと考えていた。
「繰り返すが、これは私見だ。史料の根拠がないどころか、史料を無視しているとさえいえる。しかし、これらは文字記録の文化が一般化していない時代に、複数の間接話者によってもたらされた伝聞情報なんだ。たとえ史料的価値が高い史料であっても、その情報の内容は、個々に精査するべきだろう。」
工藤は、若い石橋の感想をもとめた。
「たしかに、心理学のアプローチからでも証明できそうですね。物理的に遠くにあるものは、当事者の理解や判断の範疇をこえた空間にあるものと認識されたとき、それらがすべて同じような距離にあるものとして、一括りに処理されてしまうらしいんです。」
心理学を少々かじったという石橋は、そう言って腕を組み、高い天井を見上げた。
「現在の東北地方は、蝦夷ともよばれていたわけでしょう。いってみれば、外国ですよね。」
「蝦夷を、『えみし』と読む根拠は知らないが、七福神のゑびす様からヒントを得たらいい。ゑびす様は、海の向こうの遠いところからやってきた神様らしい。蝦夷は、音読みで『かい』。私は、『貝のように殻に閉じこもって教化されない武装化した外国人』というニュアンスのあだ名だとおもっている。ちなみに、ここでも国名二文字の原則が適用されている。」
柱に掲げられた大時計をみると、もう二十一時をまわっている。たとえ、このレストランが駅前に立地しているといえども、みちのくの夜が終わるのは早い。工藤は、店員に運転代行への取り次ぎを頼んだ。