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地理学者に対する不満と地理学への不安、そして、そこから芽が出た将来への漠然とした不安が、それまで陽だった航介の性格を変質させていった。航介が時折みせていた短気さと他に対する暴力性はしだいに自分自身にむけられ、すぐに思考停止状態となった。何もかも嫌になり、現実逃避をしはじめた航介には、やがて登校拒否という鬱症状が現れるようになった。
そんな時だった。見覚えのないメールアドレスから、「覚えていますか?」という件名で一通の電子メールが送られてきた。航介のスマート・フォンには、コンパで知り合った娘たちの多くのアドレスが記録されていたが、送られてきたこのメールの差出人には、全く心当たりがない。航介は、よからぬ業者からのものかなと警戒しつつ、好奇心に負けて開封した。
『藤原です。夏休みに、フェリーで逢いましたよね。秋分の日の連休に、クラブ活動の関係でそちらに行きます。よろしければ京都を案内してください』
「藤原」という子に覚えはないものの、「フェリーで逢った」女の子は十四歳の彼女だけだ。航介は、そのメールアドレスをすでに削除していた。
閉じかけていた航介の心に、すこしだけ光がさしこんだ。どこか寂しそうなアーニランへの慈しみなのか、オスとしての本能なのかには気づかないまま、慣れた手つきでメールを打ち返した。
『別にエエけど、泊まるところだけは用意してきな。男はオオカミなんやから(笑)』
航介は努めて明るく、お兄さんキャラで、自分の臆病さを隠す返信をした。
一週間後に上洛したアーニランは、従兄と久々の再会をするという嘘をついて、引率の教師から逃げ出してきた。
栗色の長い髪をひとつに括ったことで、品良くあらわになったうなじから首筋にかけてのシルエットには、高貴なバレリーナのような色気と成長期の幼さが同居していた。航介は、その制服姿から、かろうじて実年齢を確認したのだった。少なくとも、中学生には見えなかった。
航介は、アーニランの短いスカート丈と自分の財布の中身を気にしつつ、いかにも京都らしい雰囲気を味わってもらうために、ガイドブックに載っていた日本料亭でもてなすことにした。
一見にして雅な庭園と、いかにも京風な雰囲気を醸し出す「鹿威し」の響きが、この若い来訪者たちの真白い感性に古都の記憶を刻み込んでいく。
「スゲェな…。オレの田舎にはない文化だ…。」
航介は、高級料亭という異次元空間に身を置いて、自分の歴史に不足する何かを感じ取った。
「金沢にはありますよぉ。小京都ですもん。」
たしかに、アーニランが育った金沢は、江戸時代には「加賀百万石」の異名で知られていた小京都だった。いまだ京都に対する独特な意識があるらしい。
航介は、金沢に似ている京都の街などではなく、大阪の都会的な喧騒を味わわせてやればよかったと後悔した。
「USJとかアメリカ村の方がよかったかな。」
「そんなことないですぅ。湯葉は、初めてですぅ。」
エジプト系の母親から育てられたアーニランにとって、淡白な湯葉料理だけは新鮮な体験だったらしい。