0602ゲームの設定
微かに粉雪が舞う、ある冷えた日。
ローズは一人ずぶ濡れで寮を目指し、人気のないグラウンドを歩いていた。寒さで凍える中、ガチガチと歯を鳴らせ、彼女の心は芯まで凍りついていく。
その時、前方でザリッと雪を踏みしめる音がして、顔をあげれば、毛布を持ったアルフレッドが立っていた。
「今さらなんのつもり? 私はエゼルバルドと付き合うことにしたの。彼はあなたと違って私の隣にいてくれると言ったわ」
生気のない表情で淡々と述べるローズに、うわべだけの言葉と見抜いたのか、アルフレッドは何も返さなかった。虚勢を見破られた彼女は、膝から力が抜けるようにその場にへたり込む。
「たす、けて……。どんどん外堀から埋められて、逃げられないの」
アルフレッドは彼女の体を毛布で覆うと、静かに囁く。
「リリーからの伝言です。着替えて正門に行ったら、兄上の話を聞かずにこう言って下さい」
『お願い助けて、私には貴方しかいないの』
それはエゼルバルドルートにおいて、断罪イベント直前に主人公が選択する台詞。心が壊れかけた彼女は、崩れそうになりながらも、エゼルバルドに縋る。
「それでイベントを一つ飛ばせる。卒業式までは何もされない」
「何の、話……?」
意図を理解できないでいるローズはアルフレッドを見つめた。されど、彼は微笑むだけで答えようとはしない。
「風邪を引く前に寮に戻りましょう」
体を気遣い、ローズに歩くよう促す。けれども、彼女は毛布を握りしめ、立ち上がると先を歩く彼を呼び止めた。
「前にも言ったわよね、私とアルフレッドは愛し合う運命だって」
アルフレッドがピタリと足を止め、振り向いた。
真剣な眼差しで見つめるローズの瞳には、あの燃え上がるような熱が少しだけ灯っていた。
「でなきゃ起こり得ないような奇跡と偶然で私たちは繋がっていた!」
強く言いきったローズは、もう壊れかけていた。かつての強さも、気高さも、全てを焼き尽くされ、残りかすだけがまだ熱を帯びていた。
彼女は笑う。
「あなたとリリーの間には何があるの?」
「確かに、僕とリリーの間には何もありませんね」
アルフレッドは自嘲するかのように口元を歪めた。
彼がひたすら追いかけた、だから今でも隣にいる。その努力が無ければ成立しないような、ただそれだけの関係。
胸を張って言い表せる繋がりなど、何一つありはしない。
彼は瞳に睫毛を冠せると、心を見透かすようにローズへとそれを向けた。
「だけど、そんな表面的なものはどうでもいい。リリーが僕の所有物でありさえすれば、それだけで満たされるのだから」
雪よりも冷たい瞳で見つめられたローズは、思わず息をのむ。
アルフレッドの穏やかだったはずの表情はみるみる変わり、歯の隙間からチラリと赤い舌を覗かせた。
「かつて、彼女の左腕は僕の為に捧げられました。あの不自由な腕を見るたびに、唯一彼女の一部が僕のものだと自覚できる」
「何を、言っているの……?」
うっとりと陶酔するような口調に、ローズはゾッと血の気が引くのを感じた。アルフレッドは彼女に背を向け、自身の顔を掴むと、指の隙間から白い息を漏らす。
「もう自分を抑えられない、僕の仮面が剥がれてしまう。こんな顔を見せるわけにはいかないのに。だってまた怯えて逃げられたら、僕は手ずから彼女を壊してしまう」
ローズは目の前の男が、本質的にはあのエゼルバルドと変わらない事を悟った。
結局のところ、二人とも、獲物を狙うために人の皮を被った、獣にしかすぎない。
再びアルフレッドが歩き出したので、ローズは毛布を掴みながら、黙ってそれに続く。足を動かしながら彼女は、ぼんやりと在りし日を振り返る。
入学式の日に出会ったアルフレッドは、微笑んではいたものの、どことなく一線を引いていた。そんな彼から見え隠れする脆さと弱さに、ローズは母性本能を擽られたのを覚えている。
運命だと感じたのは、傷付いた彼を見つけた時。
正に天命。心踊るストーリーが始まる予感に、ローズには執着にも近い思いが芽生えた。腕の中に閉じ込めて、絶対に甘えさせてやろう、と。
だけど、隠れていた真の姿は、手に負えない化け物で、運命の愛とは名ばかりの、自身の願望を映し出した鏡を愛し、彼自体を見てはいなかった。
ローズは顔を上げ、先を行く背中に問いかける。
「最後に一つだけ聞かせて、アルフレッドは私の名前を知っているの?」
「ええ、無論。……君は入学式の日に、自ら僕に名乗ったのを忘れた訳ではないでしょう。どうして君は、そんな事を聞こうと?」
「やっぱりね。なんでもないわ、聞いてみたかっただけだから忘れてちょうだい」
顔を隠したいのか、アルフレッドは振り返ろうとしなかったし、言葉に従い、それ以上追及もしなかった。さも不思議そうに答えた声色から、彼が無自覚なのだと感じ、ローズは本当に愚かだったと自身を笑う。
初めて『リリー』と口にした時は偶然なのだと思ったが、二回目を耳にすれば流石に彼女も気が付いた。ただ、どうしても今まで認めたくなかっただけ。
全ての事に酔っていた。
物語の主人公になったつもりで悪を蔑み、有頂天になるなんて、到底正しい人間のすることではない。
その上、アルフレッドの言う通り、リリーが左腕に障害を抱えているのなら、不自然な動きに納得出来れば、嫌がらせの犯人だということすらおかしな話。
暴走して何度もリリーを傷付けてきたのは、曲がりなりにも、卑劣な行いを嫌悪するローズの強い正義感故だったが、今ではそれが強いからこそ、彼女は自分を責めていた。
真の意味での正義とは、誰かを傷つけるための矛ではなく、守るための盾であると、ようやく理解するに至る。
しっかりとした足取りで、彼女は大地の雪を踏みしめた。
折れかけていたローズの心に、一つの意志が芯となって芽生える。彼女はせめて最後まで筋を通し、正義の人であろうと決めた。
アルフレッドとローズのやり取りから、一ヶ月後の昼下がり。
談話室で本を読むリリーに、シャーロットは不満げな顔を向けていた。
「どうしてリリー様は、アルフレッド様のことを許してしまわれたのですか?」
「許すも何もないと言うか……。じゃあシャーロットは、私のドレスをローズが着れると思う?」
「え、ええと、何かの例え話でしょうか……どちらにせよ無理ですわ」
一般的に、貴族の娘達は、その人専用の型紙から起こす、フルオーダーでドレスを製作する。大量生産の既製品とは違い、唯一の人を最も輝かせようと考え抜かれたそれは、他人に融通し難い。
せめて、体格が同じであれば、不恰好だろうが着ることは可能だが、リリーとローズでは無理な話。
ローズの場合、アルフレッドの首筋を、去り際に自然な動作で撫でて遊ぶことが出来るのだが、リリーの自然な動作はつま先を浮かせることで、首筋を撫でるには中々不自然。
横からならば恋人同士の甘さを伴う動作でも、下からでは子供のじゃれ付きにしか見えないだろう。
ゲームのことしか考えていない彼女は、現状が全く見えていなかった。自分のために用意したドレスを、ローズに贈るのではと疑うなんて、被害妄想も甚だしい。
窘めてくれるアルフレッドがいなければ、どうしても暴走してしまう。
リリーは額を押さえ、ため息をついた。
「愛想を尽かされてもおかしくないくらい、私が馬鹿だったんだよね……」
「もうっ、はぐらかすおつもりですね。リリー様はアルフレッド様に甘いですっ! やはり、私がしっかりしておかないと!」
むくれるシャーロットの姿に、彼女には心配をかけてばかりだなと、リリーは苦笑する。彼女はリリーの態度に更に頰を膨らませた。
「誑かした方には、何か言ってさしあげましょうっ!」
「それもいいかな……」
「でも、あの人のことはリリー様もお嫌いですよね?」
遠慮なく嫌いなものは嫌いと言えるのがシャーロットの良いところ。リリーは彼女の態度に笑いを誘われ、朗らかな口調で答える。
「うん、正直に言うと嫌い、大っ嫌い。正義感が強くて真っ直ぐにぶつかる癖に、他人の言うことなんて聞きやしないし……でも」
彼女の容姿と名前は、かつてリリーがゲームで選択したものだった。そんな思い入れのある彼女は、自分が思い描いていた主人公とは全く違うのに、どうしても面影を重ねてしまって憎むことが出来なかった。
遠い日を想うように、リリーは目を細める。
「私の大好きな人にそっくりなの。その人とは別人だけど、それでも不幸になんて、なって欲しくないかな」
シャーロットは不満げに眉を上げて、じっとリリーを見つめるが、そのうち根負けしてしまった。
「もういいです。リリー様が嫌な女にも優しいのは、今に始まったことではありませんから……」
「そんなことはないと思うよ」
「……リリー様は、私達が友人になった時のことを覚えていますか?」
リリーはそんな事を今まで考えたことは無かった。ゲームの設定において、シャーロットはリリー唯一の友人なのだから、考える必要すら感じず、ただその友情を甘んじて受け入れていた。
シャーロットは、祈るように指を組む。
「私は本当に嫌な子でした。誕生日パーティーで主役だった私は、公爵令嬢として注目を集めるリリー様に、負けたくなかったのです。だから、こう言いました、“私は何でも持っているから、欲しいものがあるならお下がりをあげる”、と」
「そうだ……、私は “あなたのような凄い人に気後れしない友達が、私も欲しい”と答えた」
リリーは過去を無意識に口にした。記憶の片隅には、確かにその出来事が、感情を伴って焼き付けられていた。
シャーロットはクスクスと控え目な笑い声を漏らす。
「私達は似た者同士でしたから。でも、友達がいないなんて言えなくて、意地を張って“今日から私がお友達ですわ”なんて返してしまいましたの。本当に嫌な女でしょう?」
自嘲するシャーロットは、消え入ってしまいそうだった。リリーが見つめると、彼女は俯き気味の顔を上げた。
「こんな私と友達でいてくれてありがとう、シャーロット」
「っ!? こ、この流れでどうして、そうなってしまわれるのですか!?」
シャーロットは赤くなってしまった顔を手で隠すと、あたふたと狼狽える。そんな様子に、リリーは口元を隠して笑う。
「今年の夏期休暇だけど、フォスター伯爵領のビーチリゾートに連れてってよ。冬期休暇はエヴァグレーズ公爵領に招待するから」
恥ずかしがって悶えていたシャーロットは、その言葉で動きを止め、目を丸くする。彼女の様子に気付かず、プランを練りながらリリーは小首を傾げた。
「あれ、でも気温的には逆の方が快適かもなあ……」
「リリー様が、夏のご予定を口にされるなんて!」
突如上がった大声に、リリーは一瞬ビクリと身を強張らせた。
口を開けて驚愕したままのシャーロットに、彼女は不思議そうに尋ねる。
「私、変なこと言ったかな?」
「ずっと春以降の予定を、はぐらかしてらしたじゃないですか……。何だかリリー様が遠くに行ってしまわないか、不安でしたの」
シャーロットは少しだけ涙ぐむ。
リリーはこの一年より先のことを考えていなかったと、ようやく自覚した。なんとなく、自分には関係ない気がしていたから。
やはり、彼女はまだまだ目線が少し異なるらしい。
しょんぼりとした愛らしいシャーロットの表情に、リリーは堪らなくなった。
「心配かけてごめん。私はここにいるよ」
大きな瞳から、ポロリと涙が零れ落ちるのを見て、リリーは表情を緩ませる。
二人が談話室を出る頃には、彼女たちの夏と冬の予定は既に決まっていた。
だが、その日を最後に、リリー・エヴァグレーズはひっそりと学園から姿を消した。




