0505馬車の中で
長くてすみません。
あの夜から何度目かの朝を迎え、リリーは気怠げに目を覚ました。
エゼルバルドやジークの事で、何か手を打たなければいけないと、頭ではわかっている。それでも、以前にも増して、絆を深めた様子のアルフレッドとローズが連れ合っている姿を見ると、どうでも良くなってしまっていた。
かつて、あれほどまで心をなげうったこの世界に、飽きる日が来るなんて思ってもみなかった。それでも、自分の意識はこの体に縛り付けられているのだから、おかしな話だ。
そう一人自嘲しながら、リリーはシーツを抜け出した。
小気味良い寒気が肌を刺す。窓を見ると、霜で微かに白んでいた。
昨日で今期の授業も終わり、それぞれの帰路につく生徒たちで、寮内は慌ただしい。それも夕方になれば落ち着いて、静けさを取り戻すだろう。
シャーロットには冬の休暇もフォスター伯爵家で過ごさないかと提案されたが、リリーはそれを断った。雪に閉ざされて、静寂を保つことの出来るエヴァグレーズ公爵領は、気を休ませるのに十分に思われたからだ。
「私も早くここを発たないと……」
リリーは振り返り、身支度を始める。
ゲームでの今日は、エゼルバルドがリリーとの決別を決める日だった。
生徒が居なくなるのを見計らって、主人公を物置に閉じ込める。もしかして誰も自分には気が付いてくれないのではないか。その考えに、彼女は暗く閉ざされた闇のなかで怯え、寒さと恐怖で限界になった時、彼女は自身を最も愛する者に抱き締められ、助け出されるのだ。
エゼルバルドルートであれば彼が、そして今の状況であればそれは……。
リリーが必要とされるのはイベントのラスト。生徒会のメンバーに捕まえられた彼女は、主人公の前でエゼルバルドによって糾弾される事となる。
着替えを済ませたリリーは一人、馬車へと向かう。
エヴァグレーズ公爵家の紋章を携えた馬車に、御者の手を借りて乗り込むと、そこには先客がいた。
「久しぶりだな、リリー・エヴァグレーズ」
エゼルバルド。アルフレッドとよく似た顔立ちの彼は、全身の毛穴を逆立たせた。咄嗟に逃げようとするが、振り返るより早く外から鍵のかかる音が響く。
狭い馬車の中、リリーに逃げ場などなかった。
エゼルバルドは立ち上がると、目を細め彼女の腰を抱き寄せる。
「会いたかった」
「ヒッ……」
耳元で囁かれたのは、まるで恋人に向けるような台詞なのに、どうしてか膝が言うことを聞かなくなってしまう。支えられながら席に座らせられると、彼は対面の座席に、堂々と足を組んで腰掛けた。
「リリー、一度は婚約していた仲だ、俺と手を組まないか?」
「絶対にいや」
拒絶の意図を乗せてリリーが睨みつけると、些細な抵抗に対して、エゼルバルドは加虐心を煽られたとばかりに口元を歪めた。
「復讐は蜜の味……。アルフレッドに捨てられて、お前だって悔しいんだろ」
「やめて、私はそんなんじゃない」
「俺は腸が煮えくりかえりそうだったよ」
忌々しげに語るエゼルバルドの肩は震えていた。
「ローズは俺が最初に見付けたんだ、入学だって裏で手引きした。なのに何故俺を愛さないのか! アイツさえ居なければ俺のものになったのに!」
拳を壁に叩きつける音に、リリーの体が萎縮した。エゼルバルドは自分の顔を押さえると、爪を立てる。
「俺は絶対にローズを手に入れる。追い詰めて追い込んで、俺のものになるように。あの強い女が俺に泣き縋ってくれることを考えると、悦びに震えそうだ」
「そんなの愛なんかじゃない、あなたは狂ってる」
うっとりとした恍惚の表情で語るエゼルバルドに、リリーは蔑みの目を向けた。
愛されなかった子供は、愛し方を知らなかった。だって壊すことしか出来ない人だったから。
自身を否定する言葉に、エゼルバルドは気分を害したようだ。彼の顔から表情が抜け落ちいく。身震いをするリリーを見据え、エゼルバルドは据わった目で舌なめずりをすると、身を乗り出した。
「かわいそうなリリー、こんなに怯えているのに、アルフレッドが助けに来てくれなくて」
耳元に吐息をかけられ、リリーは顔を背けようとするも、腕に押さえつけられると容易に阻まれてしまう。エゼルバルドは、唇でリリーの首筋を掠めるようになぞる。その感覚に小さく声を漏らし、リリーは顔を顰めた。
「リリー、リリー、リリー、……あんなにお前になついていたのに」
「やぁっ……」
面白そうにアルフレッドの真似をして名を呼んだ後、リリーの目に溜まってしまった涙を、エゼルバルドは指先で拭った。
「壊れた玩具が直ったみたいで嬉しいよ。お前が俺の前で泣かなくなってから、弄ぶのもつまらなかった」
「……ッ」
「とは言え、いつの間にか左腕は、面白い事になってしまったようだが」
無邪気な声を掛けられると共に掴まれたのは、リリーにとって最も弱い部分である左肘。弱点を握られた事で、彼女は表情を引き攣らせた。
そんな様子はお構い無しに、エゼルバルドは掴んだ腕に緊張と弛緩を繰り返し与え、動作の確認がてら動かして遊ぶ。
「俺ですら分かった。だが、他事に必死で、お前の事なんて見ていないアルフレッドは気がついていない。ああ、もしかしたら単に興味が無いからか」
「……私が、隠してただけ。治ったって嘘をついたから……」
「健気だな、アイツのせいだろうに。これを盾に脅せば書面の上だけでもお前の物になったものを……」
アルフレッドに腕を捻られた事を思い出すと、涙が溢れた。もしかしたら、隠す必要も、嘘をつき通す必要もなかったのかもしれない。昔のように、もう彼が追って来ることもないのだから。
黙っているエゼルバルドが怖くなり顔を上げると、彼は取って付けたような慈愛に満ちた目を向けていた。
「奴をものにしたいなら、もう一度だけチャンスをやろう」
「痛ッ!!」
全てを理解し終わった手つきで捻り上げられた腕が、刺すような痛みを訴えた。なんとかエゼルバルドから距離を取ろうと身を捩ると、彼はようやく身を離す。
腕を庇って後ずさり、体を震わせながら必死の思いで睨むも、彼女の目からは涙が止まらなかった。
彼はゆっくりと手を伸ばす。リリーの顎を持ち上げると、そのまま指の腹で唇を撫でた。
「お前に選ばせてやる、俺の作った舞台で踊るか、踊らされるかを」
震える唇が言葉を紡ぐのを促すように、魔物は甘く囁いた。悪夢のような結末を。
「断頭台に登れば、罪悪感でアルフレッドがお前の後を追ってくれるかもしれんぞ?」
それは言葉の中の人物を、模した顔で笑っていた。
「いや、その顔で……笑わないで、やめ、て、離し、て」
「残念だよリリー、お前の意思であいつを傷つけて欲しかった」
エゼルバルドはそのままリリーの首に腕を這わすと、ゆっくりと力を込め始める。
リリーの体がビクンと跳ねた。込められる力はどんどん強くなっていき、ついには両腕でギリギリと締め上げられる。
「か、はっ……」
リリーは爪を立て逃れようとするが、それは叶わない。ひとしきり暴れた後で、彼女の体はガクンと力を手放した。
「まだ死ぬなよ。俺にはお前が必要だ」
嘲るように歯を見せるエゼルバルドを、リリーは薄れ行く意識の中で見ていた。やがて視界が暗くなり、光は消える。
彼女はこの沈むような感覚と、苦しみを、どこか懐かしく感じた。
ジンと響いた鈍い痛みの中で、リリーは目を覚ます。
目隠しをされ、後ろ手に縛られていたようだ。無理な姿勢をしたせいで、左肘が焼けるように熱かった。
「誰か、いないの……?」
真っ暗な闇の中で声を絞り出すが、返事はない。
「助けて……」
寒さには慣れてるリリーも、ここではガチガチと歯をならし、震えてしまう。
「誰か……」
自らの問いかけに、唯一手を差し伸べてくれそうだと思い当たる、人の良い笑みを浮かべた青年の姿を思い出した。でも、それは直ぐに別のシーンへと切り替わり、仲睦まじそうに並ぶ男女に置き換わる。
頭を振って考えを振り払うと、気力の限界に達し、ずるずると吸い寄せられるように再び横になった。
ただじっと身を横たえるだけでも、骨が擦りきれるかのように腕が痛んだ。
どれ程そこでそうしていたのか、誰かに抱き起こされた。
ぐったりとしたリリーから目隠しが外され、目の前では見慣れた金色の髪が揺れる。吸い込まれるような青い瞳はリリーの腕の拘束を真剣に見つめ、それをほどいていた。
「アル、フレッド……?」
男の表情は豹変し、口元を大きく歪め、ニタリと笑う。
「来い」
低い声で命令すると、リリーの左腕を握りしめ、歩きだす。
連れられて行ったのは、見覚えがある場所だった。生徒会の役員メンバーたちがある一点を見つめている。そこには、ゲームのワンシーンと抜き取ったかのように、エゼルバルドの代わりに、アルフレッドが力なく震えるローズを抱き止めていた。
その場にいた全ての人間の眼前に、エゼルバルドによってリリーの体は晒される。
「一歩遅かったようだな。この女が犯人だ」
「ッ、!」
捻るように捩じり上げられた腕が、痛いと叫ぶ。彼女への行動とは対照的に、エゼルバルドは慈しむような優しい表情をローズに向ける。
「先にアルフレッドが君を助けていて良かった。この女が居場所を吐いたので、直ぐに向かったのだが、怖い思いをさせてしまうなんて……」
狂言回しはかく語る。悔やむような声色は、彼が舞台の幕を切り落とした合図。ゲームのストーリーすら巻き込んで、彼の脚本が今ここで動き出す。
「すまない俺たちのせいだ。この女は過去、莫大な埋蔵量を誇る金鉱山を持つと嘯いて、枯れた鉱山を盾に、俺との婚約を迫るほど王族に固執していたんだ」
「そんなの嘘よ、金鉱山はどれだけ富をもたらしているか……貴方との婚約は王家からの強要じゃない! その婚約だって貴方からの破棄なんかじゃない、私が解消したのよ!」
全てを言い切ったリリーは、ハアハアと喘ぐように息をするが、全員の視線が刺さるように向けられ、顔に恐怖を滲ませる。その中で、ローズは生気を失くした表情をしながらも、リリーを憐れみの目で見つめていた。
その瞳に映るのは、嘘つきの嫉妬狂い。
「ちが、う……!」
リリーがローズに向けて声を荒げると、閉じ込められていた時の恐怖を思い出したのか、彼女はアルフレッドの腕を握りしめる指に力を込めた。リリーはその光景に羨みを覚える。
アルフレッドの表情知るのが恐ろしくなって、震えながら首を垂らし、視界から消した。
エゼルバルドは、なおも叫ぶ。
「ローズ、この女は君の情けが通じるような相手ではない。見ろ、この姿を」
「やめてッ痛い……痛いッ」
ゲームでのリリーは、エゼルバルドに腕を掴まれると、大袈裟に泣いて痛がるふりをしていた。それは誰の目にも明らかなほどわざとらしく、そうすることでその場を逃げ出そうとしているのが明らかだった。
誰にも知られる事もなく、彼女は自らの腕の中で、何か重要な部分が潰れて擦りきれるような音を聞いた。
誰も助けてくれなければ、誰の目にも映らない
誰もが彼女の役柄だけを信じ、見捨てようとしていた。ゲームの製作者でさえも、彼女を見捨てたのだ。それがこの世界の理だから。
存在が摩耗していくのを感じ、本人ですらも全てを受け入れ、流れに身を任せようと目を瞑る。
しかし、その時全ての意に反して、アルフレッドだけが真実を見抜き、動いた。
彼は拳を握り、溜め込んでいた怒りをぶつけようと、エゼルバルドに襲いかかる。余裕の表情を見せエゼルバルドは、掴んでいたリリーの腕を離すと、アルフレッドの拳をいなし、彼の体を叩き落とした。
支えを失ったリリーの体は、膝から崩れ落ちる。
鈍い音をたてて、床に叩きつけられても、アルフレッドは声も漏らさず直ぐに体制を立て直した。彼が再び立ち上がってエゼルバルドに飛びかかろうと、体勢を前に傾けた瞬間。
アルフレッドは自身の服が、後方に引かれた事に気がついた。
「リリー……?」
弱々しい力で彼を引き止めたのは、リリーの腕だった。
アルフレッドの服を掴んだリリーは、震えながら彼の目を見つめる。それは制止の意図ではなく、救いを求め、怯えて縋る弱々しい瞳。
アルフレッドは振り向くと、彼女の体を包み込んで安心させるように抱き締めた。
戦う意思を失くした事を知ると、エゼルバルドはため息をつく。
この結果が彼の脚本通りだったのか、そうで無かったのかを知るのは、本人のみの事となるが、これ以上茶番を続ける気は無いらしい。
「やはり、この女とは裏で繋がっていたのか。全く、愚弟の暴力癖も困ったものだな」
忌々しげに吐き捨てると、ローズの肩を抱いて歩き出す。ローズは口を開きたそうに二人を見つめていたが、エゼルバルドが進もうとする力には逆らえず、名残惜しそうに姿を消した。
そうして、一人、また一人とその場を去っていく。後にはアルフレッドとリリーだけが残された。
数刻後、二人はフルード公爵家の馬車の中で、静かに揺られていた。
虚ろな表情のリリーは、アルフレッドの胸に寄りかかりながら、体にかけられた彼のジャケットを握る。小刻みに震えだした指先に、先ほどの恐怖が蘇った。
アルフレッドはリリーの指を絡め取るとキスを落とす。握られた肌から馴染む体温に、凍えた身体は温まり、一筋の涙が流れ落ちた。
「左腕、治らなかったんですね。今まで、すみませんでした……」
その言葉に返事をせず、リリーは静かに力を抜いて身を委ねた。
アルフレッドは肩を抱える腕に力を込めて、優しく抱き寄せる。頭を撫でれば、彼女はゆっくりと息を吐いた。
安心して溶けるように胸に馴染んだ小さな体を見つめ、アルフレッドの唇が少しだけ震えた。愛する人が自身を求める心を感じ、覚えたのは、背筋を駆け上がるゾクゾクとした快感。
あれほどまでに守られることを拒んでいた体も、今では彼の腕の中。
望み通り彼を必要とし、泣き縋り、支えられなければ生きられないほどに、彼女は壊れかけていた。いっそ溺れるほどの愛で思考を奪い、腕に閉じ込めてしまいたくなる欲望を、必死に抑え込む。
アルフレッドは息が触れ合いそうなくらい近く、リリーに顔を寄せ、薄っすらと歯を覗かせる。
そうして彼は、思いを確認するように、そっと唇を重ねた。




