0504恋心
僕は何度目かの光景に、直ぐにこれが夢だと気がついた。
「アルフレッド」
夏の眩しい日差しの下、記憶に残る情景と全く同じ彩りで、リリーは柔らかに微笑んだ。心が擦り切れそうな時ほど、望んだ君はよく現れてくれる。
一人遊びにも似た慰みは、醒めればすぐに消え去って、気怠さだけが尾を引いた。
誰かはそれを悪夢と呼んだ。
期待して喉を鳴らすと、ゆっくりと腕が伸びてきて、ボタンの外れたシャツの合間へと、指先は滑る。触れられたところから熱を持ち、脳の髄まで溶けていく。
僕はその光景を、顔を覆った指の間から、惚けた瞳で見ていた。
リリー、君にとっての全てになりたかった。
僕にとっての君が全てと同じように、君の唯一になりたかった。泣き縋って助けを求めて欲しかった、僕を求めて欲しかった……。
押しつぶされそうになる欲望だけが、日を追うごとに増していく。
ゴクリ、と音をたて唾を飲む。
リリーの指は慈しむように、醜い傷跡を撫でた。
アルフレッドという少年は、もっと純粋な気持ちで君を見つめていたのだと思う。いつしかそれは、化け物みたいにとぐろを巻いて、心の中を這いずった。
「リリー……」
呼べばもう一度、彼女はたおやかに微笑んだ。
そっと、禁忌に腕を伸ばす。怯えさせたい訳じゃない、ただ、同じように僕の手に酔って欲しかった。
だのに。
頰に触れれば、皮膚はグズグズ溶けだして、指の間に漏れていく。そんな身体を抱き寄せて、噛みつくように唇を奪う。
そうして崩れきった君の残滓を握りしめ、あの時流せなかった涙を一筋だけ零した。
「アルフレッド、あなた最近なおさら顔色が悪いわよ、本当に大丈夫?」
その言葉を聞いて、ペンを走らせていた手を止める。そして、眼前の人物が自分に向ける感情を見定めた。僅に心配からくる不安の色が伺える。それに加えて、心を支配したいという欲望も。
機嫌を損ねられては困るのだが、踏み込んでこられても困るので、いつも通り教科書に載りそうなほど正しい笑みを作って、軽く遇らう事を決めた。
「ええ、僕は大丈夫ですよ」
微笑みというものは、他者との適切な距離を保つのに、極めて効果的である。
パーティーの夜以来、溺れるように生徒会の仕事へと没頭してきた。頭も心も空にして、考えないように、思い出さないように。そんな様子を見ると、常日頃から自身に対して暴力を奮ってきた人間さえも、満足そうな笑みを溢して去っていくほどだった。
それなのに目の前の女性はというと、その答えに納得しなかったのか、立ち去ろうとはせず、顔に触れようと腕を伸ばしてしまう。
「大丈夫です」
声を強めて、手で制す。
他人から触れられる事は好きでは無い。
衣服を通してですら嫌悪感が溢れ出す。肌に触れたがる傾向にある人間とは、精神的な負担の面においても、特に相性が悪かった。
時には吐き気をも伴うその行為、全身が理性で制御出来ない恐怖を訴え拒絶する。だって、温もりよりも先に覚えたのは、痛みだったから。
僕に触らないで、怖い、怖い、怖い、怖い。頭の中で子供が叫ぶ。
そんな事を知らないであろうその人物は、自信に満ちた口元で笑う。
「ねえ聞いてアルフレッド、私はあなたを愛してる」
「何度も言うように、僕には愛された経験がありません。だから、そんな感情を知らなければ、他人に対して抱く事もありえない」
予想通りの答えを待ってか、彼女は意味深な表情を向けた。
「違うわ、私達は愛し合う運命だったのよ。私の育ての母が、王宮で第二王子アルフレッド、あなたの乳母をしていたの」
振りほどき損ねた腕が手を掴んで握る。掌にじんわりと汗がにじむのを感じた。
「私の母からあなたは愛されていた。幼いあなたも懐いて、『かあさま』と呼んでいたそうよ」
「そうですか」
ニコリと微笑んで、望まれる答えとは違う言葉を返した。どうやらあの夜以来、反吐が出るような台詞を吐いてきた唇は、上手く動いてくれないらしい。
今までとは違う扱いに、彼女は少しだけ不満げな顔を晒し、ようやく身体の一部を解放した。
過去を示されたところで、古い記憶を思い返すも、痛み以外はよく思い出せなかった。そんな思い出があれば、ここまで一人に固執することも無かったのかもしれないと、内心一人苦笑する。
「一目で良いからと、会いたがってるの。私と一緒に会いに来て、思い出すかもしれないわ」
「僕は他人に対して興味が持て無いんです」
「じゃあ、あなたにとって『他人』じゃないのは誰?」
誰かと問われ思考する。焦げ付きそうになるほどに、たった一人を求め続けた。
恐怖で閉ざした心を溶かし、唯一温もりを知れる人。焦がれるほどに思い出す、傷つけてしまったあの顔を。ギリッ、と音を立て、唇を噛む。
「ねえ、私は気づいてしまったの。あなたはあのリリー・エヴァグレーズが好きなんでしょう?」
その言葉で、張り付けていた笑顔が急に崩れていく気がした。『好き』と表現するには歪すぎるこの感情を、誰かに晒されたくなんて無い。
「でも私は、あんな卑怯な人に、アルフレッドを渡したくなんて無いの」
「リリーは……そんな人間じゃ……」
俯いて小さく反論しようとすると、両の手で顔を捕らえられ、無理矢理前を向かされる。
ぞわり。冷たいものが背筋を這うように蠢いた。筋肉が硬直を始め、呼吸の回数が増えるに反して、息が詰まっていく。
「私の側にいてくれるのがどんな理由であれ、あなたが私の隣にいる限り、私はあなたに愛されようと努力するわ」
「僕の目的の為には、君を守らなければいけなかった……、だから側にいただけです」
腕から逃れたところで、燃えるような瞳に見つめられ、自身が食われる側なのだと知る。
大切な人を守るために、主人公を守らなければならないなんて、とんだ皮肉だった。
それでも、求められるままに吐いてきたのは、お望み通りの甘い台詞。好意を向けられているのは、最初から気がついていたけれど、腕の震えを止められず、自身の弱さを知ったことで、初めて態度を変えた。
最悪の事態を回避する手段は、一つでも多いに越したことはないのだから。
馬鹿らしいゲームなんて存在を認めた事はないけれど、処刑と聞いたら話は別だった。婚約を解消していたとしても、邪魔だとあらばやりかねない。
だが、愛する人を目の前で掠めとる事をチラつかせば、元婚約者だなんて他愛もない存在は簡単に忘れさせられる。本当に処刑なんてものを行おうとされた時の為、自らを身代わりに、対象だけは入れ替えておきたかった。
敵と戦って勝てないような価値の無い命でも、それさえ出来れば意味は有る。
だのに、守りたかった人を最後に傷つけてしまうのは、いつだって自分自身の手なのだから、真の意味での敵が自らだと知る結果となっただけ。
一体何を望めばそうなってしまうのか、本当にお粗末な結末は、馬鹿な男にこそ相応しい。
そんな自嘲が顔に出たのか、目の前の瞳が嬉しそうに揺れた。
「馬鹿ね、今だってあなた何かに期待して、私から離れられないのだもの。その事実だけで十分よ、私の騎士」
勝ち誇った笑みでゆっくりと体を抱きしめられると、再び背筋を冷たいものが這い回る。それで終わらず、彼女は首筋にキスを落とそうと唇を寄せた。
「ヒッ……」
回る、回る、天地が揺れる。こみ上げる酸の味はいつだって喉を焼く。反射的に口元を押さえた腕は、図らずもその人を胸に抱きしめ返す形となった。
知らなかったとはいえ、精神的に追い詰められた状態の人間に、甘言を囁き続ければ、こうなってしまうのは無理も無い。それでもしも、あの男と同じように、自分がこの人を壊してしまったのだとしたら、どんなに憎んでいたとしても、結局は同類ということなのだろう。
そんな他人事のような考えを抱きながらも、この状況から赦される事を願う。
ようやく定まりかけた焦点の先、ガラスの向こう側にいる件の男と目が合った。
彼が自身に対し憎悪の感情を向ける事に、なんの疑問も抱かない程度には慣れてしまっていたし、壊れていた。
だけど、人の気配にも、感情を向けられる事自体にも敏感なはずなのに、それを植え付けた当の本人の接近に、ここまで気づかないなんて、過度の接触と疲労によるものなのか。
彼の目線から、自分を抱き締める女性への、愛憎のこもった感情が分かる。そうして、自分へ抱いていた憎悪を、彼が別の相手へと向けたのを感じた。ゆっくりと持ち上げられた唇の形作る表情を察し、逃げ続けていた現実へと意識が急速に引き戻される。
ぼやけていた視界が、クリアになっていく。
目の前では、溢れんばかりの悪意を纏ったエゼルバルドが、アルフレッド越しに獲物を見定めていた。
「そういうことか……」
光の戻った瞳で、アルフレッドがポツリと漏らした。
エゼルバルドが望む結末は、絶望に沈んだ中で迎える弟の自死。
今も昔も、エゼルバルドはアルフレッドを通して、その心の先にいるリリーに標的を定めていた。確実に彼の心を蝕むためだけに。
許せない、とアルフレッドは腹の奥底が焼ききれそうな熱を感じた。
かつて、心の底から欲した人を目の前で弄んで、見せつけるように所有していた男。その男が今度は彼女の命までも、手にいれようとしていた。
ジクジクと広がる疼きに、笑顔の下にひた隠しにしていた劣情が剥き出しになる。
――――お前にだけは渡せない、僕のリリーは渡さない。
アルフレッドは目を閉じて、フッと短く息を吐くと、口元を歪める。そうして瞼を開き、かつて自身が恐れた男を見据えると、彼が愛する女性を見せ付けるように両腕で強く抱き返した。
キスの部位と意味。
髪→思慕
首筋→執着




