0309アルフレッドの独白
すみません長いです。
分割すると流れが途切れるのでやめました。
幼い頃、僕の人生はリリーによって救われた。
『僕』という人間を語るにおいて、暴力は切り離せないものだった。
物心ついたときには兄から虐げられ、毎日ただ生きるだけ。思いつきで身を焼かれる日もあれば、毎回のように様々な痛みに耐えていた。
誰も助けてはくれない、誰の目にも映らない。憎しみという感情だけを一身に受けて、僕という存在はただ、摩耗するだけのものだった。
そんな日々が変わったのは僕が8歳になった頃、兄が彼女と婚約をした日。
リリー・エヴァグレーズ。
彼女は家族から愛されて育ったとしか言い様の無い少女だった。自分とは全く異なる存在に驚いたが、それは兄も同じだったようだ。
今に思えば、兄からの行為に性的なものが含まれなかったことだけが、彼女にとっての幸運だったのかもしれない。当時の兄の苛立ちは酷いもので、力で完全に支配し尽くそうとしている事が理解できた。
兄にとっては贄が二人に増えただけだったが、その日から僕の人生は花が開いたように変化した。
僕が殴られればリリーは殴られない、僕が蹴られればリリーは蹴れない。彼女を守る事で、つまらない僕の人生にも意味があったのだと、ただ嬉しかった。
リリーに代わり兄の暴虐を受け止める時、彼女はいつも同じ目をしていた。それに伴う感情の意味を僕はまだ知らなくて、名前をつける事は叶わなかったけれど、彼女が向けるその目だけは、いつだって僕を見てくれていた。
そして、彼女が与えてくれた常人よりも低い体温によって、僕はようやく人の温もりを知る。
傷ついた僕を慰めるかのごとく、頰を撫でてくれた手。彼女の手に僕の心は完全に溶かされてしまった。
自分から触れるなんて事は、壊してしまいそうで出来なかったけれど、肌から伝わる暖かさ、あのとろけるような幸福は忘れられない。
そんな年月を重ね、僕に大切なものが出来た事を知った兄は『あの日』、悪魔のように囁いた。「アイツを守りたいのなら、選ばせてやる」と。
僕がリリーを壊すのか、それとも兄が壊すのか、選ぶ事を許されたのはそれだけだった。
二歳年上の兄は恐ろしく、残虐で何をどう破壊するか分からない。それをされるより、自身が彼女を痛め付けた方がマシなのではないか。
だって僕はリリーを守らなければいけないのだから。僕がしなければ、より酷い事をされてしまう。守れるのは僕だけだ。だから、だから……。
そうして、唯一守りたかった彼女を僕はこの手で傷つけた。
はたと瞼を開くと、天井が映る。
どうやら昔の夢を見ていたらしい。アルフレッドはそう気がついて、目尻にたまっていた涙を拭う。
リリーを背負って体力の限界まで斜面を登り、眠ってしまったようだ。横では、アルコールの抜けきっていない彼の大叔父、フルード公爵が椅子に腰掛けたまま船をこいでいた。
「叔父上……」
アルフレッドが呼びかけるも、返事は無い。
起こすのは気がひけるが、風邪をひかれては困る。老体のフルード公爵は、体調を崩せば拗らせてしまうだろう。
「フルード公」
もう一度呼ぶが返事はない。
「フェリック……」
「ッ!!」
突如目を見開いたフルード公爵は、心底驚いた顔でアルフレッドを凝視した。息は荒く、瞳には怯えの色が伺える。
ああ、またか、とアルフレッドは醒めた目で彼を見た。
基本的に、フルード公爵はアルフレッドに対して良くしてくれているが、時折こういった表情を向ける。彼にはフルード公爵が、自分に似た誰かに怯えているのか、それとも自身の中に兄と同じ様な怪物でも見つけてしまったのか、分からなかった。
「ご心配をおかけしました、僕は大丈夫です。お風邪を引かれるので、ベッドに移りましょう」
「アルフレッドか……」
フルード公爵は失態を恥じる様に髭を撫でる。彼の目に映る怯えの色も、いつの間にか消えていた。
「僕はリリーのところへ行ってきます」
「待ちなさい、アルフレッド」
ベッドから立ち上がろうとするアルフレッドを、フルード公爵は手で制し、彼の行動を止めた。
「彼女が心配なのは分かるが、もう無茶をしないでくれ」
「無茶をしたのはリリーです、死にかけたのも彼女です」
フルード公爵の静止を振り切り、アルフレッドは今度こそ立ち上がる。自分の命をまるで使い捨てのように扱うリリーの態度を思い出すと、彼は腹の底に弾けんばかりの熱を感じた。
――――どうやら、今までどうやって笑顔を作ってきたのか、思い出せそうにない。
今までとは全く異なる空気を纏った少年は、獣に銃口を向けた時と同じ目をしていた。
コンコン、と軽いノックの音を響かせて、アルフレッドは入室の許可が下りるのを待つ。「どうぞ」、と促され部屋に入ると、リリーが寝かされたベッドの脇には、彼女の父親、ネイサンが椅子に腰掛けていた。
「気が付かれましたか、殿下」
「ええ。……リリーの様子はどうですか?」
「さっきまで意識があったのですが、何故かまた眠ってしまったようです」
「そうですか」
アルフレッドは静かに彼女を見つめると、口元が強張っているのに気が付いた。彼は自身の心が酷く冷たくなっていくのを感じる。
寝たふりで誤魔化されてやろうだなんて気持ちが沸かなければ、優しく接する気分でも無い。
彼と共にリリーを見つめていたネイサンが、ため息をついた。
「娘を救って下さってありがとうございました」
その口調はいつものものと、別段異なるものでは無かったが、彼が膝の上で握りしめていた拳は少しだけ震えていた。
「腕に後遺症が残るかも知れませんが、生きていてくれて良かったです」
アルフレッドがリリーの腕に視線を落とすと、彼女の色素の薄い肌はどす黒く変色していた。彼は唇を噛む。
その心情を察してか、ネイサンは立ち上がると彼に席を譲った。
「私は倒れた妻と、ほったらかしの下の子たちも心配なので、少し席を外します」
憔悴しきった背中を丸め、ネイサンはそのまま部屋から出ようとするも、扉に手をかけながら、一度肩を竦めた。
「私より、殿下に叱って頂いた方が娘も堪えると思いますので、よろしくお願いします」
ゆっくりとドアが閉まった後、アルフレッドは視線を戻すとベッドに椅子を寄せる。そして、それに腰掛けると、彼は指を組み、黙って彼女を見下ろし続けた。
「お父様の裏切り者……」
耐えきれなくなったリリーが、顔を隠すようにシーツに潜り込む。しばらく沈黙が続いたが、先に彼女の方が諦めた。
「出ていって……」
「お構い無く」
シーツから少しだけ覗かせた顔にアルフレッドはニコリと微笑んだ。いつも通りの笑みの出来栄えに、なんだ、自分はちゃんと笑えているじゃないかと、彼は内心一人で自嘲する。
怪訝な顔で呟かれた「どうせいつもの愛想笑いのくせに」、なんて恨めしそうな文句すら、賞賛に聞こえるほどだった。
「もう協力も何もいらないから、私の事は放っておいて」
「君がリリーじゃないから、ですか?」
「……そうよ」
アルフレッドは雪山での会話を思い返す。あの時、彼女は自身を『リリーでは無い』、と言った。自身に関する死の記憶がないから、ずっとゲームをプレイしている気分だったとも。
「君がリリーでないなら、どうしてリリーの記憶があると言うのです」
「えっと、熱で頭が回らないから、上手くは説明出来ないかもだけど」
彼女はのそりと起き上がり、「例えば、そうね……」と語りだす。
「仮にアルフレッドの体で、私の記憶と意識がある人間は誰だといえる?」
「いくら外身が僕だとしても、本質を問えば意識こそが個、つまりそれは君です」
「じゃあ、アルフレッドとしての記憶を持つ体に、私の記憶と意識を入れたらそれは誰になる?」
アルフレッドは顔を陰らせる。
彼女の言ってほしい言葉は読めていた。二つの記憶を持っていたとしても、持っている意識こそが当人であると決めつけたいのだ。だが、彼はその意見には同調しかねた。
そもそも意識なんてものは記憶から派生したものに過ぎない。感情が長い年月で積み重なった記憶、その軌跡こそが意識だとアルフレッドは考える。過去の感情を記憶で思い起こせるならば、その人の意識も有することになる、と。
二つの記憶を有する人間、そんな人物の今に顕現する意識が誰であるのかなど、断言出来はしない。
彼が黙ってリリーと目を合わせると、用意していた答えを言わない事に彼女は焦れていた。
「気づいた時にはリリーの意識はいなかった。だから私はリリーじゃないの」
「いいえ、強いて言うなら混ざり物です。第一、今の君はリリーとして生きている、そんな下らない理由で死ぬ事は認められません」
彼女は『あの日』以来、会話をしていると脈絡もなく、普段の話し方とは異なる勝気で大人びた物言いが飛び出すようになった。
はたから聞けば、違和感を覚えかねないまだらな口調。されど、彼女の話す過去の記憶とやらが与えた影響によって、性格に変化を加えたと言われれば、アルフレッドも許容出来る範囲であった。
以前の面影を残し、自身に笑いかける少女が、過去と現在を否定して、どうして簡単に死ねると言えるのか。
この世界の視点に立つアルフレッドには、理解出来なかった。だが、彼が立ち位置を変えた時、思考は一つの答えを導き出してしまう。
「そうか、君には死に際の記憶が無いんじゃない、そもそも死んではいなかった」
「ええ、気がついたらこうなっていた。だから自覚は無くても、まるで……」
「まるで、リリーという入れ物に、意識が閉じ込められたかのように、君は感じている……」
アルフレッドは彼女の言わんとする言葉の先、そしてその意味までも察して、だらだらと脂汗が流れるのを感じた。
これ以上彼女に喋らせてはいけない。自身の推測が正しければ、それを否定する言葉をアルフレッドは持たないのだから。
「リリーが死ねば、私の意識は元の世界に帰れるのかもしれない」
ここはゲームの世界だから、クリアさえ出来れば、あとはどうでも良い。自分には元の世界があるのだから、早く終わらせて戻るだけ。
彼女は場当たり的に何かを考える事はあっても、強い感情に気持ちを揺さぶられる事もない。だからこそ、あれだけ心を切り離して行動ができる。だからこそ、後に残る人のことなど考えない。
人の気持ちに疎いと思っていた少女は、理解出来ないのでは無く、そもそも考える事をしていなかった……自身の感情ですらも。
アルフレッドの肩からガクリと力が抜けて、ひりついた喉は唾を上手く飲み込めなくなる。
絶対に止めなければならない。このままでは、結果だけを考えた瞬間、リリーは確実に死を選ぶ。だけど、彼にはもう感情で縋るより他の選択はなかった。
「この際、君が誰かはどうでも良い……でも、リリーを死なせる事だけはやめてくれ」
「お願いだからやめてくれ」、と何度も懇願するように絞り出す必死な形相のアルフレッドに、彼女は初めて困惑の色を見せる。
彼にはもう体裁を整える余裕なんて無い。自身の思いが彼女をこの世界に繫ぎ止める楔になれば、ただそれだけで良かった。
「リリーは僕の人生を救ってくれた、だから何だって力になる。お願いだから、僕から君を奪わないで……」
「私の意識が芽生えた時に、リリーはアルフレッドを救って欲しいと願っていた」
どこまでも他人事な言い方に、アルフレッドは動きを止めた。肩で息をする間に彼女は言葉を続ける。
「リリーが虐げられるあなたを憐れんで、守ってあげたいと思っていたから助けただけ。だから恩を感じる事もないし、そんなことを気にしなくて良いの」
「あわ、れ……?」
アルフレッドの見開かれた瞳は、みるみる絶望に染まる。
『あの目』が向ける感情の意味を知り、自身の存在価値を根源から失くす。
ただ守っているつもりになっていただけ。
「うっ、あぁ……」
口元を押さえるも、込み上げてくる胃液に嘔吐いて涙が落ちる。
耳から入る全ての音が、鈍って捻くれ脳を刺す。
『自分の好キに生きレば良イの、アなタには関係無イ事。工ゼるバるドの事は私ガ一人デなんと力すルかラ』
頭の中でガンガンと反響した声は、彼にとっての死の宣告。彼の兄、エゼルバルドと対峙すれば、今度こそ本当に彼女は壊される。
その結末を想像するだけで、アルフレッドは息をすることさえ上手く出来なくなってしまう。呼吸は回数を重ねるごとに、息苦しさのみが増していく。
『ゴメんなサイ、もット早くにアな夕を突き放スべきダっタ……』
彼女の向ける『あの目』に、無能さをさらけ出される様で怖かった。
真っ青な顔で視線を逸らせば、落ち着かせるように抱き寄せられた後、頰を撫でられる。自分よりも幾分低い普段の体温とは違い、自壊寸前まで熱くなってしまった彼女の熱を感じて、アルフレッドは再び涙を零す。
絶対に死なせたくなかった。
少女を守る騎士でありたいなんて幻想は、簡単に砕け散った。それでも彼は、どれだけ拒絶されようと、この温もりだけは奪われたくなかった。
目眩を伴った屈辱と、胸を潰すような痛みを抱え、アルフレッドは奥歯をギリギリと強く噛む。
――――ああ、僕から君を奪うと言うのなら、僕は君すらも敵に回そう。
口の端からだらりと垂れた唾液は、酸の味がした。
俯いたまま口元をぬぐうと、ゼエゼエと鳴る息の合間に焼け掠れた声で問う。
「ッ、それが……、君が僕に、隠してきた、全てですか」
「……ウン」
小さく一言だけ返したリリーの表情を、彼が見上げることは無かった。
アルフレッドが静かにリリーの部屋から出ると、廊下の先からは怒気を孕み、物言いたげな、オリバーが近づいてきた。姉の怪我に関して批難したかったのだろう。
されど、寄ったところでアルフレッドの顔を見上げると、表情を変える。
「使えよ……」
彼は自身のハンカチを押し付けると、目をそらして去って行った。
アルフレッドは手の中のそれを見つめると、怒りをぶつけるように荒々しく握った。




