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0307b怒り

骨を伝って全身に響く鈍い音に、リリーは自身の左腕が砕かれたことを理解した。

衝突の衝撃で雪にのめり込んだ小さな体に、黒い狼は体重をかけてのしかかる。そのまま首を振るって腕を引きちぎろうとするも、彼女の右腕がたじろぎもせずそれの頭部を抱え込んでいる為、叶わない。


周りを囲んでいる獣たちは、思わぬ反撃に怯んだのか、飛びかかろうとはせず、頭を下げて尾を落とす。漂う色は困惑だった。

使えぬものはいらぬとばかりに、ただ一頭だけが目の前の少女を死に至らしめようと死力を尽くす。角度を変えて幾度となく加えられた攻撃に、リリーの関節は強靭な咬合力でひり潰された。




目の前で繰り広げられる光景に、雪に埋もれたアルフレッドは己の無力さで全身の血が凍りつく。


「あぁああぁっ……」


本来ならば、彼がああなっていた。

代わりに身を捧げた少女、絶対的な力を持つ獣物ケダモノ、非力さで生かされた臆病な自己、受け入れがたい絶望を前にして、生まれた感情は怒り。

彼は目の色を変えた。


「ッッ……!」


倒れた姿勢から膝を立て、リリーを食い殺さんとする狂獣に標準を合わせる。

引き金にかかる指先は、もう震えていなかった。


――――ドンッ。


狼と少年、二つの瞳が交差した。

獣は体を強張らせ、初めて怯えの表情を見せる。狩る側から狩られる側へ、それは一瞬の事だった。ドロリとこぼれた血液が、熱で雪を溶かして真っ赤な染みを作る。

金の瞳は光を失い、食らい付いた腕を放さないまま、黒い体は力を失った。


「リリー、しっかりしてください!」


彼がもう動かなくなった肉の塊を退かすと、リリーは折れた腕を庇いながら立ち上がる。

それを見ていた残りの群れは、勇敢なリーダーを失った事への戸惑いを見せた。

二人の子供を勝者だと認め一頭が去ると、それに続くように残りも一頭、また一頭といなくなる。最後の一頭だけは去り際に一度振り返ったが、遠吠えを上げるとすぐに雪山へと姿を消した。

それらを見送った後、アルフレッドに寄りかかるリリーの体から、ガクリと一気に力が抜ける。


「お願い、折れてるから適当な木で固定して……」

「……ッ!」


わずかに血が滲んだ防寒具は、分厚さのお陰かほとんど牙は通らなかったものの、ズタズタに引き裂かれ、中身も飛び出していた。腕を食いちぎられなかったことの方が、驚きと言えよう。

アルフレッドは、自身の防寒着の下に着ていたシャツを破いて、リリーの左腕の固定に使う。触れれば、彼女は呻いて口元を歪めた。


「痛く、なってきた……」

「痛まない方がおかしいです」


興奮が覚めて、忘れていた痛みが来たようだ。彼女は歯を食いしばり、声を漏らすまいと耐えた。

負傷したリリーを庇うよう歩き出そうとするアルフレッドだったが、目を見開いて動きが止まる。


「嘘だ、ありえ、ない……」


目線の先にあるものは、倒れている黒狼の首元に刺さっているナイフだった。

動きを止めたアルフレッドに、リリーは表情を変えずに口を開く。


「ああ、あれね。コリンズの投げたナイフ、右腕に持っていたの」


あの状況下で彼女は、アルフレッドが的を外し狼に引き倒された瞬間、二人を囲む群れが一斉に襲いかかってくると判断した。だからこそ、左腕を囮にして一騎討ちを狙ったのだ。

ヒクリ、と口元をひきつらせたアルフレッドの様子に気づいたのか、リリーは何とでも無いかのごとくヘラヘラと笑う。


「でも撃ってくれて助かったのよ? 銃声で群れが散ってくれたのかも。ボスを倒しても他の狼が逃げ出すかは、賭けだったから」

「どうしてこんな事が出来る!!」


アルフレッドが吼えた。


「普通なら判断出来ても実行なんて出来ない!」


彼の言い分はもっともだった。どんなに最適な考えも、恐怖で震えては行動出来ない。無用だと感じたのか、彼女は表情を作ることを止めた。


「それより日が暮れたらまずい……早く戻らないと」

「誤魔化さないでください」

「話す、話すから。でも本当に早く戻らないと命に関わるの」


アルフレッドは苦い顔でリリーを睨むも、従うより他は無かった。これ以上気温が下がれば、負傷した彼女は確実に夜を越せない。

転げ落ちてきた長い坂を見つめ、彼は足を踏み出した。ようやく進む事を了承してくれた事に安堵したのか、彼女は短く息を吐く。


「思い返せば、私は最初からゲームをプレイしているとしか思えなかったのかもしれない」


ポツリ、ポツリと、彼女は語る。


「私は死んでも良かったの。それでコリンズとシャーロットが婚約する事は無くなるだろうから」

「そんな事になって、残された人たちはどうするんですか……」

「残りの攻略対象者を救えるのは主人公、だから私がいなくても大丈夫」


アルフレッドは目を逸らす。

彼の意図は伝わらなかった。彼女の身に何かあれば、エヴァグレーズ公爵家の者だけではなく、シャーロットや、それこそアルフレッドだって悲しむというのに、何故それが理解出来ないのか。どうして彼女は現実を見ず、ゲームなんてものにしか関心を抱けなくなってしまったのか。

ギリッと音を立てて強く歯噛みする。

それっきり彼女は喋る事を止めてしまったが、大粒の汗を浮かべた真っ青な表情を前にして、言葉を続けるように強いる事は出来なかった。




リリーの痛みで覚束ない足取りは酷く危うい。普段とは違い、何度も雪に足を取られて、なかなか進むことが出来なかった。踏みしめた彼女の足が、ズボリとまた雪に沈む。


はあはあ、と上がる息に、彼女は視界がぐらつくのすら感じていた。貧血でも起こしたかのように思考は上手く纏まらず、目の前は暗くなる。

おかしいな、出血はほとんどしていないはずなのに。

リリーがそう思いながら左腕を見ると、服の下では限界までギチギチに腕が腫れ上がっている事がうかがえた。おそらく内部で出血をしているのだろう。

汗がまた噴き出した。


自身を抱えるアルフレッドに目を向けると、彼は肩で息をしながら、色が消えた表情で彼女の足元を見つめていた。消耗してはいるものの、彼の体力はまだ残っている。そこから結果を見極めた彼女は、自身を切り捨てる事を決めた。


「一人で行きなさい」


アルフレッドは何かを耐えるように顔を歪ませる。黙ってリリーの足を雪から引き抜くと、彼女を抱える腕に力を込めて、また歩くように促した。


「私を助ける必要は無いのよ……」

「いいから、黙って歩けッ!」


立ち止まったまま足を動かそうとしないリリーに、アルフレッドの言葉は荒くなる。彼女は俯いて目を逸らすと彼の腕を振り払い、その体を突き飛ばした。


「騙すつもりは無かったの、私も最初は気がつかなかった」

「リリー、もう喋らないで……」

「私はリリーなんかじゃない……」


どういう意味かと問おうとすれば、彼女は顔を上げないまま言葉を続ける。




「だって私には、自分が死んだ時の記憶が無いのだから」


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