水は金から生まれるんだ。これ五行の知識だよ。
「あれが執事の穴です」
カイトが示す建物は立派な洋館であった。あそこには嫌というほど長くいたのにその外観を見る機会はあまりなかった。当時はどこが『穴』なのかと思ったが、実際は魔法などで盗み見されぬように結界を張った地下道で訓練をしていたから『穴』という表現が正しい。
「しかしウマさんにどうして推薦状を……悪い意味ではなく、ウマさんは『執事』向いていないと思うのですが……。『バトラー』がミスをするとは考えられませんから何かを見出したのでしょうけど……」
馬車の中でカイトが首を傾げていた。この時に『実は偽造品です』とひき返せばよかったのだ。
----ああ、そうか今日もまた永い夢を見せられるのか。
屋敷に着くなり、身なりの良い初老の男性二名が私たちを出迎えた。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件でございましょうか?」
微笑みを絶やさぬ二人の物腰は非常に柔らかだった。
「……」
逆に横のカイトは非常に緊張した面持ちであった。この時はカイトであっても初めての場所では緊張するものだと思っていた。しかし、先代バトラーと同期のこの二人は当時の私たちからすると逆立ちしても歯が立たない達人たちだったのだ。しかも柔和な態度とは裏腹に入門者を試そうと強力な殺気も放っていた。当時の私はそれに気が付かずお気楽に応じていた。一方のカイトはそれを敏感に感じ取り緊張していたのだ。ただ推薦状の交付を受けるレベルの者ならば、それを感じ取れるのが当然なのだ。推薦を受けながらも感じ取れないというのはあり得ないことだった。したがって、その様な剣呑とした空気の中でも平然としていた私は傍目にはさぞ大物に映っていたことだろう。
達人二名も私の態度に首を傾げた。いや、普通の人が見ても二人の微妙な変化を感じることはできなかっただろう。今の私だからわかる微妙な変化だった。実際、当時の私は当然のこととしてカイトでさえもその変化を見落としていた。
「えっと、『執事の穴』というのはこちらでよろしいのですか?」
二人の殺気に呑まれて動けなかったカイトに代わって私が聞いた。この時は動かないカイトを不思議に思ったものだった。
「……『あれ』はお持ちでございますか?」
凄まじい殺気が飛び交う中、当時の私は柔和な笑顔に騙されてリラックスしていた。
「『あれ』?」
本気でわからなかった私の隣でカイトが慌てた様子で懐をごそごそとまさぐった。そこでようやく推薦状だとわかった私もそれに続いた。
「ふむ、魔法力は一切検出されず。どうやら真正の推薦状に間違いないようですな」
推薦状を眺めたり臭いをかいだり、よくわからない液体を垂らしたりと小一時間ばかり調べていた執事が出した結論である。
「もっとも盗もうと偽造しようと資格を有さない者ならば訓練についてこられませんから本来は推薦状など不要なのですが」
もう一人の執事が二つのバケツを持ってやってきた。彼の言葉は明らかに私に向けられていた。実力を読みあぐねているうえに“狂っている”とも評価できる“執事の資質”に疑問を抱いていたのだろう。この時ならまだひき返せたし、この後のことをしなければ遠からず追い出されていたはずだった。
「『執事の穴』への入門前に簡単な試験を一つやって頂きます。有名な試験ですし、肩の力を抜いて軽い気持ちで受けて頂いて結構です」
執事はそう言って私たちそれぞれの前に置かれた水の入ったバケツに純金製の釘を三本ほど落とした。
「お二人にはこの釘を水に溶かして頂きます。制限時間は一時間。……ですが簡単な儀礼的なものですし三十分にしておきましょう」
そう言って二人の執事は互いに笑った。
水の性質を変えるのだろうか? 魔法ならできるのか? 物質変換をすればできるけど……。などと悩んでいたはずのところに追加の注意事項が発表された。
「水は水のままでお願いします。水に溶かすことに意味があるのですから。同様に金を魔法で直接溶かすのも禁止です。それでは水に溶かしたことになりませんから」
それを聞いた隣の執事が苦笑いを浮かべた。
「毎回そのような無意味なことをする者が出ますので、一応は注意させて頂きました」
そう言った執事は苦笑いをしている執事の方を見ていた。
そして私はこの時点で気が付くべきだったのだ。
カイトはバケツと睨めっこをしていたが、やがて意を決したようにバケツの水を沸騰させ始めた。水の沸点は一気圧時で100℃。金が熱に弱いかどうかは知らないがさすがにその温度では溶けないだろう。……だがそれが正解だったのだ。当時の私は愚かなことに「金の様な柔らかいもので釘の役割が果たせるのだろうか?」などと真剣に悩んでいたのである。そして当然のことのように金は水に溶けると思っていた。
鉄なら多少は溶ける。いわゆる錆である。金は安定性が高くほとんど溶けない。通常状態では金が水に溶けることはないと言っても差し支えないだろう。だが、弟に叩き込まれた受験とは関係なく、体系だってもいない無意味な知識のせいで溶かしてしまったのだ。
その時の私は唾を一滴バケツに垂らした。そしてナノマシンを利用して水に超高圧を加えながら加熱していったのだ。バケツを破壊しない様にバケツと触れている外周部の水は変化しない様に操りながらである。
超高温・超高圧の液体とも気体とも言えない超臨界流体となった水は金をも溶かす……そして小学生の時に知っていたよと得気な表情まで作ってしまった。全くの馬鹿である。
「それではそろそろいいですかね」
執事の一人がそう言ってカイトのバケツを覗いた。
「なるほど。熱してみたところ水だけ蒸発して釘は残ったということですね」
そしてカイトも仕方がないと軽く鼻で息を吐いた。
「そしてこちらは……」
私のバケツを覗いた執事の動きが止まった。
「ほ、本当に溶かしてしまったのですか!?」
そして裏返った声で動揺を見せた。それを聞いてもう一人の執事も走ってバケツを覗きにきた。
「細かく砕いたとかではないのですか?」
「それを見落とす未熟者だとお思いですか?」
執事たちが早口で慌てていた。当時の私でも尋常ならざることをしてしまったと気が付いた瞬間だった。
「ウマさん……溶かしちゃったんですか……?」
「えっと……まずかったかな?」
「まずいというか……よくも溶かせたなぁ……と」
カイトの信じられないものを見る表情はこれが初めてだった。
「そもそもこの試験は溶かせないっていうのが前提なんですよ」
そう。この試験は溶かしてはいけなかったのだ。
「『バトラーはなんでもできる』世間の評価はそんな所でしょう。実際歴代バトラーは不可能がないと評価される程に異能ですし、本人たちもそれを自覚していました」
夢の中で何度も聞いた講釈が今日も繰り返される。
「バトラーの万能感を戒めるのがこの試験の目的なのです『バトラーにも不可能がある』と」
まるで私を責め立てるかのような繰り返しである。
「故事によれば、バトラーを万能と思っていた主人が王に対して「金を水に溶かす」と軽はずみに約束し、バトラーがそれを果たせなかったことから主ともども死を賜ったことがその由来ともいわれています」
やや青ざめた執事が故事の説明をしていた。
「ですから、一つは「バトラーであっても万能ではない」という戒め。もう一つは「主人を窮地に落とし込まないよう様に事前に気を付けろ」という執事の心得を説いたものです。」
もう一人の執事が悩んだ様子で口を開く。
「しかし……こうなると試験そのものを見直さなければなりませんね」
そして曖昧な苦笑いを浮かべた。
当の本人である私はと言えば「能力を見せすぎてしまった。自分に不利益はないだろうか?」などという恥ずかしい自己保身のことばかりを考えていた。
虚栄心や自己保身で欺瞞を重ねた結果、能力に見合わぬ虚飾に彩られた無意味で無価値なバトラーとの肩書だけを得た存在が生まれてしまったのだ。その過程や結果によって誰か一人でも幸せになれたのだろうか? いや、幸せになった者などいないだろう。




