執事の穴の朝
執事の穴の屋敷の地下には広大な空間が造られており、まさに『穴』にふさわしかった。
初めて見た時は随分と面食らったものだが、十年も過ごし、さらには幾度となく夢に出てきた場所である。さすがに驚きはしない。しかし、何度見ても地面を派手にくりぬいて地上部分は大丈夫なのだろうかと心配になるところはある。もっとも超人ぞろいの執事の穴のこと、魔法力等で十二分な補強はしてあるのだろう。それに仮に建物が崩落しても押しつぶされてケガをするような脆弱な者もいないだろう。……地球人である私以外の話ではあるが。
地下空間には魔晶石が埋め込まれ、その輝きが空間を真昼のような明るさで満たしていた。それでは快適かと言えばそうではなかった。今でもあの空間の息苦しさ、蒸し暑さは思い出せる。換気が非常に悪いのだ。あえて換気を悪くしているのだから当然と言えば当然ではある。意図的に過酷な環境にしてバトラー候補生たちに負荷をかけているのだ。湿度80%、気温45℃、これが地下空間の湿度と温度の平均である。もちろんこれよりも過酷な日もあり、地球人の私では生存不可能な環境となっている日もあった。もっとも、そこまで過酷だと私にとっては楽である。なにせ生存不可能と判断されれば時空コンピュータが助けてくれるからである。中途半端に厳しいと『人間性の維持』との名目で死なない程度の生命維持を図ってくれるだけとなる。そして、その様な環境下でトラック状にくりぬかれた環状の通路を数時間散歩をすることから執事見習いたちの朝は始まる。
私たちが執事の穴に入ってからしばらく経ったある日のことである。
「今日はいつになく暑いな」
バトラー候補生の一人が同輩に愚痴っていた。湿度92%、気温82℃。そこを時速120km程度の速度で歩いている一人だ。彼らに限らずほぼ全ての者が涼しい顔をしている。バトラーたるもの暑いから苦しいからとそれを表に出すわけにはいかないのだ。
「普段でも死にそうに歩いているアイツなんか本当に死んでいるんじゃないか?」
別の候補生がそう言って私の方を冷笑と共に確認してきた。そして少々の驚きをみせる。彼はすぐにそれを隠すとなにごともなかったかのように散歩へと戻っていった。
驚くのも仕方がない話である。普段は青息吐息、執事失格の汗だく状態で立っているのもやっとなはずの人間が、より過酷な環境で汗一つ見せずに涼しい顔をしていたからである。
「ウマさんは相変わらずですね」
額に汗を浮かべたカイトが呆れと驚きがない交ぜとなった声をかけてきた。
死ぬような環境になると時空コンピュータの影響で逆に楽になるなど想像もつかないだろう。しかし、正直にそれを言った方が良かったのかもしれない。もちろん当時はそんなことは思ってもいなかったので曖昧な笑みを浮かべて誤魔化していた。
そんな私の横でカイトが吹っ飛んだ。
「ちんたら歩いてるんじゃねぇ! 邪魔だ!」
ゴーダがカイトを後ろから蹴り飛ばしたのだ。このゴーダはことあるごとにカイトに絡んでいた。いや、カイトだけではない。自分よりも弱いとみるや執拗に暴力を含めた嫌がらせをする男だった。眉唾な“金溶かし”な話しかなく、体力などで明らかに劣等生だった私もこの頃まではその対象だった。もっとも眉唾な話があるだけ警戒していたのか暴力は振るわれなかったが。
「お前も……」
普段と違い私が涼やかな顔をしているのに気が付いたゴーダの言葉が止まった。
「まさか……彼が普段は遊んでいるのに気が付いていなかったのですか?」
ファロスが涼やかにゴーダに声をかけた。
「金を水に溶かせようと溶かせまいと暑さで参るような人間が執事の穴へ来るはずがないとわかりそうなものですが……」
ファロスは続ける。
「普段も汗だくになった振りをしながら、走っているように見せかけて滑っていますからね。真似しようと思ってもできませんよ」
そして時速300kmを超える速度で歩き去って行った。走るのは非常に品がないとされる世界では平然と速く歩けることも執事の嗜みなのである。
ファロスは最後までバトラーの座を争った人物だ。したがって優秀なのだろう。しかしこの世界の優秀な人物程、時空コンピュータの能力を魔法の枠で考えてしまうために妙な勘違いをしてしまうようだった。単に生理現象で汗だくになっており、地球人の脚力であがきながら、気圧差を利用して滑空していた……などということは思いもしなかったに違いない。もっとも最後の事象に関しては地球人には想像の範囲外であるが、この世界の人間にとっては想像の範囲内だったようだ。後にファロスが魔法を使って近いレベルで再現してみせたからだ。しかし「魔法をこのレベルで乱さずに出力し続け、移動に利用できるほどに完璧なコントロールをする。こんなことは常人はやろうとは思わないし、思ってもできません。走るのとは比較にならない集中力と魔法力が必要です」などとポンコツ……失礼。思い込みがかなり強い勘違いと解説を披露されてしまった。これも私に関する余計な誤解が広まってしまった原因のひとつとなった。もっとも、それに関しては明確に否定しなかった私が悪いのである。
「大丈夫かい?」
「あ、ああ」
ファロスがゴーダに声をかけている間にカイトに手を差し伸べる人物がいた。リュートである。彼は足を止めてカイトを覗き込んでいた。私も慌ててカイトに駆け寄る。その様子を見ていたゴーダは舌打ちすると自身の歩行を再開させた。
この一件以来、ゴーダが私に対して暴言を吐くことはなくなった。ファロスの言に納得してしまったのだろう。ファロスはこの頃から他の候補生たちからすると頭が一つ抜きんでた存在であったのだ。




