雲は
「なあ、いろんなことがあったよなあ」
澄んだ夏の空を見上げ、俺は彼女に声をかけた。
「…」
彼女は答えない。分厚い入道雲が頭上をゆっくりと通り過ぎていく。
「水族館行ったときのこと覚えてるか。アシカのショーでお前がゲストで呼ばれてさ。輪っか投げたよな」
緊張した様子の彼女がぎこちなく投げた輪っかをアシカが器用に頭でキャッチして。観客からの拍手を浴びながら俺のもとへ駆け戻ってきた彼女のはにかんだ表情を見たとき、たまらない愛おしさを感じたのだ。
「……」
しかしやはり彼女は何も言わない。風の音も木のざわめきすら聞こえないその痛いくらいの沈黙から逃れるように、俺は無理に笑顔を作り、無理に明るい声を出す。
「イルカのショーも楽しかったな。最前列でびしょ濡れになったんだよな」
目の前でイルカが大ジャンプを決めた後、想像以上に撥ねた大きな水の塊をもろに被ったのだ。慌てて髪やカメラを拭きながら、暑いからちょうどいいね、と強がる彼女を見ると思った以上にずぶ濡れで、光を反射して輝くお互いの姿がなんだかおかしくて、二人同時に吹き出して笑い合った。
「………」
彼女は黙ったままだ。太陽が雲に隠れ、辺り一帯が薄っすらと翳る。
「なあ」
「…………」
「なんとか言えよ」
自分の声が震えるのが分かった。耐えられない苛立ちに、右手を強く握り締める。
「……………」
「黙ってんじゃねえよ!」
そのまま振り上げた拳を、力任せに叩きつけた。しかしそれは、こちらの拳を壊すだけだった。
「………………」
俺の目の前に無言で佇むのは、彼女の名が彫られた、大きく綺麗で、硬くて冷たい石。
途切れた雲の隙間から差し込んだ幾筋かの光が、それを神秘的に、ライトを浴びる芸術品のように美しく照らし出して。その光景があまりに幻想的で。
まるで、この世のものではないみたいで。
そう思ってしまった自分にどうしようもなく腹が立った。
「…クソがっ!」
殴りつける。彼女を向こう側の世界へと繋ぎとめているその石を。何度も、何度も。
拳が滑って角にぶつかり、鈍い痛みが走る。裂けた皮膚から真っ赤な血が滲む。構わず殴り続ける。
これでいいのだ。大切な人一人護れない、無力で愚かな自分など。彼女が受けた痛みに比べればこんなもの。
また殴ろうとして右手を振り上げ。自分の血で汚れた”それ”が目に入った。
「…っ」
爪の跡が青黒く残るほどきつく握りしめたその拳を、俺は振り下ろすことができなかった。砂利にへたり込む。燃え尽きかけた線香の煙が肺に流れ込んできて。
吐き気がした。
「う、あああああああああああ!」
こんなこと、許せるわけがなかった。喉が、肺が、限界を告げてもなお息を吐き出し続け、やがて咳き込む。咳き込むために入ってくる空気に吐き気がしてまた咳き込む。嘔吐く。
虚無感、脱力感、無力感、孤独感、空虚感、喪失感。そんなようなものが空っぽになった肺を埋め尽くそうと押し寄せて息ができない。酸素が入ってこない。血の流れる拳で胸を抑えつける。だんだん頭と目の前が真っ白になっていって、しかし意識が消える直前で引き戻される。
目を見開く。歯を食いしばる。
分かっていた。これでなにかが変わるわけじゃない。彼女が戻ってくるわけじゃない。俺の心が満たされるわけじゃない。ずっと、いつまでも心は空っぽのままで。
「……俺は」
浅く荒い呼吸でつぶやいた声はかすれ、震えていた。だが泣かない。泣くわけにはいかない。俺には、彼女を想って涙を流す資格などないのだ。
「俺は、俺は…」
言葉は何に届くこともなく続くこともなく、何かを掴むこともなく、虚空へと溶けていく。
彼女の家族が供えたものだろう、飾られた鮮やかな花々は、雲のすっかり過ぎ去った夏の青空に映えていて、太陽みたいに明るく笑う彼女に、よく似合っていた。
よろめきながら立ち上がり、柄杓を手に取った。桶から水を掬いあげ、かける。手でそっと洗い流していく。拳にこびりついた血も徐々に形を失っていく。
流れ落ちていく水に濁りがなくなった頃、俺は柄杓を置いて、正面に跪いた。無機質な石は変わらず無情に、無感動に、無言のまま、ただ俺を静かに見下ろしているだけだったが、水に陽光を浴びて輝くその姿が記憶を蘇らせ、思わず顔が歪みそうになって。無理やり笑顔をつくる。首を振って、火のつけられていない線香に震える手を伸ばすが、取ることはおろか触れることさえ叶わず、虚空を掴んだ拳をひざへと戻した。
見上げる。精一杯に笑って。無理に明るい声を出そうとして、けれど絞り出た声は消え入りそうなほどか細かった。助けを求めるかのように、みっともなく震えていた。
「なあ、教えてくれよ……。俺は…」
「俺は。……どうすればいい…」
君に縋ることしかできない俺を。どうか、許してくれ。