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第八章 大平祭

 十月が終わり、十一月に入る。その最初の日の出直前だった。

「終わった……」

 不眠不休の作業が終わった。

 外した部品を再び組み立てる作業。しかし、土台となる骨格フレームが変わっていたため、細部の調整が別途必要となったのが計算外だった。設置場所や長さが異なる箇所が多いため、組み立てながら各部を動かし再調整する必要が発生したのだ。

 片足づつ組み立てては調整し、脚部が終わったら今度は腕を組み立てながら調整した。四肢が終わると今度は全体の調整の必要があった。

 二週間で済むはずの作業は、三週間目いっぱい掛かることとなった。また五号になって追加されたいくつかの仕様を余裕の一週間に当てるつもりだったが、間に合わないため、同時並行作業となった。部分的な稼動テストはできているが、本番で正常動作するかは不明である。

「おーい。これを忘れているぜ?」

 修が大きなビニール袋からウサギの縫いぐるみを取り出した。

「……新条さん。どうぞ」

 一志が脚立を韋駄天の前に立てる。

 紗奈は一瞬躊躇したが、縫いぐるみを受け取ると、脚立を登った。

「ここで、いいですか?」

 韋駄天の頭部にあたる部分には何も無い。そこには簡単な箱型の台が取り付けられているだけだった。そこに頭でっかちのウサギの縫いぐるみを置き、ベルトで固定する。

「おっけー」

 菜々美が親指を立てた。

 紗奈が脚立を降りて、少し離れて見る。脚立は一志が横にどけた。

 完成した韋駄天五号の姿。

 白い超強化プラスチックの外装と、基本となる骨格フレームが白く、また胴の搭乗席周辺も鉄板を白く塗装してある。頭部となった白いウサギの縫いぐるみは違和感無く収まっていた。外装と外装の間からは黒いエアーマッスルが見えているが、それがまた白さを強調している。

 また、左肩にアクセントのように五号を表す「五」の一文字が書いてある。紗奈曰く、百号まで作ったら金色になりそう、だそうだ。あとは単純に時間が足りず、それ以外の塗装はされていない。

 全高二メートル半。自重百八十キロ。色のせいか、その大きさの割には威圧感は少ない。

「……できましたね」

「なんとかな」

 紗奈の言葉に、一志が頷く。できることならきちんとした動作テストとレポート提出をしてから大平祭に望みたかったが、時間が無い。ロボットショーは今日の昼なのだ。

「バッテリーは充電中。ほんとにぶっつけ本番だよな」

「しょうがない。けど、間に合って良かったよ」

 追加仕様を入れなければもう少し余裕があったのは事実だが、それを抜いたら五号意味が無いと一志は考えていた。こうして間に合ったのだから良しとする。

「みんな。ありがとう」

 一志は修に、菜々美に、そして紗奈に頭を下げた。皆の協力無しでは不可能だった。

「ばーか。気がはええよ。ショーを無事終えてから言え」

「ほんま。ほんま」

 それもそうか。少し心に余裕がでて同時に自然と笑いもでて来た。

「それじゃ、俺はいっぺん帰るわ。みんなはどうする?」

 修の言葉に少し考えて菜々美が答える。

「うちも帰るわ。本番前に着替えたいし」

「あ、私も」

 泊り込みが続いたため、シャワーしか浴びていないし、作業着は汗と汚れでかなりひどい状態だった。シャワーでもいいが、一度さっぱした上で綺麗な服に着替えたかった。

 全員考えは同じだった。とにかく片付けて、帰る時間が欲しかった。

 日の出で辺りが明るく照らされいる中、四人は片付けをして、帰り支度を始めていた。

 その時、意外な来訪者がやってきた。

「おはよう」

「え? 篠山さん!」

 仕事着のいつものスーツ姿の夕がガレージの入り口に立っていた。紗奈が驚きの声をあげる。休日の早朝に彼女がここにやってくるなんて誰も考えて無かった。

「どうして?」

「今日から大平祭の間は、また護衛をさせてもらうことになったからな。これ、預かり物」

 夕は持っていた大き目の紙袋を紗奈に渡した。

「おはようございます。また、大学からの依頼ですか?」

 奥に居た一志がやってきて聞く。夕は首を横に振った。

「新条の母親から直にな。まあ、この時間から荷物も預かってきたのはサービスだが」

 夕が言いながら韋駄天五号を見上げる。その口元には少しだけ笑みが浮かんでいた。彼女も事の顛末は知っている。紗奈と修がちょくちょくメールしていたらしい。

「できたのか?」

「ええ。なんとか」

 しばらくじっと見上げていた。そしてその笑みが不敵な笑みに変わる。

「これは、強そうだな」


「ふ~いい湯だね~」

 修が湯船につかりながら、ぼうと呟いた。なんとなくこのまま溶けていきそうだった。

 ここは朝からやっている駅近くのスーパー銭湯である。早朝の銭湯だというのに、意外と人が多い。だいたいが大学生ぐらいの年齢なので、一志達と同じように徹夜で作業していた学生達が本番前に汗を流しに来ているようだった。

「寝るのはあと九時間ぐらい後にしてくれよ」

 一志がその横で、同じく溶けそうになりなっている。しかし、眼つきだけは異様に鋭くなっていた。韋駄天の完成とお披露目の本番を目前にして、多少なりとも興奮しているようだった。

「心配しなくても仮眠もとらんさ。寝たら最後だしな」

「同感」

 一志は時間になったら夕に叩き起こされる予定なので、寝すぎる心配はないが、普通に寝たら明日の朝まで寝る自信があった。修も同じだろう。

「は~疲れたな~。湯船って男湯と女湯が繋がっているってほんとかね。あっちに行きたいよな~」

「こんな状態でも、いつもと変わらないな」

 一志はあきれながら、親友に突っ込みを入れていた。


「良い湯やね~」

 菜々美が湯船につかりながら呟く。やはり溶けていきそうな雰囲気だった。

 紗奈と夕も同じようにつかっていた。単なる朝風呂となった夕は普通につかっているが、紗奈は徐々に沈み始めていた。溶ける前に本当に息の根が止まりそうなりつつ、その都度、夕に助けられている。

「本番はこれからだろう? 気合いれなくていいのか?」

「あ~うちは準備と片付けの手伝いぐらいやから大丈夫~。紗奈はんは大変やけど~」

「そうなのか?」

 夕が沈み始めていた紗奈の腕をとり、水面より上に顔をあげさせながら聞いた。

「……はい。ステージで、韋駄天の紹介を、するので……」

「そやで~話すのは女の子のほうが受けがいいから」

 もともとは修の予定だったのだが、そういう理由であっさり紗奈になってしまったのだ。菜々美にも振ったが、協力者でもない部外者やからとかわされてしまった。

「そうか。さすがにその時は側にいられないな。ステージ横にでも居させてもらおう」

「……お願いします……ブクブク……」


 十時。スーパー銭湯の休憩室で仮眠を取っていた一志と紗奈は、夕に文字通り叩き起こされた。紗奈に対してはそれなりに優しかったが、一志に対しては容赦が無く、腹部への一撃で永眠しそうなほどの激痛でのた打ち回った。おかげではっきりと眼が覚めたが。

 司会のために新しい服に着替えてから来る紗奈を夕にまかせて、一志は一足先に大学のガレージに戻る。韋駄天の搬入を行うためだ。汚れる可能性があるので紗奈は手伝えない。彼女とは体育館で合流する予定である。

「こんにちは。準備はいいですか?」

 ガレージ辿り着いて程無く、大平祭実行委員がやってきた。クレーン付きの軽トラに乗っていて、昼からのロボットショーの出展品を順番に回って集めているのだろう。韋駄天が最大、最重量なので最初に運搬に来たようだ。

 一部の手に持てるロボットや出し物の道具などはモノレールを使って運ばれる。今日のモノレールは一般には乗れず、山キャンパスと麓キャンパス間の運搬に使われている。しかし韋駄天のように大きいものはこのように実行委員が車で運搬する手はずになっていた。

「これか……乗るかな?」

 運転席から一人、助手席から一人の計二人。普通の研究室のロボットは大きくても人と同じぐらいの大きさなので、二、三人で持ち上げることができる。しかし人力で韋駄天は無理だ。またガレージのクレーンを使って乗せたとしても、今度は降ろす時が問題だった。

「ちょっと待ってください。自力で乗せますから」

『え? 自力?』

 実行委員二人が声を揃えて疑問を口にした。彼らも工学部の学生故に、最低限のロボットの知識は持っていた。歩くロボット、走るロボットは存在するが、自力で荷台に乗るロボットは聞いたことも無い。一志の言葉に疑問を持つのは当然だった。

 そして、二人の知識は過去のものであったことが、この後証明された。


「韋駄天、システム・シャットダウン」

 音声入力に反応して、韋駄天が停止動作に入る。モーターが止まり、タンクの与圧を逃がすための排出弁が開く。

 シューーーーーーーと長い空気が抜ける音が続き、電子制御用のボードの電源が落ちる。同時に一志の身体を固定していた各部の電子ロックが外れ開放された。

「へー。こういう風に座るのか」

 韋駄天の正座を見て、修が感心する。

「重心が真ん中のままで、一番安定する形だからな」

 一志が韋駄天から降りながら答える。

 韋駄天は体育館に用意されたマットの上で正座していた。両膝と両足先の四点でマットに接地して両足で安定した土台を作り、その上に腰を踵に乗せる形で下ろし、少し前傾姿勢の状態で、三本指の手で膝の凸部分を持つように肘を腿の上に置く。腰部が稼動しない韋駄天は、骨格フレームの稼動範囲の関係でこれ以上前に倒れないため、安定した状態で固定される。

 軽トラの荷台でもこの姿勢で座り、ロープで固定して運搬してきた。安定性は結構なものだ。

「これって五号からの機能だよな? 四号だとどうするつもりだったんだ?」

 修の素朴な疑問に、一志は目をそらした。

「……考えてなかった」

「おいおい」

「ま、まあ、台をつくるなり、何かしたよ。時間的な余裕はあったし」

 実際にどうしたかは不明。四号の構造では台に座るのも難しかった。

「あ、もう、準備できました?」

 紗奈がやってきた。紹介役として別途実行委員と打つ合わせしていたため、来るのが遅くなったのだった。

「こんちは……ってすごい格好やな」

 彼女は珍しくエンジ色の服を着ていた。まるでフランス人形が着ているようなヒラヒラが多く付いたドレスのような服だった。同色の鍔の広い帽子もかぶっており肌は顔と手しか出ていない。さらにいつもの色眼鏡はしていない。代わりに医療用の色付きコンタクトレンズをしているので、瞳が青く見える。そして肌が白磁のごとく白いため、まさに人間大のビスクドールが立っているようだった。

「篠山さんが、預かってきてくれた紙袋に、これが入ってて……お母さんが、用立てたみたい。帰っている時間が、無かったから、もうこれで……変じゃない、ですか?」

 唖然として固まっている男性陣の反応を見て、自信を無くしつつあるようだ。

「あ、いや。似合ってるよ。似合いすぎててびっくりしただけだって。なあ荒川」

「あ、ああ」

 一志は相槌を打つだけ。どうやら言葉が出てこないらしい。

「おいおい。もうちょっと何か言えよ」

 修が肘でつつく。

「何かといっても……可愛すぎて。的確な言葉が無くて……」

 おどおどという一志と、その言葉を聞いて服に負けないぐらい赤くなる紗奈。

 紗奈の後ろで夕が、微笑ましく二人を見ていた。


 十四時。ロボットショーが始まった。

 出展順番は大きさ順で割り当てられたため、韋駄天は最後である。ロボットの大きさが千差万別なため、ショーとしての見た目からの考慮だった。

 最初はネズミ大のロボット。五十台ほどが一斉に動き、壁すらもよじ登る。数のインパクトと動きのため、主に女性から、本物のネズミに見えたらしく、悲鳴が上がったりもした。

 最後は用意した衝立に登って並び、「ロボットショーにようこそ」と文字を形どった。

 拍手を受けて下がると、次は犬のロボットだった。その後もいろいろと続き、人型ロボットや背広の下に着込めるパワーアシストスーツなど、研究室それぞれが出展した機械が続いた。

 途中一般参加のお掃除ロボットもでてきたりもした。市販の二足歩行ロボットを改造して箒を持てるようにしてあり、茶系の着物を着て、「レレレ」と喋りながらステージを掃いていった。年長者にはそこそこ受けたようだ。

 見物人は多少入れ替わりつつも、結構な人数が集まっていた。このまま無事終えられれば、ショーとして成功といえるだろう。

 そして最後、韋駄天の出番となった。

「長らくロボットショーを楽しんでいただき、ありがとうございます。残念ながら次で最後のロボットとなります。ロボットの名前は『韋駄天』。今回のショー、最大の大きさのロボットです!」

 紗奈がステージに出て行き、司会者からマイクを受け取る。彼女がステージに出て行ったとき、不意なざわつきがあった。どうやら彼女自身をロボットと思ったらしい。他の研究室の紹介者は結構ラフな格好、ティーシャツにジーパンや作業ツナギ等、が多く、一人だけ例外的に背広の人が居たが、彼女ほど目立つ格好をしている人は居なかった。そのため勘違いされたようだ。

「……」

 マイクを受け取り、正面に向き直ると、会場の全員の視線が一点に、自分に集中しているのがわかった。普通の人でも慣れていないと緊張する場面。緊張のあまり、話す内容を忘れてしまう事が多い場面。

 少女はこういう場面の経験がまったく無い。

 結果、紗奈の精神はショートを起こし、話すべき内容が全て、脳内からデリートされてしまった。

(ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど、どうしよ…………・・)

 思い出そうとするが、脳内記憶はまったくの白紙状態で、まともに思考すらできない。

(えとえとえとえと)

 焦れば焦るほど、思考がおかしくなっていく。

 集中する視線。

 思考停止に陥る紗奈。

 しばらく一言もしゃべらず固まった彼女を見て、観客がザワザワと騒ぎ出す。

 司会者も、困ったように横合いから促すが、紗奈はピクリともしない。

 その時。

 バシュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥ……・・

「キャッ!」

 ものすごい冷風が吹き付けた。紗奈の服が大きくはためく。

(な、なに!?)

 倒れまいと咄嗟に動いたのをきっかけに、体の硬直が解ける。

 帽子を押さえながら反射的に風が来た方向、ステージ脇を見ると、韋駄天が背中を見せて立っていた。背面の腰辺りから、シューと白くなった空気が出ている。

 緊急排出弁。圧縮空気を一気に排出する場合に使用する。瞬間的に多量の空気が排出される弁、を一志が作動させたらしい。

 韋駄天がゆっくりと振り向く。

 搭乗者の一志が微笑んでいた。そして、韋駄天の頭部、縫いぐるみを三本の指で器用に指差した。

 声は出していない。しかし紗奈は、一志が言いたいことが何となくわかった気がした。

(センパイ……そうですよね。いろいろありましたよね)

 深呼吸する。

(あったことを、ただ言えばいいんですよね)

 気取る必要は無い。これから紹介する韋駄天の事は、隅々まで知っている。

 ただそれを、言えばいい。

「失礼しました」

 紗奈は正面を向く。観客がこちらを見ているのがわかったが、先ほどのように緊張はしなかった。

「ロボットショーの最後に、私達が作成いたしました、『韋駄天』を紹介させていただきます」

 ステージ脇へ合図を送る。

 シューシューという音と共に、白い巨人が姿を現す。

 韋駄天の巨体に、会場は騒然となる。しかし頭部のウサギを見て、とたんに笑いに変わった。

「大きさは二メートル半。重さは操縦者の体重を含めて二百四十キロ。分類としてはパワードスーツ、人の動きを助けるアシストではなく、強力な四肢で代替する、そうですね、重機に近い分類になります。独立した出力を出せますので、人の限界を超えることが可能です」

 スラスラと言葉が出てくる。少し調子が出てきた。緊張が解けたせいもあるが、もともと専門分野を話すのは得意だからだろう。

 紗奈がステージ脇の修に合図を送る。修が実行委員と協力して、荷台に乗せたバーベルを運び入れる。

 バーベルの重量はこの時点で百十キロ。数人がかりで荷台から降ろして韋駄天の前に置く。そしてさらに運ばれてきたウェイトを付けていく。

 会場がざわつき始める。オリンピックなどで見る重量挙げのそれより重そうだった。

「このバーベルの重量は三百キロです。従来のパワーアシスト系ではとても持ち上げられない重さです。さて、韋駄天は持ち上がるでしょうか?」

 四号なら不可能な重さ。百キロのバーベルを持ち上げてお茶を濁すつもりだったが、五号なら問題なく持ち上げられる。あくまでシミュレーション上では、であるが。

 韋駄天が一歩前に出る。

 しゃがみ、太い三本指を開いてバーベルのバーを両手でしっかり握った。

 観客が、実行委員が、修が、菜々美が、紗奈が息を呑んで見守る。

「韋駄天。オーバードライブモード」

 一志の指示に従って韋駄天のモーターが回り始めた。

 オーバードライブモード。通常は余裕をみて八十パーセントを維持している与圧タンクの圧力を百二十パーセントまで上昇させる、駆動力強化モード。

 フォンフォンフォンフォン……・

 コンプレッサーが空気を取り込む音が響く。

 与圧タンクの圧力計が百パーセントを超えていく。

 そして、百二十パーセントに達した時、一志が両腕に力を込めた。

 シューという空気音とともに、韋駄天の四肢がバンプアップしたかのように膨らんだ。

 観客が固唾を呑んで見守る。ギシギシと各部に負荷が掛かるのが音で判る。

 少し持ち上がる。しかし韋駄天自身よりも重いバーベルに、少しふらついてしまう。バランサーが前後に動いて調整するが、許容を超えているらしい。

「っ」

 紗奈が息を呑む。三号の姿が、フラッシュバックする。

 しかし五号は耐えた。一志がバーベルを引き寄せるように持ち上げ、重心位置をバランサーの許容範囲内に収めることで、安定性を取り戻したのだ。韋駄天の各部もがっちりと支える。

 総重量五百四十キロとなった重さを、韋駄天の両脚は問題なく支えた。

 バーベルが腰の位置まで上がる。

 そして一瞬の溜めの後、そのまま三百キロバーベルを頭上高くに持ち上げた。重量挙げとは異なる、余裕のある持ち上げ方。落とすことはもちろん、ふらついたりすることなく、韋駄天はそれを高々と持ち上げて静止した。

「おおおおおおおお!」

 会場がどよめく。拍手喝采。思わず紗奈自身も拍手していた。ステージ横では修と菜々美、夕も手を叩いていた。

 この場にいた全員が、韋駄天のすごさに眼を奪われていた。

 ある二人組みを除いて。

 その時、客席から何かが投げ込まれた。

 会場の全員、紗奈も修も夕すらも韋駄天に注視していたタイミング。投げ込まれことすら、誰も気づかなかった。

 パシュー

 乾いた音とともに、白煙が広がる。

「え? 何?」

 観客はショーの一部だと思ったようだが、紗奈はこんな演出を知らない。一志も同様で、降ろすはずのバーベルを持ち上げたまま動けずに居た。

 続けてパシューパシューと複数の音が鳴り、次々と白煙が広がっていく。

 紗奈は無意識に煙から逃げるように後ずさった。

 直後、眼前の白煙から人影が飛び出てきた。

「ひっ」

 紗奈の脳裏に恐怖が蘇る。その人影は、あの時の誘拐犯の二人組みだった。


「新条!」

 夕がステージに飛び込む。三百キロのバーベルを持ち上げたままの韋駄天がいるため躊躇したが、悲鳴を聞いて即座に行動した。しかしその躊躇した間に、相手は紗奈もろとも白煙の中に消える。

 反射的に追いかけてたたら踏む。視界の通らない場所に飛び込むのはあまりに危険だった。相手は何かしら準備をしていただろうが、こちらには何もない。加えてパニックを起こし始めた観客が白煙から逃げるように無秩序に動き始めていた。このまま追いかけたら、群衆が壁になりかねない。

(落ち着け。連れ去ったということは、どこかから車にでも乗せるはずだ……)

 夕は脳裏にこの大学の見取り図を思い浮かべる。護衛地域の詳細なデータを頭に入れておくのは鉄則である。しかも護衛期間が長かったから完璧に覚えていた。即座に複数の出入り口からここに繋がるルートを選び出す。

(出口は正面玄関)

 車に乗せることを考えると、一番近い出入り口で且つ通りに面したそこがベストだ。

(中央広場は出店や人が多すぎる。通るなら……校舎裏!)

 大平大学は中央広場を挟んで校舎が並んでいる。その裏側はフェンスとの間が広く、普通に通路に使われている。片方は正面玄関に行くまでにゴミ置き場があり、回収車が来る時以外は二重のフェンスで通れない。

(なら、こっちだ!)

 夕はステージ脇に戻ると、そのまま体育館内を通り、体育館の通用出入り口から飛び出す。ここからまっすぐ進めば、そのまま校舎裏へいける。

(遠回りだが、相手は人一人抱えている。アドバンテージはこっちにある!)

 出遅れた分、距離はあるだろう。しかしそれをマイナスとは考えない。考えてはいけない。

 夕は強気に考えることで興奮状態を作り、意図的にアドレナリンを分泌させる。鼓動が早く強くなり、血流が筋肉内部に送り込まれる。全身の筋肉を奮い立たせる。さらに全力行動によって引き起こされる筋肉の悲鳴はアドレナリンによって無視する準備もする。

 猛烈な勢いで走り出した。陸上選手顔負けのスタートダッシュだ。

 遠めにエンジ色の何かが視界に入った。夕はさらに加速していく。


「バーベル、降ろすぞ!」

 一志は白煙が無いステージ奥まで後退すると、ゆっくりバーベルを置く。修と実行委員はその声に離れた。持ったままでは危険すぎて下手に動けないからだが、それに時間を食われ、紗奈はおろか、夕までも見失っていた。

(どうなってるんだ!)

 内心毒づく。誘拐のことをすっかり忘れていた自分を恨む。しかし恨んだところで何もできない。

 ショー会場はすっかり混乱してしまっていた。白煙に驚き、トラブルだと気づいた観客らが騒ぎ、実行委員がその混乱の対応に追われ、紗奈が攫われたことに気づいていない。

 かろうじて煙の向こう、観客やそのさらに向こう側の中央広場が見えるが、紗奈の姿は判らない。人が多すぎる。

「おい! 荒川。一体何がどうなったんだ?」

 修が韋駄天に近づきながら聞く。彼もまた何が起こったか認識していないようだ。一志は側にいたから、夕は注意していたから紗奈の異変に気づいた。そうでなければ判らないのだろう。

「新条が攫われた!」

「……はあ?」

 端的な説明に、修は首を傾げる。日常の範疇外の出来事ゆえに、咄嗟に理解できないらしい。

 一志は説明しながらも眼を凝らす。紗奈は今日、非常に目立つ服を着ていた。それが見えないかとジッと遠くを見る。

 一志の脳裏には今日の紗奈の姿がはっきりと記憶されている。ステージ横からも見ていたので、かなり細部まで覚えていた。

 人の認識力は、対象物の詳細な記憶に比例する。人込みの中でも見知った相手が視界の端に入っただけで判るのはそのためだ。

 それ故に一志は、一瞬だが視界に入ったエンジ色の何かに気づいた。すぐに校舎裏に隠れて見えなくなったが紗奈と確信した。そこを注視すれば直後に夕と思しき姿が追いかけていくのが見えた。

(あの方向なら、正面玄関か?)

 二年半も通った大学だ。土地勘は十分にある。しかし追いかけることはできない。目の前には観客と祭りに来た人でごった返している。搬入に使った出入り口を使って校舎裏に行くことはできるが、中央広場ほどではなくても人はそれなりに居るはずだ。韋駄天が全力疾走などしたら危険でしかたがない。

「どうにか……」

 韋駄天を降りて追いかけようと思ったその時、ゆっくりと中央広場を縦断していくモノレールが眼に入った。

 モノレールはそのまま体育館横駅を通過すると、山キャンパスのほうへ向かっていく。今日のモノレールは一般人は乗ることができない。運搬用に利用されており、体育館横駅を通過したのも、ここで降ろす物がなかったからだろう。

 体育館横駅はステージから階段を登ってすぐだ。駅の入り口は、簡単なテープで立ち入り禁止とされているだけだった。

 そしてモノレールのレールは、まっすぐ正面玄関駅に向かって続いている。

「! これだ!」

「お、おい?」

 一志は修の声を無視して韋駄天でステージを横断すると、そのまま階段を一気に駆け上る。韋駄天の足はそれほど大きくないが、人のそれよりは大きい。縦幅が合わないため普通の階段の上り下りはかなり厳しい。しかし縦幅に余裕があるゆるやかな階段なら、普通の歩行の要領で登ることができる。

 体育館横駅前の階段は、縦幅が五十センチはあり緩やかだ。韋駄天にとって苦ではない。

 駅の入り口のテープはそのまま体格にまかせて千切る。ホームに人は居ない。そのままレールの上に降りる。モノレール自体は通ったばかりなので来ることは無い。

(狭い……)

 レールの幅は1メートルほど。人が歩く程度なら十分な広さだ。しかし韋駄天の足幅を考えるとギリギリだった。股関節の自由度があるから足をそろえるようにすれば大丈夫だろうが、今度はバランスの問題がある。バランスを崩せば四メートル程の高さから、場合によっては大平祭に来た人の上に落ちることになる。

 数瞬の躊躇。

(……信じろ……)

 心に言い聞かせる。自分の設計を、正常動作している韋駄天を、そして紗奈のバランサーを!

「韋駄天。ランニングモード!」

 モーターが唸り、オーバードライブモードのように空気を取り込み始める。今度は与圧は百パーセントを維持し、特に脚部へ送る空気量を増やすモード。脹脛に仕込まれたショックアブソーバーの圧力も上昇し、走ることに特化する。

「行け!」

 一志が走る。同時に韋駄天が走る。

 ダンダンダンダンダン

 高さ三メートル、幅一メートルのレールの上を、身長二百五十センチ、体重二百四十キロの巨人が疾走する。人より長い歩幅と、強化された強靭な脚力により、オリンピック選手並みの速度で走り抜ける。

 中央広場に居た人々が音に気づき、見上げ、まず唖然とする。

 ロボットは一般に広まっているが、韋駄天ほど巨大な人型ロボットはやはり珍しい。また頭がウサギであるため、必死に走る姿なのにどこかコミカルだ。大人は唖然としつつも、少し笑う。子供は素直に声をあげて笑った。

 一志はそんな笑いを撒き散らしている事に気づかない。その余裕は無い。

 幅一メートルのレールをひたすら走る。韋駄天が走る。わずかなバランスの傾きはバランサーが調整し、安定した直線走行を実現しているが、気を抜くと足を踏み外しそうになる。集中しないと落下して大惨事を引き起こしそうだった。

 事務棟駅を抜ける。この先に駅は無い。レールは少しだけ空中に伸びて車止めで切れている。そして、そのレールは正面玄関前の広場の真横にある。

 そこにエンジ色の何かを抱えた二人組みと、追いかける黒いスーツの女性、夕の姿があった。

 一志はここで問題に気づいた。中空のレールから降りる道が無いのだ。作業用と思しき梯子があるが、とても韋駄天は降りれない。

(あれは?)

 二人組みの一人が何をしているか理解した時、一志は勢いのまま韋駄天でジャンプしていた。


(拳銃!)

 夕は身を強張らした。まさかここで拳銃を向けられるとは思わなかった。精々ナイフ程度と判断していた甘さを認識する。同時に彼らがそれなりに追い詰められていることも理解した。

 咄嗟に横に飛ぼうとして、しかし自分の真後ろに大平祭を楽しんでいる人々が居ることに気づいた。

(避けたら、彼らに当たる……)

 護衛対象はあくまで紗奈だ。しかしそのために周囲を危険にまきこんでいいわけではない。

 夕は両腕で顔を覆い、衝撃に備えて踏みとどまる。着ているスーツは防弾防刃仕様だから、マグナムでもない拳銃なら当たっても死ぬことは無い。ただしハンマーで叩かれたような衝撃があるため、当たり所によっては大きなダメージを追うし、痕も残る。それでも無関係な群集に弾丸が飛び込むよりはマシだと考えた。

 その時、不意に日が翳った。

 ダーン!パンパンパン

 何か大きな音とほぼ同時に三発の銃声。テレビなどで聞く銃声とは異なり、拓けた場所だからかその音は妙に軽い。

 衝撃を待っていた夕。しかし予想していたそれとは異なり、強い風だけが彼女に吹き付けられただけだった。

 顔を両腕で庇っていたので前が見えない。そっと隙間から前を見ると、目の前に信じられないものがあった。

「韋駄天!」

 その巨体が片膝をつく格好で眼前に静止していた。

 四メートルの高さのモノレールのレールを走ってきて、さらにここに飛び降りたことを夕はわからない。しかし韋駄天がここにあり、おそらく弾除けの役目を果たしたことは理解できた。

「大丈夫ですか?」

 一志の声。銃弾を受けても無事らしい。夕は少しだけ安堵した。

 パンパン

 さらに二発の銃声。しかし韋駄天の外装は、正面には厚さ一センチの鉄板、両腕両足には超強化プラスチックが覆っている。銃弾程度は問題なくはじくことができる素材だ。隙間から見えるエアーマッスルはただのゴムなのでダメージを受けるが、幸いそこには当たらなかった。

「ありがとう。助かった」

 夕が韋駄天の脇をすり抜けながら一志に一声掛ける。同時に懐から携帯電話を取り出した。

 正面には車に乗せられている紗奈が居た。銃を突きつけられ、抵抗できなくされている。距離的に追いつく前に発車されのが理解できた。だから夕は携帯電話を取り出したのだった。

 幾度も訓練したショートダイアルの操作をほぼ無意識に行う。

 ワンコールで相手、自分の所属している警備会社の緊急コールセンター、が出る。直接警察に連絡するより対応が幾分早く機転も利く。

 車が発車する。直後に夕がその場所に到達した。間に合わなかった。

「コード五九発生。繰り返すコード五九発生。相手は車で逃走。ナンバーは……」


 発砲がある直前、韋駄天はモノレールのレールから飛び降りた。

 着地のショックは、脹脛のショックアブソーバーと各部の安全弁から盛大に与圧を放出して吸収。三発の銃弾を受けたが、幸い韋駄天の外装に当たったようだ。

 一志は発砲にパニックになりそうだったが、夕が無事だったのを見て、なんとか落ち着いた。

 しかし、その後がまずかった。着地の衝撃吸収ため、与圧が五十パーセントまで大幅に下がっていた。追いかけようとしたが、立ち上がる事すらできない。

 圧の低下に伴って、コンプレッサーが空気を取り込んでいるが、時間が掛かりそうだった。

 動かない韋駄天は単なる重しだ。全身を固定されているので、まるで拘束具で押さえ込まれたように一志は微動だにできない。

(回復を待っていられないな)

 紗奈が車に乗せられ連れ去られるのが見えた。悠長に時間を掛けていられない。

 一息、一志が深呼吸をする。そしてコマンドワードを呟く。

「韋駄天……バーストモード」

 音声を認識。ディスプレイの表示が変わり、中央に大きく残り稼働時間と圧力計だけが表示される。センサーやその他の表示は無くなった。

 フォォォォォォォォォ……・

 モーターが、コンプレッサーが、唸りをあげて空気を貪り始めた。同時に圧力が勢い良く回復していく。

(まさか使うことになるとはな)

 モード変更による圧力や安全弁の操作は紗奈のアイデアだ。通常動作のノーマルモード、走行特化のランニングモード、パワー重視のオーバードライブモードと彼女はいくつものモードを用意した。その中で一志が不要だと思ったのが、このバーストモードだ。

 あらゆる安全措置を排除して、韋駄天の限界を引き出すモード。発熱や磨耗を考慮して制限有りで動いていたモーターが、全力で回転する。また、与圧がいくら高まってもモーターが停止することは無く、エアーマッスルに流れ込む空気量も制限がなくなる。高まりすぎた圧力は安全弁が自動的に排出するが、それ以外は無い。

 韋駄天が壊われることを一切考慮しないモード。故にセンサーは必要ない。

 またモーターが最大出力で動き続けるためバッテリーの減りも早く、残り稼働時間が見る見る減っていく。

 漫画じゃあるまいし、機械が壊れるほどの出力を要する場面など無いと考えていたのだが。

(車は下る方向に走っていった。それなら……)

 一志が走り出す。その動きをトレースする形で韋駄天も走り出す。

 片膝をついた格好から、一瞬前に倒れこみ、ダッシュ。クラウチングスタートに似た状態である。バーストモードで限界を引き出された脚部のエアーマッスルが、韋駄天を強力に押す。ランニングモードでも不可能な勢いでぐんぐん加速していく。

 韋駄天は理論上、時速五十キロで疾走できる。これは百メートルを七秒近くで走る速度である。あくまで設計上の話であり、シミュレーション上の理論値であり、現実は理論値より落ちる。地面の種類による摩擦抵抗の差、空気抵抗、韋駄天自身の四肢の可動抵抗など、不特定多数の要因が絡むからである。しかし理論値より落ちるとはいえ、全高二メートル半、重量二百四十キロの巨体が、オリンピック選手よりも早く走れるのには変わりが無い。

 夕の後ろを通過する時、韋駄天はまさに突風と化していた。

(階段を駆け降れば!)

 突風と化した勢いのまま、大学から駅前商店街に続く下り階段を降りていく。時間的に人の移動が少ないタイミングだったのか、幸い階段に人影は無い。階段も全体の高さはあるが、緩やかなので一段の縦幅が広い。

 それでも速度をだしているので、一歩踏み外したら大惨事は免れない。

 ダンダンダンダン

(怖ぇぇぇ)

 内心でびびる。一歩一歩の回転が速い上に、ディスプレイが邪魔で足元が見えづらい。半分勘で階段にあわせて走っているのだ。二年半通った場所でなければ、早々に踏み外していたただろう。

 ダンダンダンダン

(痛ぇぇぇぇ)

 オリンピック選手より早く走れるということは、それだけ速く足が回転しているということだ。操縦がマスタースレイブ式のため、自分の足が速いのか、韋駄天が早く動いているのか、だんだん判らなくなる。判っているのは、運動不足の自分の足の筋肉が悲鳴をあげていることだった。

 目指すは階段を降りた所の横断歩道。道路は大きくユーの字を描いて下り坂になっており、この階段の道と二回交差している。大学正面と商店街入り口手前だ。車が商店街入り口手前に来るまでに、降りきらなければならない。

 ダンダンダンダン

 勘と勢いと、勇気と根性で階段を駆け下る。

 足音以外に韋駄天の四肢から異音が聞こえ始める。空気の流れがおかしくなっているのか、弁の開閉に問題があるのか、エアーマッスルが破れたのか、フレームにひびが入り始めているのか、センサーを止めたため状態はわからない。本来ならすぐさま停止して、検査を行わなければならない状況だ。しかし一志は止まらない。

(紗奈を助けるまで保てばいい!)

 その考えに応えるように、韋駄天は疾走する。

 ダダン

 降りきった。一瞬だけ左右を見て、勢いのまま道路に、横断歩道に飛び出る。

 横断歩道上で韋駄天を急停止させる。勢いを膝を曲げて衝撃をエアーマッスルとショックアブソーバーで吸収し、腕とバランサーで引っ繰り返りそうなモーメントに制動を掛ける。

 シューーシューシュシューーーー

 各部から空気を吐き出しながら韋駄天が停止する。吐き出した多量の空気は、もともとコンプレッサーに強引に圧力を掛けられたうえに急激な減圧にさらされて温度が低下、まるで水蒸気のように白い靄となって周囲に撒き散らされた。

 吐き出した空気が冷えたということは、奪われた分の熱は韋駄天に残っているということでもある。センサーの出力を無視しているのでわからないが、四肢全体が異様な加熱状態にあるはずだ。すぐさまゴムが溶けたりするほどではないだろうが、それでも無視し続けていいわけでもない。蓄熱は確実に韋駄天の寿命を削る。

 そしてそれでもモーターは全力で回り、コンプレッサーが空気を取り込んでいく。

(……ごめんな)

 五号は今日始めて起動したばかりだというのに、すでに大幅に寿命を削られている。メンテナンスである程度直せればいいが、最悪廃棄の可能性もでてきていた。

 キーーーーキュキュー

 タイヤを鳴らし、スピードを出したまま黒いバンがコーナーを抜けてくる。紗奈をさらった車だ。下りの急カーブだが、逃走のため限界までスピードをだしているのだろう。

 韋駄天の重量が二百四十キロあるとはいえ、相手は二トン以上ある大型のバンである。まともにぶつかっても勝ち目は無い。一時的に動きを止めるぐらいはできるかもしれないが、こちらもただでは済まない。また二車線の道路の幅を考えれば、避けるのもさほど難しくはないだろう。

「韋駄天。オール、セーフティーオフ」

 一志が両腕を前に突き出す。両腕と両肩の外装がぱかっと開いた。同時にディスプレイに腕に仕込んだCCDカメラの映像が表示される。ご丁寧に照準マークが画像にスーパーインポーズされていた。紗奈の遊び心にあきれるやら感心するやらだ。

 ショーに使うつもりだったペットボトルロケットが姿を見せる。五百ミリリットルのペットボトルを使った小さいロケット。

「韋駄天。ファイアー!」

 両腕に一発ずつ、両肩に二発ずつ、計六発のロケットに、与圧計が振り切れるほど高まったボンベから空気が送り込まれる。

 シューーーーーキキュキュキキュキューーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 まるでミサイルの一斉発射のごとく六発のペットボトルロケットが発射された。

 重量五百グラムだが、二十から三十メートルも自身を打ち上げる推進力を、突進力に変換して目標に突き進んでいく。

 ガンドンバンガガン

 次々に命中し、壊れて水を撒き散らす。

 しかし二トンの車が計三キロの物体がぶつかっただけで、動きが止まるわけは無い。傷は付けれるが、それだけだった。

 車にとってはそれだけでも、ドライバーにとっては想定外の事態だった。

 逃走という焦りを生む行動中に、いきなり二メートル半の巨大ロボットが目の前に現れ、何かを発射し、それが命中してけたたましい音をたて、さらに撒き散らされた水が視界を塞ぐ。ハンドル操作を誤るには十分な状況だった。その上カーブを猛スピードで抜けてきたため、タイヤには限界ぎりぎりの負荷が掛かっており、ここでのハンドル操作のミスは、あっさり車の制御を失わせてしまった。

 キューーーギャギャギャギャギャーーーーー

 タイヤがグリップを失う。横滑りし始めたバンはそのまま立て直すこともできずに、センターラインを超えてガードレールを削るようにぶつかっていった。

 ガガガガガ、ドン……・シューーーーーーー

 車はガードレールで大幅に減速したものの、残った勢いで、横断用信号機の電柱にぶつかって止まる。

「新条!」

 一志は車の側面のドアを開こうとノブに韋駄天の手をかけた。

 メキ

 バーストモード状態の韋駄天にはパワーの制限がない。またオーバードライブモードですら三百キロのバーベルを持ち上げたが、握力もまたそれを支えるだけある。そのためドアノブは簡単にへしゃげてしまった。幸いロックはかかっておらず、開閉機構も正常動作したので、ドアは自動で開いていった。

 パンパン

 開いたドアから銃を突きつけられて、警告もなしでいきなり発砲された。しかし韋駄天正面の鉄板と一志の正面にある超強化プラスチックにはじかれる。また半ば興奮状態の一志には心理的な効果もない。

「なんだてめぇ!」

 さらに銃を撃とうとした帽子を被った男の手を、拳銃ごと咄嗟に韋駄天の腕で掴んだ。銃口を上に向けさせるつもりだった。ドアノブを簡単にひしゃげさせたパワーのある手で。

 メキ

 音源は拳銃か、それとも男の手か。

「!!!!!ぎぁーーーーーーーーーーー!!!!!」

 男が必死の形相で掴まれた手を外そうとする。しかし万力のごとき韋駄天の手はビクともしない。

 一志は無造作に掴んだ手を引っ張ると、男を車外に引きずり出した。

 そのまま掴んでいた手を離すと、男は勢いのまま路上を転がっていく。

「う、動くな!」

 改めて車内を見ると紗奈がもう一人の男に捕まえられ、ナイフを突きつけられていた。


「新条、無事か?」

「は、はい……一応……」

 実は車が事故を起こした際、車内を転がって座席に体をしたたか打ちつけたので多少痛い。当然シートベルトはしておらずエアバックの恩恵も無かった。ドライバーはエアバックの衝撃のためか気を失っているようなので、この場合は無かったほうがダメージが少なかったらしい。

 とはいえ、あまり周囲を気にしているわけにはいかなかった。目の前にナイフが突きつけられているのだから。

 スキンヘッドの犯人が焦っているのが紗奈にはわかった。車が止められ、仲間があっさりと引きずり出され、目の前には韋駄天が、メキメキと車体を捻じ曲げて、パワードスーツが迫っている。これで冷静でいるのは無理だろう。人質を盾にする程度の判断はできたが、状況を打破するには程遠いのが判っているようだ。

 紗奈もまた焦っていた。目の前にナイフを突きつけられていることもあるが、韋駄天の駆動音が異様だからだ。おそらくはバーストモード状態で、モーターは全力で動いていることだろう。バッテリーの残量が心配だった。韋駄天というアドバンテージを失えば、形勢が逆転する。

 おそらく一志が犯人の制止を無視して車体を捻じ曲げているのは、その危惧があるからではないかと思えた。

 つまり状況は五分。時間制限がある分、こっちが不利かもしれない。

(なんとかしないと……)

 自分が抜け出せれば、大きく有利になる。

 つまり状況を変えるキーは自分だ。

 犯人の腕は太い。首に食い込む片腕を両手で辛うじて支えている状況だ。力では敵わない。

 とはいえコンピューターの技術は、今は何の役にも立たない。

 着ている服は今日初めて着たもので、何か道具を持っているわけでもない。連れ去られている間に帽子は無くなった。いつもの色眼鏡でも付けていれば、レンズを割って刃物にでもできたかもしれないが。

(眼鏡?)

 思い付く。危険だが、やるしかない。韋駄天が止まってからでは遅いのだ。

 紗奈は片手を腕から離し、一度だらりと下げる。犯人はその動きに反応するが、何をするかわからないのだろう。動くな、と一言言われただけだった。

 間をおかず腕を勢い良く前に突き出し、その勢いを保ったまま肘を曲げ、手のひらを背後にいる相手の顔面に叩きつけるように動かす。位置はだいたい勘だが、丁度いい角度でぶつかったようだ。

「この! おとなしくしてろ!」

 動いた拍子でナイフを持った手がふらつき眼前を掠める。前髪の毛が数本切られた。

 しかし拘束している片腕は緩まない。むしろ力が込められ、喉に食い込みはじめる。

(息が……)

 本能が死を意識する。パニックになりそうな意識を理性で懸命に押さえ込む。

 紗奈は戻した腕を、その勢いのまま持っていた物を前の座席の台の金属部分に叩き付けた。

 パキィ

 乾いた音。狙い通りの形状になったかはわからない。確認することもできないまま、持っていたそれを拘束している片腕に付き立てる。

 ズム

 鈍い音。犯人の動きが一瞬止まる。何が起こったのか理解できなかったのだろう。

 それを握った紗奈の手に、固めの牛肉を調理している時に似た感覚があった。

 ほんの数瞬の間。

 犯人の腕に、さっき紗奈に奪われたサングラスの折れたフレームが突き刺さっていた。

「ぎぃゃぁぁぁぁぁ!」

 犯人の声。おそらく激痛のためだろう。拘束していた片腕の力が緩む。そのタイミングで紗奈は体を沈めて束縛から逃れると、ほとんど四つん這いの格好で車から這い出た。

「この!」

 犯人がナイフを振るう。

 ビリビリビリ

 ドレスのような服のスカート部分が切り裂かれた。しかし嵩張った服のため、幸い体にまでは刃は届かなかった。

「新条!」

「センパイ!」

 一志がレバーを離した自分の手で紗奈を掴むと、韋駄天ごと下がって車から、犯人から離れる。引っ張られる格好で紗奈は車から脱出できた。

「このやろう!」

 犯人が怒りのあまり飛び出てきた。その形相は、怒気は、紗奈に恐怖を与える。体が竦む。動けない。

 しかし一志の、韋駄天の腕が犯人と紗奈の間に割り込んだ。腕を広げる方向に振り回し、手の甲にあたる部分を犯人に叩きつける。

 ガコン

 鈍い音。咄嗟に両腕でガードしたようだが、スキンヘッドの男はそのまま道路を転がっていった。

「大丈夫か?」

 一志の声に、ようやく体の竦みが消えた。

「は、はい」

 安堵からか自然と笑みが出てきた。


「くそ……」

 スキンヘッドの男が片膝立ちで立ち上がる。

(なんなんだあれは!)

 白い巨人のようなロボットを見る。計画はうまくいっていた。最大の障害だった護衛の女は、人混みと拳銃で退けることができた。実際車に連れ込むまで予定通りだった。

 逃走後、途中で車を白いバンに乗り換え、検問等々を抜ける手はずだった。

 あとは依頼主に彼女を渡せば、多額の報酬が得られるはずだった。

 しかし白いウサギ頭の巨人の乱入は、想定外の代物だった。説明してもだれも信じないだろう。自分すら目の前のそれを現実感無く見ている。先ほど殴り飛ばされた痛みが、唯一の現実だと主張していた。

(依頼主とはこれきりだな)

 接触してきた背広の男を思い出す。結局自分達は末端の使い捨てだろう。成功すれば多額の金。失敗したらブタ箱行き。実にわかりやすい。

 そして失敗した。

 目の前の巨人のせいで。

 腰の後ろに付けたホルダーにしまってあった拳銃を引き抜く。

(どうせなら殺人までやったほうが箔が付く)

 理性が逆恨みの怒りを適当な理由で正当化させようとする。何かやり返さなければ気がすまないだけなのだが。

 白い巨人は何発も銃弾を受けたはずだが、まったく効いていない。装甲が分厚いのだろうか。

 なら、狙いは生身の少女だ。

 話しこんでいるのか、こちらにはまったく気づいていない。隙だらけだ。

「死ね!」

 声を張り上げる。反射的に少女がこちらを振り返った。自分を狙っている拳銃に気づき、その顔が恐怖に引きつるのを見て、自尊心を満足させる。これから起こる悲劇を想像して悦に入る。自分の顔がにやけているのが判った。

 引き金を引く。

 しかし、引ききれない。途中で引っかかったように止まった。

 見れば、拳銃の上に、スライドを掴むように手が被せられていた。手の持ち主を見る。護衛の女だった。セーフティがかけられたと気づくのはもっと後になってからだった。

「てめ……」

 言い終わらないうちに、顎に強烈な衝撃。膝で蹴り飛ばされたと気づく前に意識が飛んだ。


「篠山さん!」

「詰めが甘いな」

 意識を失って倒れた男から拳銃を奪いながら夕が答える。対象を助け出した直後が、緊張の糸が切れて一番気が緩む。素人の二人にはしかたがないことだろう。

(間に合ってよかった)

 内心安堵する。気は緩めないようにしているが、緊張を緩める。。

 疾走する韋駄天を追って、夕も階段を駆け下りた。百メートル十一秒台で走れる自慢の健脚だったが、今の格好と靴、そのうえ下り階段ではその力は発揮しきれない。どんどん離されて、韋駄天が大立ち回りしているの間にどうにか追いついたのだ。スキンヘッドの男がこちら側に殴り飛ばされなければ、拳銃を抑えることはできなかっただろう。そのぐらいギリギリのタイミングだった。

(しかしまあ、たいした代物だな)

 半年前までは押したら倒れる程度の玩具だった。実際ボールひとつが当たっただけで引っ繰り返って壊れた。それがここまで完成したのは単純に驚愕だった。

 人よりも早く走り回り、障害物をものともしない。

 どんな大男よりも強力な膂力によって、どんな暴力をもはじき返せる。

 さらに拳銃程度なら問題なく弾ける装甲を持つ。

 ついでに飛び道具、ペットボトルロケットも装備。

(会社に何台か欲しいな)

 冗談半分に考える。巨体による威圧感と、素人にはあの頭部の愛嬌。配備の仕方によってはなかなか効果的だろう。

(と、それより、会社に連絡して状況を収拾しないとな)

 携帯電話を取り出しながら、改めて状況を確認する。

 護衛対象は救出された。遠めに見る限り怪我もなく無事のようだ。

 救出の協力者、一志も無事。載っている機械が少々変な音をだしているが、とりあえず問題はなさそうだ。

 犯人の一人は昏倒させて武器を押収。懐からビニールテープを取り出して、腕を後ろ手にして巻きつけ中。

 もう一人反対側に犯人の仲間が倒れているが、腕を押さえながらのた打ち回っている。すぐにどうこう行動が起こせるわけでもないだろう。

 犯人が逃走に使った車は電柱にぶつかって停止中。正面はフロントガラスにヒビが入った程度に凹んだだけだが、側面は大破。エンジンは掛かったまま。

(ドライバーは……)

 そこまで考えた時、突然車がバックし始めた。タイヤを鳴らしながら、ガードレールに車体をこすりながら、嫌な音を立てて動き出す。

 のた打ち回っていた男が車に気づいて転がって避けた。その横で急停止する。

(仲間を乗せて逃げる気か?)

 全員捕まえるのが理想だが、紗奈は救出しており、犯人の一人も拘束している。逃げられてもあとは警察に任せればいいだろう。あくまで紗奈の保護が最優先なのだ。

 しかし、車は仲間が乗る前に、今度は前に向かって猛加速し始めた。発車時にタイヤから煙が上がる勢いだ。

(まさか!)

 夕はドライバーの形相を見て戦慄した。ヒビの入ったフロンとガラス越しなので多少歪んで見えることもあるだろうが、眼を見開き、顔が引きつっている。理性の欠片も感じられない。そんなドライバーが車を猛加速させたのだ。

 まっすぐ、韋駄天と紗奈に向かって。


「く!」

 一志は咄嗟に紗奈の腕を掴んで引っ張った。彼の腕は韋駄天の腕と固定されているから、掴んでいるのが生身の手だとしても、引っ張る力は韋駄天のそれだ。

 勢い良く紗奈は道路の反対側に向かって投げられた。彼女が蹈鞴踏みながらも辛うじて立って着地できたのは、一志の投げ方の配慮と奇跡によるものだった。彼女の運動神経はそれほど良くない。

「セ、センパ……」

 紗奈は車の進路上からは離れた。しかし韋駄天自身は避ける暇が無かった。正面から突進してきた車を受け止める。

 グワシャ

 車のフロントが潰れた音か、韋駄天がどこか壊れた音か。

 激突した車が、瞬間浮き上がるほどの衝突。

「ぐ……」

 割れたフロントガラスの細かな破片が降り注ぎ、何かの部品がはじけ飛ぶ。

 衝撃で一志はシートベルトに押し付けられ、直後に座席に叩きつけられた。息が詰まる。衝撃吸収用に余った発泡スチロールをシートベルトにくっつけておいたのが幸した。なんとか肋骨は折れなかったようだ。

 韋駄天は車にめり込んでいた。腕はフロントガラスを突き破り、胴体はフロントの外装が飲み込むように変形して覆われている。脚部に力を込めて辛うじて耐えるが、二トン対二百四十キロ。まともに勝負になりはしない。

 ギャリギャリギャリギャリ

 タイヤから白煙が上がる。ジリジリと押され韋駄天の足の裏からも白煙がでている。

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね……」

 まるで呪詛のような声が聞こえた。見るとドライバーが異様な目つきでこちらを見ながら呟いていた。

 一志は精神的な恐怖を感じた。一瞬身体の痛みが消えたほどだ。

 韋駄天の腕を抜き、めり込んだ胴体をなんとか引き剥がし始める。単純に恐怖から逃げたかった。それだけだ。しかし突進してくる車からは容易に抜け出せない。

 ピーーーーーー

 不意な電子音。センサーの警告音だ。

 バーストモード中、センサーのほとんどは無効になっている。

 有効なのは二つ。

 与圧計と電圧計。

 ディスプレイを見る。『予測残稼働時間 00:00:00』となっていた。

(バッテリーが……)

 ディスプレイが消える。

 フィィィィィィ…………・・

 モーターが停止する。喧しいほどだったコンプレッサーの作動音も止まる。

 バッテリー切れ。もっとも恐れていた事態。こうなっては韋駄天はただの重たい置物でしかなくなる。

 シューーーー

 安全弁から与圧タンクの空気が抜けていく。押されながらも踏ん張っていた脚部から力が抜ける。抜け出すために動かしていた腕が止まる。

 とたんに韋駄天は車に押されるままとなり、脚部がアスファルトに擦れる音や車自体が変形する嫌な音を立てつつ速度が上がっていく。

「センパイ!」

「荒川!」

 紗奈と夕の声が聞こえた。しかし一志には応える余裕は無かった。

「ひゃははははは。死ね!」

 ドライバーの嫌な声が耳に響く。

 急加速してく車。しかしほんの百メートルも行かないうちに、急にハンドルが切られた。

(な!)

 大学周辺の土地勘はそれなりにある。車が進路を曲げて、どこに向かって進んでいるのか、直感で理解した。

「や、やめ……」

「死ねよ!」

 ドライバーの男がドアを開けて飛び降りた。

 バキバキバキ

 車は勢いそのままに、フロントに韋駄天をめり込ませたまま、フェンスを突き破って飛び出した。

 そこは貯水池の上だった。


 ドボーン

 車と韋駄天が貯水池に飛び込み、冗談のような巨大な水柱が立った。

「荒川!」

 近かった夕が駆けつける。立ち上がりかけたドライバーの男を組伏せ、両手、両足をテープで固定する。

「ひゃははははは。死んだ。死んだ!」

 狂ったように喚く男。夕に圧し掛かられ、両手を固定されているのにも関わらず、笑うのを止めない。

 夕は怒りのあまり殴りかけたが、構っている暇が無いので動けなくして放置した。

 破れたフェンスに駆け寄り状況を確認する。

 水に落ちた車はすぐには沈まない。複雑な形状をしたモノコックボディや部品の間に空気があるからだ。またドアや窓が閉まっていれば、相当な時間浮いていられる。ただこのバンは側面を大破しており、運転席のドアも開いていたため、すでに半分以上沈んでいた。ブクブクと気泡を出しながら見る間にに沈んでいく。

 フロントにめり込んでいた韋駄天はすでに水面下だ。水は緑色をしていて透明度は無いに等しく何も見えない。貯水池の深さは判らないが、普通三メートル程度はあるだろう。もし韋駄天が車の下敷きになってしまったら、一志は抜け出すこともできないに違いない。

(急げば間に合うか)

 夕はジャケットを脱いで、靴も脱ぐ。着衣のままではまともに泳げない。できるだけ水中で活動ができるように急いで準備する。

 しかし、そんな事をまったく考えない人間も居た。

「センパイ!」

 紗奈は走ってきた勢いのまま、何の躊躇もなく池に飛び込んだ。

 ドレスのような服を着たまま。

「お、おい!」

 一瞬の事で、止める暇も無かった。


 紗奈は韋駄天が貯水池に落ちたのを理解した直後、全ての理性的な思考が働かなくなった。

 韋駄天単体の重量は百八十キロ。エアーマッスルに残った空気が浮き袋代わりになるかもしれないが、重すぎて浮かぶほどの浮力は期待できない。しかも車に圧し掛かられているような状況だ。

 自分が四号の下敷きになったときの事が頭によぎる。手足が自由でも四点支点のシートベルトだけで身体は固定されてしまう。ましてや一志は全身を韋駄天意固定している。

(助けないと!)

 それ以外の思考は綺麗に頭から消えた。

 走っていた勢いのまま、躊躇無く飛び込んだ。

 三ヵ月程度だがプールに行き続けていたので、水泳にはそこそこ自信が付いていたのも拍車をかけた。

 しかし、飛び込んでから泳ごうとして、初めて着衣が邪魔になることに気づいた。

(お、おもい……)

 水を吸った布は身体に絡みつき動きを阻害する。また水中での抵抗を大幅にあげるため、手足が思うように動かせない。

 バシャバシャバシャ

 もがくが、もがくほど沈んでいく。

(センパイ……)

 助けようとして溺れていた。自分の浅はかさを後悔するが、もう遅い。

 勢い良く飛び込んだため距離は稼いでいて、あとほんの数メートル先に車が見える。しかしその数メートルが進まない。手を伸ばしても届かない。

 バシャバシャバシャ

 浮力を失い、徐々に沈んでいく。どんなに泳ごうとも、水を下手にかき回す程度でしかなかった。

 そして身体が、頭が、完全に水面下に沈んだ。

(このまま死ぬかな……)

 水の抵抗が大きすぎて、また服が絡んで動かすことも難しい。

 止めている息が苦しくなる。もう余力は無い。

(……センパイと一緒に死ねるなら……まだましかな……)

 悲しかったが、それもいいかと思えた。あきらめたとも言う。

 身体の力を抜く。

 どのぐらい水中にいだだろうか。息の続いていた間だからほんの一、二分だろう。しかし紗奈にはその数倍に感じられた

 限界にきて、息を吐く。緑色で不透明な水の中で、吐き出した空気が水面に昇っていくのが判った。代わりの空気はもうない。あとは水が肺に入り、呼吸が止まって死ぬのだろう。

 身体が水中にたゆたう。

 沈んでいるからだろう、流れのまま両手が上に伸びる。

 死の恐怖から逃れるように、意識が、思考が停止していく。

(センパイ……)

 心の中で呟く。もう喋る事もできない。

 しかし不意に手をぐいっと引っ張られた。

 何かと思う間もなく頭が水上に飛び出た。

「ゴホゴホゴホゴホ」

 飲みかけた水を吐き出し空気を吸う。しばらくして呼吸が落ち着く。

「大丈夫か?」

 目の前に一志が居た。紗奈は理解ができずにキョトンとしてしまう。

「あれ? センパイ……」

「あれ、じゃない。なんで新条が溺れてるんだ?」

「え、あの、助けようと、して……」

 少し周囲を見回して状況を把握する。

 ここは貯水池。それは間違いない。

 奥に車のテールランプが見えた。車体のほとんどは水面下に沈んでいる。

 韋駄天の姿は無い。おそらく沈んでしまっているだろう。

 目の前の一志も頭から濡れている。一緒に沈んだのは間違いないようだ。

 ふと気づくと、一志と紗奈の間に、何か浮かぶものがあった。

「これ……シートベルト?」

 衝撃吸収用に発泡スチロールを貼り付けたシートベルト。それを浮き輪代わりに使っていた。

「え? でも、どうして? 脱出できたんです?」

「忘れたのか? 五号から全ての固定は、電磁ロックにしただろ? 電気が流れなくなれば、ロックが外れるやつに」

 紗奈は呆然としてしまった。そうだった。四号で紗奈が下敷きの状態から抜け出せなかったことをヒントに、五号からは問題があったら全て外れるように設計したのだった。

「さすがに車に押されている間は抜け出せなくて、池に落とされたけどな。まあこいつに」

 シートベルトを軽く叩く。

「掴まって浮き上がってきたってわけだ」

 一志の言葉に、しかし紗奈は無言。呆然としたままだった。

「池に落ちた時は、さすがに死ぬかと思ったけどな」

「……死ぬかと……」

「え?」

「死ぬかと、思ったんですよ!」

 紗奈が叫ぶ。同時に大粒の涙がボロボロと瞳から溢れてくる。

「ものすごく、心配したんですよ! 助けようと、飛び込んだんですよ!」

「そ、そうか……」

「私自身も、死に、掛けましたけど! それ以上に、心配した、ですからね!」

 一志は気圧される。

「ご、ごめん……ありがとうな」

 気圧されるままに謝る。そして、心配してくれたことを嬉しく思う。

 紗奈の怒気が無くなる。しかし涙は流れ続けていた。

「センパイ……よかった。本当に無事で……よかった……」

「新条のおかげでな」

 頭にポンと手を置く。

「え?」

「新条が四号で事故を起こしくれたから、欠陥がわかって改善できた。だから今、俺は脱出できた。だろ?」

「え、でも、それは……結果論というか……」

「かもな」

 頭に置いた手で、今度は彼女の涙を拭く。

「それでも、新条のおかげだ。ありがとう」

 気づくと、二人は寄り添うように浮かんでいた。間にあった浮き袋代わりのシートベルトは無意識に横に動かされている。

 ジッと見詰め合う。恐怖が去り、不安が去り、安堵と安心が心を占める。視界には相手の顔。耳には相手の言葉だけ。

 お互いの存在が全てを占める。

 心が重なる。

 距離が縮まっていく。

「おーい。無粋だと思うが。そろそろ上がってこないか? 警察も来てるぞ」

 夕の声で二人とも我に返る。見ると、破れたフェンスのところに夕が立っており、その周囲に幾人かの警官とパトカーが見えた。ロープを用意しろとか竿あるか、とか救助方法を検討している声が聞こえる。

 一志と紗奈はお互いを見る。先ほどのことが少々気恥ずかしくあったが、不思議と笑い合えた。


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