プロポーズはサプライズで
あるテレビ番組を見ていた聡は、すばやくリモコンを取り上げて消してしまった。
(アホらしい……)
ひとり、夕飯を食いながら、先ほど画面の中で嬉し泣きしていた若い女の子を思い出していた。
何がサプライズだよ。あれが泣いて感激するようなことか? だいたいがびっくりさせて感動させようって魂胆がイヤなんだ。
見ていたのは、バラエティ番組内の企画で、付き合って3年以上のカップルに番組スタッフと彼氏が、彼女を大掛かりにサプライズしてプロポーズをするというもの。
毎回女の子が泣き出すのが定番で、番組を毎週見ていた聡だったが、毎度このコーナーで女の子が見事に泣き出すシーンにはさすがにアキアキしていた。もっとおもしろいことやれよ、そうテレビ局にいいたかった。
ただ先ほど出ていた女の子が意外に可愛かったのでコーナーがつまらなくてもつい見ていたのだ。もう泣き止んでいるだろう、と再びリモコンのスイッチを押した。画面は依然として女の子の泣き顔を映していた。しょうもない。聡はすばやく他へチャンネルを変えた。
なぜ、いやなのだろう? 聡は自分に問い掛けてみた。ただ飽きただけではないはず。そうか! 女の子が彼氏を思い感激している姿に嫉妬しているのだろう。悔しさのようなものか?
が、聡にもそれなりに彼女はいる。その彼女があんな風に感激して泣き顔を見せれば気持ちいいものだろうか?
聡は自分のことに当てはめてみた。やっぱり合わない。かっこいい、またはびっくりするようなシチュエーションなんかなくても、心のこもったプロポーズであればいいのだ。
テレビの女のように泣くことはないんじゃないかな? 嬉しそうな顔をみせればそれでいいじゃないか。そんなことを思ってみた。ただ男と女は感じ方が微妙に違うからああなるのが普通かもなあ。最後のから揚げをお箸で挟みながら、彼はちょっと納得していた。
(唯だったらどうするかな?)
聡はなぜか笑いが込み上げてきた。たとえどんなサプライズをしても、彼女は落ち着いていて、ありがとうと一言いうだけのような気がする。
そんなことを考えていたらなんとなく彼女の声が聞きたくなってきた。が、携帯を取り出した途端、知り合いの男から電話がかかってきた。
「チェ、またセールスか?」
仕方なくその電話を取ることにした。
「こんばんは。和田です」
夜だというのに、バリバリ全開な声が耳に飛び込んできた。まるで今からとことん仕事を取るぞ、といわんばかりだ。
「こんばんは」
逆に迷惑そうな声が思わず出てしまった聡。
「ハッ、恐れ入ります、上田さん。お疲れのところまことに申し訳ないです。ただ、ちょっとお耳に入れたい話がございまして、電話させていただいた次第です」
和田は聡の機嫌が悪いのを敏感に感じとっていたが、そんなことではひるまない。この程度なら大丈夫との思いが声に出ている。
「ああ、いいよ。でも手短に頼むよ」
一方、聡の方はいろいろと世話になっている友の知り合いなので、無下に断ることはできない。話だけはちゃんと聞くが、無駄なモノはもう買わないつもりだった。部屋の押入れの奥には体を鍛える器具だの、怪しげな健康食品だの、役に立たないものが静かに眠っているからだ。
「ところで先ほどの『はら坊のドキドキテレビ』、ご覧になりました?」
聡は少し動揺した。それは今しがたまで見ていた番組。しかも、見てただろうと暗に決めつけるような声。
「……いや、見てない。7蒔のニュースを見てたから……」
あわてて嘘をつく。見たといえば、よけい和田のペースに巻き込まれそうな恐れがあるので。
「フゥー」
和田のわざとらしい溜息が電話越しに聞こえてきた。
「なぜあの面白い番組を見ないのですか? 特に上田さんにとって、これからきっと参考になるモノだったのに……」
「ハァ?」
「失礼ですが、一度も見たことないのですか?」
意外だった。和田がテレビ番組の話をするとは。『耳に入れたい話』となんのつながりがあるのか? まさか、あの番組が面白いから毎週見なさい、ではなかろう。
「まあ、何度か。でもあまり興味ないねぇ」
用心しながら言い、和田の次の言葉を待った。
「興味ないならしょうがないですが、上田さん! あなたも近いうちやる、『アレ』ですよ」
「『アレ』って?」
ハハ、とちょっと馬鹿にしたような笑い声が聞こえてきた。
「プ、ロ、ポ、ウ、ズ、です」
続けてクックッと笑いをこらえる声が漏れてくる。いかにもおかしくてたまらなそうだ。しかし、まだ聡には合点がいかなかった。彼のセールスとどう関係しているのか?
「言ってる意味がよく分からないんだけど……」
「じゃ教えましょう、うちはいま、新事業としてイベントの企画をやっており、その中で特に人気なのがサプライズ企画でして、ハイ……」
言葉をいったん切ると、酒でも飲んでいるのか、何かゴクっと喉を鳴らす音がした。
「すなわち、プロポーズはサプライズにしませんか?」
和田の営業トークが炸裂しだした。聡は服従した動物のようにただ彼の話に耳を傾けていた。20分は続いただろうか、ぼんやりした頭の中でいつのまにか和田の勢いのある声は雑音に変わり、意味がよく分からなくなった。が、最後の方は理解できた。じゃ、近いうち寄らせてもらいますから。プチッと電話を切る音。いつものパターンである。
携帯を置いてしばらくぼんやりしていた。なんでいつもこうなるのかな? と聡は押し切られていく己の弱さを反省した。もう少しうまくかわしていかなくては。
それと今回、和田の情報収集力にも驚かされた。いくら共通の友人がいるとはいえ、唯のこともいろいろ知っていたのだ。まさか河野が教えたわけじゃなかろうに。どこで調べたのか?
ただ一方で和田が多少可哀そうにも思えてくる。少し前まで健康食品の販売。転職したわけでもないのに、今度はイベント関係の仕事。全然内容が違う。いったいどういう会社だよ、何でも屋か? 大変だよな。いや、あぶないんじゃないのか?
やがて聡はもとの考えへ戻ってきた。やっぱり和田に同情は禁物だ。また契約するはめになってしまう。
聡の理解した範囲でまとめると、恋人の唯にサプライズを仕掛けてプロポーズをしなさい。その手伝いを請け負うから、通常の料金よりも破格の安値でしてやる。その詳細を近々説明しにくる、ということらしい。
それから数日後。聡が夕飯を食べてるときに突然、和田はやってきた。
玄関先で、ドンドンドンと力強いノック音が聞こえるや否や、独特の暑苦しい声が部屋に響いてきた。
「お邪魔します」
上がれともいってないのにドアを開けてズンズン入ってきた。あわてている聡を尻目に、食事しているテーブルにドシンと座り、太った丸顔から噴き出している汗を、くしゃくしゃのハンカチで拭き始めた。でっぷりとした体が少しくたびれ気味のダークスーツを圧迫しているようにも見える。
「やぁ! 夕食時失礼します。ほう。なかなか贅沢な食い物を並べてますね」
ただ、ほとんどが冷凍モノの天ぷらだ。
「いや、私は結構。昼食が遅かったんで……」
和田はそう言うと、右手を横に数回振ったが、聡は聞こえぬふりをして無視した。
それから数秒ほど聡の行動を見極め、食事にありつけないのを悟った和田は、自分の座っている付近の食器類を勝手に移動させ、書類らしきものを並べ始めた。
彼の押しの強さは今に始まったことではない。毎度のことだが、聡はお茶だけ出すことにした。客用の湯のみを取りに台所へ行っている間に、和田はテーブル上のエビ天を1個、パクッと一口で食べ終わった。
何も気づかない聡がお茶を勧めると、和田はすました様子で茶をすすりながらいくつかの書類を点検していた。
「やっぱり、この間電話で説明したAプランにしましょう」
「あのさぁ、和田さん。俺まだやるとは……」
和田はグッと睨むような表情で、
「もちろん、それはあなたの自由。ただし、いいですか? 今この機会を逃すとあなたはずっとしないと思う」
「いや、そんなことは……」
「とにかく私にまかせなさい」
バンと聡の肩を力強く叩いて、ガハハと大声で笑った。
それから2時間近くも執拗な説得が続き、とうとう聡は観念した。
「わかったよ。やるよ。やりゃいいんだろう」
ヤケクソのようにいい放ち、すでに冷たくなった夕食の食べかけを恨めしげに見つめた。
「やった! ありがとうございます。では、こちらにサインを……」
途端に和田はニッコリした表情になった。そして契約書とボールペンをすみやかに取り出すと、わざとらしい、うやうやしさで聡の面前に差し出した。
(またやられてしまった)
契約書に名前を書いて印鑑を押すとき、毎度げんなりしたものを感じるのは、その後の商品なりが聡にとってほとんど役に立たなかったからである。
満面に笑みを湛えながら、契約書を再度確認した和田はすばやく帰り支度を調え、嬉々した表情で帰っていった。その去り際の言葉が、
「唯さんが泣いて喜びますよ」
である。
しばらくそのままじっと座っていた聡。先ほどのことを、唯に電話で話そうと思ったが、それをやっちゃいけないことにあわてて気づいた。和田の、『泣いて喜びますよ』とはサプライズが成功したときのことなのだろう。
「馬鹿だなあ、オレ。話したら、元も子もないじゃないか」
ひとり苦笑いを浮かべた。それから横になり天井を見上げ、
「サプライズプロポーズなんて、あれほど馬鹿にしていた俺がやるのか? ウワァ、ヤッパ変だ」
そう呟くと聡は急激な睡魔におそわれ、そのまま深く寝入ってしまった。
「いいですか? 上田さん、いよいよ明日ですよ。必ず、私のいうことをよく聞いて練習してくださいよ」
和田は極太の人差し指を、聡の眼前に突き立てて念を押している。ガミガミと怒鳴るように言うので、聡は腹が立っていた。
(なぜお金払って怒られなくてはいけないのか?)
そう思いながらもひたすら我慢した。これもプロポーズを成功させるためだ。
あの日、和田としぶしぶ契約を交わしてから、あっという間に2ヶ月が経ち、とうとうプロポーズをする前日になってしまった。今が直前リハーサルである。途中何度か簡単な打ち合わせをした。そのたびにどこか違和感があったのだが、どうやらそれは和田に原因があると思い至った。聡とはサプライズに対するイメージがだいぶ違うのだ。聡自身このようなイベントめいたものは元来好きではなく、できるだけ小さく、さりげなくやりたい。が、和田はできるだけ大げさに派手にやりたがっていた。そうすれば料金が上がるからだ。またとにかく早くやってしまって、お金を稼ぎたいとの思いが感じられた。
もちろん、会社に電話して担当者を変えてもらう、という手もある。和田に貰ったパンフレッドには企画担当の営業が気に入らなければ替えてもよいと書かれている。
そのため会社に電話して、営業を変えてくれと何度か言おうとしたが、結局聡はできなかった。やはり友人との関係がまずくなることを恐れたからだ。
確かに和田のセンスは合わないが、こちらの意見、特に予算に関しては多少聞き入れてくれたので、最終的に聡は我慢することにしたのだ。
サプライズの予定として、明日が決行日。プロポーズをする場所は自宅。明日は聡と唯が初めて会った日だが、唯は多分憶えてないだろうから、あえてその日にした。
数日前から唯に対して、友達から美味しいモノをもらったので、夕食を食べに家に来ないかと軽く誘いをかけていた。唯は快く明日来ることを約束し、楽しみねと嬉しそうな声で応えていた。その本来の目的を知らない唯が家に入ると綺麗な飾り付けが至る所にされており、また夕食も豪勢な料理が所狭しと並べられている。びっくり戸惑っている唯をそのままテーブルにつけ、今日が2人の出会い記念日ということを唯に話し、とにかく乾杯をする。
そこへ突然、玄関に訪問者が現れる(和田の案では押入れから出てくる予定だったが、唯が腰を抜かすといけないのでそれは変更)。来るのは3人のアルバイトの学生で、選りすぐりのゴスペル部(らしい?)。学生たちは二人の周りで、唯の好きな歌を歌い、その曲が終わったあとに、聡のプロポーズの告白タイムを設ける。そして事が終わればゴスペル部の祝福の言葉とともに、再び唯の好きな曲と陽気な恋愛ソングを数曲歌う、というありきたりなもの。聡は内容を聞きながら、多少しらけ気味になった。が、もうこれでいくことにした。
ただしこれはうまくいったときの話。万一、唯がプロポーズを断ったり、まだもう少し待ってほしいとか言った場合は、あとは聡本人に任せるという。会社はあくまでプロポーズの演出まで、なのだ。和田によれば、最高のお膳立てをするが、最後は本人の意思と力量で決まるとのこと。聡本人は、断られても笑って済ますつもりでいる。
だが聡は今、和田に叱られながらプロポーズの言葉を練習している自分が情けなくなっていた。
(ばかばかしい。何がサプライズだ。)
その思いが常に根底にあるからか、練習するのも気分が悪かった。
和田に言わせれば、聡の声はセリフの棒読みそのもので、ダメだという。もっと力強く情熱的に言わなくては、女の子は承諾しないと力説した。
しかし。しかし、だ。聡にしてみれば和田を相手にしてプロポーズの練習すること自体無理があった。ふてぶてしい丸顔の太ったガイを眼前にプロポーズの言葉を言っている状況が、たまらなく気持ち悪かったのだ。せめて、女の子。いや、ぜいたくは言うまい。とにかく女であればいい。
その思いにやっと気づいたのか。和田は、
「しょうがないな、上田さん。やっぱり女がいいんですね」
とゲラゲラ笑いながら言う。
「当たり前だ!!」
思わず声を荒げた聡。
和田は会社に電話をかけて、手のあいている女の子を一人呼ぶように話していた。
「ウン。そうそう。彼女ならいい。すぐに来るよう言ってくれ」
どうやらうまく連絡がついたようだ。よかった。電話を切ると和田はニタニタしながら、
「プラス1万です」
という。
「なんだよ。それくらいサービスしてくれよ」
「ハハハ。わかりました。サービスしときますよ、ヘヘ」
和田は下品な笑い方をして了解した。手馴れた風俗店員のような物言いに、聡はまた腹が立ってきたがなんとか抑えた。
すると、20分後やってきたのは意外にも清楚な雰囲気の超可愛い女の子。よくみかける女性従業員の制服を着ているが、まだデビューしたてのアイドル!? と見紛うほどの美貌の持ち主。失礼な話だが、和田の会社にこういう女の子が居たことに聡は驚いてしまった。そして今度は違った意味で喋れなくなりそうだった。
美人すぎる女の子も考えものだ。これじゃ、唯にプロポーズするより難しいぞ、と内心戸惑ったが、女の子の方が意外と気さくな感じで、優しく聡を見つめ、
「上田さん、上田さん」
と練習前に親しく話しかけてくれたのだ。そのかいもあってか、素直に言葉が出てきた。ただ練習とはいえ、知らない女の子にプロポーズの言葉を言うのも変な気分である。
「ユイ! 俺と結婚してくれ! これからはお前と一緒に時を過ごして生きたい」
陳腐なセリフだが、可愛い女の子が恥じらいを含んだ瞳でうなずき、聡に接近して、
「ハイ! お受けします」
と透明感のある素敵な声で応えると、なんだか聡はドキドキ且つまんざらではない気持ちにさせられた。ある種の感動に近い気分。もちろん、唯と思いながら練習しているから、気分が高まっているのだろう。ただ、一方で浮気しているような妙な気にもさせられたのだが……
「カァ――ット!」
突然、映画監督の真似をした和田が叫びに近い声を上げた。
「いやぁ、驚いた。さっきと違い、いきなりうまくなったじゃないですか。それで結構ですよ」
和田はニヤニヤしながら、
「やっぱり代役がよかったからかな」
といい、女の子に笑いかけた。彼女は戸惑いながら少し顔を赤らめて、
「いえ、上田さんの、恋人に対する情熱の強さですよ」
と聡を立ててくれるようなことを言う。きっと性格もいい子なのだろう、と聡は思った。
「ありがとう」
聡も照れながらお礼を言った。まるで高校生が文化祭で披露する演劇さながらの雰囲気で、結構この練習を楽しめた。
やがて和田と女の子はそれぞれ車で帰っていった。
聡はひとり、ぼんやりと部屋の中を見渡した。紙テープなどのパーティーグッズで天井や壁に綺麗な装飾が施されている。2人のアルバイトスタッフが1時間くらいでやったものだ。準備万端。すべては明日のために、だ。
(意外といいじゃないか!)
サプライズをバカらしいと考えていた聡がいつのまにか乗り気になっていた。案外俺は単純なのかな、と自らの気持ちの変化にあきれながらも、それなりに満足していた。
(いよいよ明日はプロポーズだ!)
今からワクワク、ドキドキしてきた聡。明日は仕事にプロポーズにと、慌しい一日になりそうだ。
翌日の午後。夜のプロポーズが近づいてくるにつれて、仕事もだんだんと手に付かなくなった聡は、上司に言って一時間早く帰らせてもらうことにした。ちょうど仕事の方もそんなに忙しくなく、急用ができたので帰りたいと上司に言うと、別に嫌な顔もされずに許可をもらった。ああ、まるで俺のために、仕事が合わせてくれているようではないか、と帰宅途中笑いが込み上げてきた。
自宅に帰り、改めて綺麗に飾り付けられた部屋を見回した。
(いよいよだな…)
心地よい緊張感が込み上げてきた。料理等は6時ごろ届けるとのことで、まだ30分程時間があった。そのため聡は風呂に入っておくことにした。やっぱりこういうことをやる時は、心も体も綺麗にしておいた方がよいだろう。そんな思いから湯船にお湯を入れるとすぐ浸かった。
湯船の中で気持ち良さそうに、またプロポーズの練習をしていた。
「ユイ…、ユイ…」
何度も彼女の名前を呼びながら、結婚してくれ、との言葉を口に出す。もし誰か、聡の部屋に来ていたとしたら、変に思われたかもしれない。風呂場の方から、感情の入った独り言が聞こえてくるからだ。それほど上機嫌に声を上げて練習していた。そろそろ湯船から出ようかと思っていたら、居間の携帯が鳴りだした。
「あ、唯かもしれない」
そう思い、あわてて裸のまま風呂場から出た。そして全身をバスタオルで拭きながら、テーブルに駆け寄った。携帯のディスプレイには唯の名前が出ている。やっぱりそうだ。
「ハイ……」
なぜか緊張気味な声の聡。今夜のことを意識したのだろう。
「ねえ、今日の7時だったよね? 」
何も知らない唯の声は素っ気無い。でもやっぱり唯の声を聞くと嬉しくなる。
「ああ、そうだ」
優しく答える聡。
「わたしおなかすいちゃって……6時半からはじめない?」
笑いながら言う唯。
まずい。それはまずい。時間通り来ないと思わぬトラブルになるかもしれない。
「ウーン。そうだなあ。でも、ちょっとした準備もあるから、7時に来いよ」
「準備って?」
「いや、別に何でもない」
「じゃ、6時半でいいじゃない」
何も知らない唯は無邪気に主張する。
「でもな。ちょっと手が込んでてさぁ。実を言うと6時半に間に合わないかもしれないんだ」
「え? 何なの? ソレ」
「まあ、ソレは来てのお楽しみってこと。おなかペコペコだともっとうまいぞ」
「フーン。じゃ7時に来るわ」
納得してない感じの声だったが、なんとか了承してくれた。
「ありがとう。じゃ、待ってるよ」
できるだけ水滴がつかないように携帯をテーブルに置きなおすと、掛け時計を見た。6時まであと5分しかない。急がなくては! 聡はまた風呂場へ駆け込み、バタバタと服を着込んだ。
6時15分。聡はかしこまって居間に座っていた。着ている服も少しお洒落なものにした。髪の毛も丁寧に撫で付けて、鏡の前で仔細に点検する。よし! バッチリ。ふたたび掛け時計を見た。6時18分。もう届けにきてもいいはずだが……。少しばかりの不安が頭をもたげてきた。まさか忘れたなんてことはないだろう、とその思いを抑えた。もう少し待とう。
が、20分過ぎてもまだ来ない。さすがに心配になってきた。もしかしたら配達の途中で事故にでも遭ったのでは? とにかく和田に電話しよう。携帯を取り和田の番号へ発信してみた。しかし呼び出し音が聞こえるだけで、なかなか出ない。そのまま20回ほど呼び出したが反応はない。何で大事なときに出ない。7時には唯が来るんだぞ! イライラした感情が聡にこみ上げてきた。
今度は和田の勤めている会社へ電話した。ここも呼び出しはするが、全く出ない。いったいどうなってるんだ?
とうとう6時30分になってしまった。聡はたまらず、もう一度会社に電話してみた。やはり呼び出すばかりで、反応がない。あきらめかけて電話を切ろうとしたその時、女性の迷惑そうな声色が聞こえてきた。
「ハイ、〇×商事です」
「あのう……今日、サプライズプロポーズを頼んでいる上田ですが」
「えっ? そうなんですか。困っちゃうな」
聡は女性の言動に唖然とした。なんで困るんだよ。多少語気を強めた声で、
「あの、6時に届く予定の料理がまだ来てないのですが……どうなっているのでしょうか?」
と尋ねた。すると相手は、
「ちょっと待って」
ぞんざいな言い方で受話器をどこかに置いたのか、ゴツンと乱暴な音を響かせた。聡には、向こうの会社の慌しく、怒号を含んだ声が幾つか聞えてきた。
「どこに行ったんだ!」
「早く見つけろ!」
そんな声とともに、
「申し訳ありません」
とか、
「私どもにも分からないんですよ」
泣きそうな電話応対の声も聞えてくる。何かあったのだろうか? 聡の不安はドンドン深まっていく。すると受話器を取り上げる音がした。
「ハイ、お待たせしました」
今度は年配の男性の声だ。言葉は丁寧だが、先ほどの女性同様ぶっきらぼうだった。
会社の応対に腹が立つ聡だったが、できるだけ我慢した。一刻も早くどうにかしてほしかったから。
「すみません、料理がまだ来て……」
聡の言葉を途中でさえぎり、
「来ることはありません。申し訳ないですが」
平然とそう言った。その言葉にカッとなった聡は思わず怒鳴った。
「何だよ! どういうことなんだ。こっちはお金払ってるんだぞ!」
「それは直接担当者と話し合ってください。今、私どもの方も込み入った諸事情がありまして」
「そんなことは関係ないだろ……ア?」
聡が話している最中にもかかわらず、電話は一方的に切られた。
(なんていいぐさだ。こんな会社に頼まなきゃよかった)
後悔や悔しさ、さらに怒りが頭の中で渦巻いている聡だった。このままではおさまらない。今すぐにでも和田に文句を言い、きちんとした説明を聞かなくては。絶対納得できない。
ダメモトで彼の電話番号を押した。20回ほど呼び出し、あと5回で諦めようと思っていたら、その3回目にようやくつながった。
「ハイ、和田です」
声のトーンが普段よりも幾分下がっている。
「上田です。お世話になっています」
聡はわざと丁寧な言葉を使った。少し不気味な間があり、
「いやぁ、上田さん。真にすみません。こんなことになっちゃって……」
力ない声で笑いながら話す和田。
「いったい何があったの?」
「アレ? 会社から聞きませんでしたか?」
「いや、ただ料理が来ないということしか聞いてない」
「あ、料理ね。ほんとごめんなさい」
謝ってはいるが、どこか他人事の感がある。
「上田さん。今からやるべきことを教えます」
相変わらず上から目線の言い方だ。
「何?」
「恐れ入りますが、部屋の飾り付けを全部剥がしてください」
「ウン」
「それで今回のサプライズは中止にします」
「オイ! 先に理由を説明してくれ」
怒りを含んだ声で言うと、電話の向こうの和田は小さな溜息を漏らした。
「じつは。うちの社長、会社の金を持ち逃げして、現在行方不明なんです」
「うわ、そりゃ大変だ」
聡はさっきの社員達の態度の悪さが少し理解できた。自分たちの給料がどうなるか分からないのに、客のことなどかまってられるか、ということだろう。
「でも和田さん、それなら一刻も早くこちらに連絡してくれなきゃ困るよ」
「それは申し訳ありませんでした。今日の午後判明したことですし、てっきり社のモノが連絡してると思ったものですから」
聡はその言い訳を聞きながら、ホントかどうか怪しいものだともう少しで言いそうになった。
「わかった。でもさ。悪いけどこちらは関係ないのだから……昨日の告白練習や部屋の飾り付け等は無理にしても、サプライズ代は返金してもらえるよね」
不安を抱きながら尋ねると、和田は数秒沈黙して、
「残念ながら、保障いたしかねます」
と答えた。
「オイオイ……それはないでしょ」
「いや、私どもの給料も無い状態ですから」
「うわぁ。何なんだ。いいかげんにしろよ。最低の会社じゃないか。」
腹立たしい感情が高まり、語気強く怒鳴った。
「ごもっとも。ただし、社長が見つかりお金を取り戻せれば、返金の可能性もあります」
聞きながら聡はあり得ない話だと思った。仮に捕まったとしても、あの会社の従業員たちなら、自分たちの給料を最優先するだろう。もちろんそのことは口に出さずに、催促だけは絶対しておこうと思った。
「とにかく俺は返してもらうつもりだからな。また連絡して……」
そう言い、聡は話を切ろうとした。もうそろそろ唯が来るからだ。すると和田が突然、
「あ!? 他にも何か伝えることがあったような気がするけど」
と早口で言った。
「何を?」
緊張しながら尋ねると、
「いやぁ、すみません。ちょっと、度忘れして思い出せません」
とあっさり声の和田。悪びれた感じはない。
「いいよ。じゃあ、思い出したらすぐ電話してくれ」
そう言って聡は電話を切った。もうサプライズプロポーズはコリゴリだ。やっぱり俺には向いてないし、する必要もない。普通にすればよいのだ。聡は少しずつ以前の考え方に戻りつつあった。そして、今からやるべきことに思いめぐらした。まずは唯に電話して、自宅での食事を中止し、どこか外に食べに行くことにしよう。プロポーズは、いつか気持ちの落ち着いたときにゆっくりすればよい。
すぐに聡は唯に電話をかけたが、聞こえてくるのは、無機質な電話会社のお知らせメッセージ。どうも携帯の電源を切っているようなのだ。なんでこんなときに! 唯に文句を言いたかったがそれもできない。ただこちらにむかっていることは確かだろう。
聡はバタバタと部屋中の飾りつけを取り外し始めた。なにかに取り付かれた人の如く、ただひたすら紙テープやビニール製の飾りなどを引っ張りまくっていた。天井から床まで、飾り付けがされているところは隈なく見つけ次第取り除いた。時折、床に落ちた画びょうを踏みつけ叫びながらも、ドンドン剥がし続けた。
(ちくしょう! )
唯が来る前に外さなくては、と慌てて作業をしているため、顔面や首筋には大量の汗が吹き出し、お洒落に着込んだ服もグッショリ湿った。おかげで、せっかく入ったお風呂も台無しだ。
ようやくほとんどの飾りを剥がし終えたとき、聡はふと思った。別に剥がさなくてもよかったんじゃないか、と。飾りにはプロポーズを暗示することは何もないわけだから、そのままでもいいではないか。何を狂ったように剥がしまくったのだろう? 唯が来たら、適当に誤魔化せばいいのだ。
いまだに和田の言うことを生真面目に実行している自分が馬鹿らしく思えてきた。
(ああ、やっぱり俺が一番アホだ!)
自嘲気味に壁を眺めていたその時、玄関の扉がトントントンと軽くノックされた。
(ア? もう唯が来たのか?)
すばやく壁時計を見ると、6時55分になっている。来てもおかしくない時間だ。
「今いくからちょっと待てよ」
残りの飾りをすばやく剥がして、黒いごみ袋へ突っ込み、あわてて部屋の隅っこへ置いた。そのまま玄関へ行き、扉を開けた。
「こんにちは!」
聡の顔を見るや、元気な挨拶が返ってきた。が、それは唯ではなかった。見知らぬ3名の若い男女だ。みんな、ぎこちない作り笑いを浮かべている。
「え? こ、こんにちは?」
「僕たち、〇〇大学ゴスペル研究会の者でーす」
3人の声が見事にハモッている。
ああ、このことか。聡は、先ほどの和田の言っていた意味が分かった。この学生たちに中止を言ってなかったのだろう。アイツは全くしょうがない営業だな。ていうか、聡もすっかりこのことを忘れていたのだが……。
「あの、君たち悪いけど、サプライズの方は中止になったんだよ」
聡の思わぬ言葉に、3人の表情はみるみる不審なモノになっていく。そして、その中のめがねをかけた、リーダー格の学生が聡と対峙するように一歩前に出てきて言った。
「うそだろ! そんなの聞いてないよ」
聡は学生たちに同情しながら、知ってる範囲で事情を説明した。すると学生達の目は怒りを含んだものに変わり、聡に食ってかかった。
「ここに来るだけでも交通費がかかってるんだぜ」
「たくさん練習したのに、どうしてくれるのよ」
「お金払えよ」
口々に文句を言い出した。聡はたまらず言い返した
「あのさあ、申し訳ないけど俺は会社の人間じゃなくて客だ。しかも中止になったにもかかわらず、会社からまだ返金してもらってないんだ」
「そんなこと知るか。だいたいあんたが頼んでないなら、俺たち、ここには来てないんだ」
聡は唖然とした。もうこれ以上、わからずやの大学生と話しても埒があかない。そう判断した聡はとりあえず学生たちを追い出すことにした。
「とにかく俺も被害者なんだから、君らは君らで会社と交渉しろ!!」
そう突き放すように言うと、ドアをすばやく閉めた。
「なんだよ。逃げるのかよ」
1人がドアをドカドカ蹴りだした。あいつら不満をぶつける相手をはきちがえている。聡は一抹の恐怖を感じたが、やがて大学生達はあきらめを悟ったのかブツブツ文句を言いながら帰っていった。あれでゴスペル部か。呆れたぜ。聡はフウッと安堵のため息をついた。
時刻は7時5分。まだ唯は来てなかった。疲れ、気が滅入っていた聡はもう何もする気がしなかった。ただ、唯が来るのをぼんやりと待っていた。それから5分後、
「トン、トントン」
軽いノックの音が聞えてきた。それから、
「入るよ……」
と唯の優しい声がした。
「ああ」
聡は椅子に座ったまま、力ない声で答えた。入ってきた唯は、キョロキョロと部屋の中を見回しながら来るので、ショートカットの綺麗な髪が左右に揺れていた。やがて乱雑に置かれた椅子やテーブルに眼をやり、その1つの椅子に深く座り込んでいる聡を見て微笑んだ。唯は落ち着いた様子でふたたび部屋全体を眺め、軽くフッと吹き出して笑った。
「何だか散らかってるね」
疲れきった表情の聡を正面から見つめた。しかし聡は軽く首を倒し肯定しただけで、何も言葉を発しなかった。そのため探るような視線で彼を見た途端、服がずぶ濡れ状態なのに初めて気づき驚いた。
「どうしたのよ? 服がビショビショじゃない」
そう言うと近づき、彼の襟口をふざけた風に指でピンと弾いた。
「ちょっと着替えたら? 風邪引くわよ」
「ああ」
相変わらず聡は不機嫌に座り込んだままだ。ただ今日誘ったのは自分であることに気づき、ようやく意を決して立ち上がった。そして着替えるために彼は風呂場に向おうとした。その背中に唯は明るい声で問いかけた。
「ねえ、美味しいモノってどこにあるの?」
聡は一瞬立ち止まった。が、唯の方には振り返らずに言った。
「ゴメン。悪いけど……ない。急に手違いが起こって……」
声が少し震え気味だった。また怒りが込み上げそうになったからだ。
「フーン。そうなんだ」
残念そうな唯の声。
「申し訳ない。後でどこかに食べにいこう」
やっとのことでいうとそのまま風呂場に入って行った。それから着替えを済ませて居間に戻ると、なぜか唯の姿がない。トイレだろうか、と思い確認したがいない。どこに行ったのか? まさか、料理がないことに腹を立てて勝手に帰ったのだろうか? いや、唯はそんなことはしない。そう思いながらも少し不安もあった。そして5分ほど待っていたら、唯は無事に帰って来た。
「ただいま」
手にはコンビニの大きめの買い物袋を抱えていた。中身は弁当類のようであった。ニコニコした表情の唯を、不審げに見つめた聡。
「どこ行ってたんだ」
聡のどこか冷たい言い方に唯は戸惑った。
「アパートの前のコンビニよ」
「なんで黙っていくんだよ」
「え? そこ書き置きしてるじゃない」
そう言ってテーブルの端を指差した。そこには新聞の折込チラシがあり、その裏に『前のコンビニに行ってきまーす!』と小さく走り書きしてあった。
唯が素直に謝ると思ったら、逆に聡の不注意を指摘してきたことに、彼はなんとなく腹が立ってきた。普段ならなんでもないことが、今かなり気分が悪い聡にとって、さらに唯からも負の追い討ちをかけられたような気になった。もちろんそれは聡の勝手な思い込みなのだが……。
「なんだよ。こんな小さな字で分かるかよ」
不機嫌な顔つきをして、続けて、
「さっき俺、後で食べに行こうって言ったよな」
と弁当類を軽く睨みながら文句を言った。
唯はちょっと申し訳ない様子をしながら、
「たまには部屋で二人っきりで食べたいって思ったのよ」
と答えた。それを聞いて聡は自分が言いすぎたように感じ、すぐに謝ろうと思ったがそこまではなぜかできなかった。たぶんまだ気分が悪くてそうする余裕がなかったからだろう。
「わかったよ。じゃ、ここで食べようぜ。あ、弁当代は俺が払うからさ。いくらだった?」
「いいよ、私が勝手に買ったんだから」
なんだか唯にも聡の機嫌の悪さが伝染したのか、ちょっと怒った言い方をした。まるで喧嘩状態のようだ。
「今日は俺が誘ったんだから、俺に払わせろよ」
つまらないことだが、聡はここで払わないと男の面目が保てないような気になった。
「私がいいって言ってるんだからいいの」
唯の言い方には、決して譲らない意思が感じられた。思わぬ彼女の頑固さを見せ付けられて、聡は少したじろいでしまった。
「わかったよ。ありがとう」
まるで小学生が親に従うような声であった。
「じゃ、食べようか?」
そういいながら聡は弁当類を袋から出し、テーブルに置きはじめた。唯の買ってきたのはワンランク上の洋風グラタンやスパゲティとロースカツ弁当。それにちょっと贅沢な感じの赤ワイン。普段聡が買うやつよりも高価な部類だった。
「いいやつ買ってきたな」
弁当やワインを見定めながら、唯に笑顔を向けた。が、唯は相変わらず不機嫌な表情のまま、
「普段、のり弁ばかし食べてるんでしょ」
と聡の方は見ずに言う。その馬鹿にしたような言い方にはムッときたが顔には出さなかった。
「まあ、確かによく食べるな」
ほがらかに聡は対応した。
「とにかく、この美味しそうなワインで乾杯しようぜ」
聡はグラスを2個、戸棚から持ってくると唯と自分の前にそれぞれ置き、ワインの栓を抜いた。
トクトクと濃い紅色の液体を注ぎながら、聡は乾杯の名目を何にしようかと考えていた。本来なら出会い記念日だが、付き合い始めの記念日しか、二人でお祝いをしたことがない。この出会った日のことを唯は知らないだろう。言ったことがないからだ。となると今日は特別何もない。本来の目的が失われた今、何にしようか?
「そうだな……俺と唯のこれからに乾杯!」
適当に言葉で、杯を高く掲げて唯を見ると、どこか不満げである。
「ねえ、今日はふたりが出会った日じゃないの?」
「あ!? なんだ。知ってたのか?」
驚きの表情で唯を見つめた。
「え? ええ」
彼女は急に顔を赤らめ、戸惑った表情から、はにかんだ笑顔へと変化した。やはり唯は笑顔が似合う。聡は改めて唯が可愛いと思った。しかし、これまで話したこともないのに、出会った日を知っていたとは。
あれは、たまたま仕事上の集まりで、あるホテル内の大会議室にいたときに、聡が唯の存在に気付き一目で心惹かれたのだ。割と離れていたにもかかわらず、唯は遠目にも魅力的で目立っていた。今はショートカットの髪も当時は肩まで伸ばしていて、艶のある黒髪が愛らしい顔立ちをさらに引き立てていた。聡だけではなくたいていの男が唯を眩しく感じていただろう。しかし唯の方は聡を含め他の男の視線を軽く流し、知り合いの女性と楽しそうに話しているだけだった。
それから1ヶ月ぐらい後の同じ集まりの時。2度目で聡の方が勇気を出し積極的にアプローチをしていった。もうどうにでもなれ、との覚悟で。唯はそのとき初めて聡の存在に気付いたようだった。確か唯自身、初めてお目にかかりますと挨拶したので聡はそれを訂正せずに笑顔で受けたのだ。タイミングがよかったのか聡の思いが通じ、それから親しくなって今に至っている。
初めて話した日ではなく、出会った日を唯が憶えているということは、つまりそれは彼が話しかける前から気づいていたことを意味する。その気づきが好意的かどうかはわからないが、それでも聡はとても嬉しくなった。
唯はきっと恥ずかしくてあんなことを言ったのだろう。あの時の緊張気味の態度がなんとなく理解できた。が、逆に聡からの熱視線をしつこいと思っていたかもしれない。迷惑な人だと。
とはいえ、いまや二人は恋仲なのだから当時の聡の印象が悪かったとしてもかまやしないのだ。
「じゃ、二人の出会い記念日に乾杯!」
唯のつぶらな眼を見詰めながら、聡はグラスを合わせた。カチン、と心地よい音が部屋に広がると、唯はホンワカした表情になった。
「あなたがいってた美味しいモノはないけど、これでいいじゃん」
「そ、そうだな……」
本来のサプライズが潰えたことが思い出されて、また複雑な心境がよみがえってきた聡だが、唯の嬉しそうな顔で自己の憂鬱さが半減されていることは確かだった。
それから二人で楽しく食事を取っていたが、突然唯はあるものを指さした。
「ねえ、あの黒いビニール袋……何なの?」
聡はその言葉に慌てた。部屋の隅に置かれたそれこそサプライズプロポーズの残骸である。
「ア、いや、ああアレ、なんでもないゴミだよ」
袋を置きっぱなしにしておいたことはまずかった。バタバタしていたから気付かなかったのだろう。せっかくばれない様に取り外したのだから、できれば中身は見せたくない。
「なんだかみっともないから片付けようよ」
そういうと唯は立ち上がって、黒いビニールに近づこうとした。
「いや、いいって、俺が片付けるからさあ」
ダッシュで唯より先に袋を掴むと、あたふたしながらビニールを自分の部屋へ持っていこうとした。
「なんだか変よ。さては見られて困るもの?」
笑いながら唯はそのビニールを取り上げようとする。
「ただのゴミだって」
そういって唯の手からひったくる様にして部屋の戸を開けて放り込むと、すばやく閉めた。
「変なの、ま、いいけど」
呆れたように口をひん曲げて、おどけたしぐさをした唯だ。
夕食も食べ終わり、二人でただぼんやりとテレビを見ていた。いま流行りの恋愛ドラマ。唯は好んで見るが、聡はそのドラマはあまり興味がなかった。そのためウトウトと居眠りしていた。
「きっとこれから言うよ。ホラ、ホラ」
唯が興奮気味に、横に居る聡の肩をポンポン叩いてくる。眠い眼をこすりながら画面を見ると、ヒロインとその相手役のイケメン俳優が部屋で緊張気味に対峙していた。恋愛ドラマの定番よろしく、男はヒロインに向かって愛の言葉をささやき、やがてお決まりの、“結婚してくれ!”を叫びに近い調子で言った。まさに今日、聡がやるはずだった行為である。
(ばかばかしい)
聡はその場面を見ながら思った。ドラマではサプライズプロポーズではなかったが、運悪くお膳立てを潰された聡としては普通のプロポーズまで色あせたモノに感じられたのだ。
とにかく黙っていた聡が、チラッと唯の横顔を覗くとテレビ画面をウットリ見ているのだ。そして自分の予想が当たったので、
「フフ……ほらね、やっぱり言うと思ってたんだ」
と感激した様子で、今度は聡の方を向きながら、どうだと言わんばかりの得意顔をした。
が、聡はどうでもいいような表情で、
「なんだかわざとらしいぜ」
と力ない声で言った。自分がやろうとしていたことをこういう形で見せられると、よけい恥ずかしさが込み上げてきたのだ。またプロポーズというものが億劫に感じられてきた。
聡の言葉を聞いて、唯はさきほどの不機嫌な顔に再び戻った。そして小さな声で何か呟いた。それがなんといったのか分からなかった聡は聞き返した。
「何だって?」
「……」
声が小さくてよく聞き取れない。
「え? 何?」
突然、唯は怒りを含んだ大声を出した。
「いいなって言ったの!!」
急に怒りをぶつけられた聡は訳が分からなかった。なんでドラマのことぐらいで腹を立てるのか? おかげでいっきに眠気が覚めてしまった。
「どうしたんだよ? なんで急に怒るの?」
聡は用心しいしい、唯の怒る原因を探ろうとした。
「別に……怒ってなんかないわ」
唯はフーッと大きなため息を付くと、今度は両腕を挙げて伸びをした。
「じゃ、私帰るわ。明日早いから」
そう言うとすばやく立ち上がった。聡の方を見ようとしない。
「まだ早いじゃないか?」
そういう聡の言葉は無視し、テレビ画面で始まったキスシーンをチラッと見るなり、リモコンで消してしまった。そのせいか部屋の空気がピンと張り詰めたものになった。シーンとした雰囲気の中、荒っぽくリモコンを置くと、聡に背を向けて帰りしたくを始めた。
玄関へ向かう唯の背中を見ながらも、聡は唯の怒りの原因を考えたが分からなかった。しょうがない。2、3日すれば機嫌も直るだろう。
土間でお気に入りの赤いパンプスを履いている、唯のすぐ後ろに立ちながら、彼女の背中がまだ怒っているのが見て取れた。
立ち上がった彼女は振り向こうともせずにドアノブに手をかけた。ガチャガチャと乱暴に動かすがなかなかドアが開かない。少し壊れかけていたのだ。
「何よ!! このドア。開かないじゃない!?」
唯はイライラしながら言い放った。
「ごめん。それ、立て付けが悪くて優しく動かさないと開かないんだ」
すばやく土間に降りると、聡は手品でもやるように器用な手つきでノブを動かした。すると一度でドアは開き、
「どうぞ」
まるでホテルでの見送りのように笑顔で戸口に立った。
「フン!」
と不機嫌につぶやいた唯は、横にいる聡の顔をみようともせずに通り過ぎ、そのままドアの敷居を跨いだ。と、聡に背中を向けたまま立ち止まっている。
どうしたんだ。聡はそう声をかけようとした。するといきなり、
「わたし。ゴスペルなんて大嫌い‼」
と大声を出した。静かな夜気を貫くような怒鳴り声だった。その言葉に大きな衝撃を受け、同時に恥ずかしさが込み上げてきた聡。
「知ってたのか?」
慌てた声で唯の背中に問うた。すると唯の背中がブルブル震えていた。泣いているのだ。やがて小さな嗚咽が漏れだした。
「……待ってたのよ。言ってくれるのを……それなのに」
唯は目元を押さえている。涙がこぼれているのだろう。グスングスン、とすすり泣きながら、
「いつ言ってくれるのかと思ったら言わないし、逆にわざとらしいとかいうんだもの」
どうやら先ほどのテレビドラマでの会話を言っているようだ。
「ゴメン」
聡は素直に謝った。ただ、まさか待ってるとは思わなかった。それが聡の正直な気持ちだ。そのため聡の心は驚きと喜びがゴチャ混ぜになっている。
「いろいろあって気が滅入ってたんだ。でも近いうち言うつもりだった」
「……」
ゆいはしばらく沈黙し、やはり振り向かずに、
「じゃ、今言ってよ」
とかすれた声で聡に促した。
「あ? ウン……」
いざいう段になると、緊張してあわててしまう。あれほど練習していたのに。
「あ、あの……」
緊張気味の聡の声を一言も逃すまいとするかのように、唯は聞き耳を立てていた。
唯のきゃしゃな背中はいまや震えてはいない。ただ聡の言葉をひたすら待っている。練習した通りの言葉を言えばいいのだ。
「俺とケッ……」
突然、頭上高く、付近一帯にけたたましいサイレンが鳴り出した。火事か何かが発生したらしい。なんてタイミングが悪いのだ。
「ただいま、北××区3丁目付近で建物火災が発生。○○消防団の第2分団の方は出動してください」
市の広報スピーカーから険しい声が街中に響いている。すぐ近くを消防のポンプ車が勢いよく通り過ぎて行く。聡の頭は火事の場所に注意をそらされ、そこがここから離れているのでひと安心した。よかった、じゃない。火事の当事者は大変なのだ。ン? ちょっと待った! 俺は何を言おうとしてたのか?
一瞬聡の頭の中が真っ白になった。が、即座に思い出した。そうだ! 大事な言葉。プロポーズ。険しく繰り返す火災放送とサイレンの中で、改めて唯の背中をじっと見つめた。けたたましいサイレンの中、
「言うぞ!」
唯に、というよりも自分に対しての気合のような声を発した。
「ユイ! 俺と結婚してくれ!!」
サイレンにかき消されないように大声で言い放った。唯の背中は一瞬ドキッとしたようにわずかに動くと、それからすぐに頭をコクリと下げた。了承したということなのだろう。聡は言い終わってすぐに、なぜか脱力感に襲われた。すると唯は静かに振り返ってこちらを見て微笑んでいる。
「よろしくね」
恥ずかしそうにそう言うと、今度は顔を赤らめて下を向いた。
「ああ」
たった一言いっただけだが、安堵感とともに、今度は何か心にズシッとくるものを背負い込んだような気がした。これが責任というものなのかな? そんなことを聡は思ってみた。
しばらく二人とも玄関前のアパートの手すりに寄りかかるようにして街をぼんやり見ていた。先ほどの火事のことも気になっていたからだ。ただこの2階の高さからは火災は見えなかった。もちろんこれからのことも互いに考えていた。結婚に向けての様々な手続きや費用などのことも。
すると市の広報スピーカーから、先ほどの火災がすぐに鎮火したことを告げた。たいしたことなく、ボヤで済んだらしい。
「よかったね」
「うん」
聡の頭の中から火事のことが徐々に消え、今度は結婚のことでいっぱいになってきた。それと、もうどうでもいいことだが、今日のサプライズプロポーズのことを唯がどこで気づいたのかを急に知りたくなった。もう終わったのだから尋ねてもいいだろう。
「なあ、唯! どこでサプライズのことに気づいたんだ」
「え?」
恥ずかしそうな顔を聡に向けながら、手すりに乗せている腕を意味もなく左右に動かしている。
「私がアパートに着いたとき、学生っぽい人たちがドアを蹴っていたのが見えてびっくりしたのよ。何が起きたんだろうって。それで階段を降りてきたところでちょっと尋ねてみたのよ」
どうやらそこで学生がだいたいのあらましを話したらしい。話の途中から唯は自分が当事者であることを話し、学生たちにそれぞれお詫びも兼ねての交通費を渡したらしい。
「そうだったのか?」
「うん。なんだか可哀想だったから」
なんと優しい。それに比べると、自分の行動を卑しく感じてしまう。
「悪かったな。じゃ、俺がその分を唯に払うよ」
「もういいわよ」
「いや、払う。俺の気がすまないから」
「いいよ」
ちょっと押し問答をやった後で、ようやく唯がそのお金を受け取ってくれた。一人当たり3千円払い、全部で9千円。聡は1万円札を渡した。
聡は学生たちがこのあと会社にお金を請求することを思ってみた。運がよければ、会社側は少しは出すかもしれない。それに比べて自分の場合は金額が結構大きいから払わないような気がする。まあ、それでもいい。一応目的は達成できたのだから。そう前向きに考えることにした。
「ねえ!」
突然唯はそういって聡の肩に手を置いてきた。そして聡の顔に触れんばかりに自分の顔を近づけて、
「今、あなたの考えてること当てようか?」
と言った。
「え!?」
唯の落ちついた微笑の中には、思いを見抜いているような感があった。
聡はただ黙って笑っていた。唯もなかなか鋭いところがあるから、十分分かっているだろう。
「サプライズ費用のことでしょ。もういいじゃない。そんなこと」
遠くを見ながら唯は優しく呟いた。
「ウン。そうだな」
唯の言うとおりだ。ただそれでも、サプライズという企画がおじゃんにされたことは少し悔しい気がする。あれほど馬鹿にしていた企画でも、意外と乗り気になっていたからだ。
唯は視線を聡に戻すと、どこか茶目っ気のある眼で見つめてきた。
「ねえ!」
そういうと突然吹き出して、聡の肩をパンと強く叩いてきた。
「何だよ、一体」
「いいこと思いついたの」
「え?」
唯は顔を赤らめながらも、聡をまっすぐに見つめ、
「今から私のうちに行こうよ」
と言った。それを聞き、聡は俄然トキメキだった。
「それって一緒に住もうってこと?」
唯は聡の頭を軽く叩きながら、
「バカ。すぐにそんなこと考えるんだから」
とたしなめた。
「親と同居してるのよ」
「あ、そうだった」
「だから、今からわたしの両親に会って欲しいの」
2人は付き合ってそれなりの年月が経つが、まだ互いの親に会ったことはなかったのだ。
「オイ! 今からって? もうすぐ明日になるじゃないか」
あわてていう聡だが、唯は本気のようだ。
「大丈夫よ。うち、遅くまで起きてるから。」
「だからって……」
唯はにこやかな表情で、
「今からうちの両親をサプライズしにいくぞ!」
と元気よく宣言した。
「参ったな、オイ」
呆れながらも、聡はなんとなく気分がよかった。
「私たち結婚します報告か?」
「ウン」
「ちょっと着替えていくからな」
聡が部屋に戻ろうとすると、
「そのままでいいのよ。さあ、行くわよ」
と唯は聡の腕に手を回していこうとする。
「ちょっと待てよ。家の鍵くらいかけさせてくれよ」
あわてて聡は玄関へ入り、下駄箱の隅の鍵を手に取った。ふと居間の方を見ると、なぜかおかしさが込み上げてきた。サプライズ企画の名残のようなモノが見えた気がしたからだ。
それから玄関の戸を閉めながら尻ポケットに財布があることを確認。その様子を笑って見つめる唯。
「よし行こう!」
「私んちに出発!」
力強く言う聡と唯の声は、お互いの心へ深く、爽快に、浸透していった。