逃走と逃走
氷の柱が降り注ぐ。
けれども、氷というのは、そこまでの脅威にはならない。何故ならば、ミロン側にはネリーがいるからだ。
『命ノ灯』が繰り出される。炎の髪が傘のように伸び、氷を溶かし尽くす。
生まれた水も、刹那のうちに水蒸気となる。小規模な霧が発生した。
「おにい、あれあれ!」
「わかってる!」
クーマが無数の足のうちの何本かを振り乱し、袋を空へと飛ばす。
ミャウはそれらを器用にキャッチすると、袋から小さなボールを取り出した。
「おにーさんたち、行くよ!」
閃光弾。
目を開いていられない程の閃光が、周囲を覆った。
クーマの足が更に加速する。
ここまでやれば、とミロンは土壁を無数に生成しながら思考した。
けれども、足りていなかった。
土壁が爆砕される音が連続する。
壁は壁たり得ていない。
その上、敵は明らかにこちらの動きを捕捉している。閃光弾ですら、敵から逃げる為には不十分なのだ。
「どう逃げる? どうしたら逃げ切れる?」
それとも、戦うべきなのだろうか。
ミロンは考える。
どうするべきか。
敵の目的は、どうやらネリーだけらしい。だとすれば、ここはネリーだけを逃がして、ミロンとマーガロイア兄妹が全力で足止めする。
ミロンがアルルならば、それを一番恐れるだろう。
だが、アルルは足止めできない。
その能力上、止まらない。
仮に落とし穴を作ったとしても、敵は魔法を使える。足場など、幾らでも作れるだろう。
道が見つからない。
逃げ切れない。
このままでは、ネリーが敵に捕まってしまう。何が目的かは不明だが、それでも、ネリーが捕まってしまえば終わりだということだけが理解できた。
「それは嫌だ」
(どうする? どうすれば良い? どうしたら、逃げ出せる? わからない。このままじゃあ、ネリーが……)
攻撃の一切が封じられ、身体能力は敵の方が格上。
勝てる方法が思いつかない。
ミロンを支配するのは、絶望的な焦燥感であった。
ネリーが捕まってしまう以外の未来が見えない。
「誰か、助けてよ」
焦りが心を押し潰し、ミロンは涙を瞳から溢れさせる。
けれども、それがクーマの背中に落ちることはなかった。
涙が拭き取られた。
ネリーの白い、指によって。
「兄様。泣かないで。私が一人で行く。ので、兄様は安心していい」
ネリーが一人で敵に立ち向かえば、全滅はあり得なくなる。
今取れる手の中で、最善の手である。
一人の犠牲で、三人が助かる。
もしかすると、ドームに戻って仲間を呼べば、敵を倒してネリーを奪還できるかもしれない。
ミロンたちだけでは無理でも、ツェツィーリヤやアリア、エレノアがいれば変わるかもしれない。
花火が来れば、勝てる。
だから、ネリーの提案は悪くない。
「嫌だ!」
感情を考えなければ、であるが。
「でも、逃げ切る方法がないわ」
『方法ならあるさ』
ネリーの問いに答えたのは、聞き覚えのない声であった。悍ましい、実に醜い声であった。
けれども、何処かで聞いたことのあるような声。
『僕を、使えば良い』
その声は、ミロンのものであった。
自分の声とは、こうまで悍ましいのかと、ミロンはまず戦慄した。
それから、自分が囁いてくることの意味を考えた。
口は動いていない。
独り言ではない。
この声は、ミロンの頭の中でのみ響いている。
目の前のネリーは無表情で、アルルの元へ行こうとしている。
脳内の声は尚も続いていく。
『さあ、ミロンくん。僕の可愛い支……くん。存分に、……を、使って、は・や・く。……れてくれよ』
神経全てを凍らされたような錯覚が、ミロンを襲った。
この声は、一体何者なのだろうか。
左目が、じわりと痛む。
その痛みが心地よい。
心にかかった絶望という名の靄が、ゆっくりと霧散していくようである。
(ああ、これに任せれば……)
「行くな、ネリーさん! 今! 花火さんに連絡を取った! もうすぐ救援に来る! 彼の速度なら、十五分も耐えれば十分だ!」
ミロンが全てを任せようとした瞬間、クーマが吠えるような叫び声を上げた。
それにより、ボンヤリとしていた意識が覚醒する。ミロンは改めて、現実に目を向ける。
ネリーがクーマの背中から降りていた。
慌てて、ミロンも飛び降りる。ネリーを追う。
「だねだね! 敵は防御特化! 時間稼ぎだけなら、私っちだけで十分だよだよ!」
ミャウも、合わせて嬉声を放った。
そこで、連続していた爆砕音が止まる。
ミロンの壁を壊す手が、止まったのである。
「聴いたぞ。花火が来る、か。だったら、俺では勝ち目がないな。ここは退くべき、か」
ミロンはその言葉に耳を疑った。
「どうやって連絡を取ったのかは、不明だ。だが、仮に、これがブラフでなく、真実だった場合……」
「逃げるつもりかい? 俺たちが、きみを逃すとでも思うのかい?」
「ああ、逃げるし、逃がさせて貰う」
ミロンにはわかる。
クーマたちが言っていることは嘘である。
そもそも、連絡方法がない筈だし、あったとしても花火は任務に出ている。
十五分で来られる訳がなかった。
そして、おそらく、アルルの方も、嘘であるとわかっている。
けれども、一割でもマーガロイア兄妹の話が真実であるという可能性があった。
高度な心理戦が、繰り広げられている。
嘘自体は稚拙。
けれども、敵は信じるしかないのだ。
ここでマーガロイア兄妹が花火のことを口に出して教えるメリットはない。
本当ならば、無言で時間だけ稼げば良いのだから。
しかし、その点は一人で行ってしまいそうなネリーを引き止める為、という理由がある。
精神を鼓舞する為、という理由がこじつけられる。
マーガロイア兄妹の嘘に対して、アルルは顎に手を当てて悩み始める。
その間も、マーガロイア兄妹の魔法による攻撃は止まない。その全てを無効化しつつ、アルルは思考に耽る。
「見えていた。まず、根本から俺の負けか。本当ならば、気付かれずに土の中から奇襲して、一瞬で終わらせる予定だったが……」
気配をネリーたちに悟られたことにより、姿を現してしまった。
その時点で、アルルの計画は破綻していたのだ。
「聴け。この場は俺の負けだ。俺は撤退させて貰うことにするよ」
そう言うと、アルルはミロンたちから背を向けた。
そこにミャウが回り込んだ。
「だからだから、逃す訳ないじゃん。花火さんが来るまでの時間、私っちたちが全力で止めるよ」
ミロンたちの勝利条件は一つ。
十五分以内に、自然な形で敵の逃走を許すこと。
それ以外に、ミロンたちに生き残る術はない。
敵を逃がす為の戦闘の火蓋が切られた。




