強襲、新たな依り代
その何かは上空の巨大な蝶を目で追っていた。空を行く蝶の数は一頭や二頭ではない。
無数の蝶が空を覆っていた。
鱗粉が空から落ちてくる。
何かはその白銀の鱗粉を真っ向から浴びていた。
「何かしら、あれは。見た目だけなら意外と……」
ネリーがぼそりと呟いた。彼女の髪には、未だ炎は灯されていない。
ミロンはそれを不思議に思った。
明らかに、敵じゃないか。どうして攻撃しないのだ。意味がわからない。
そういう思いの元、ミロンはハルバードを構えた。懐から教鞭を取り出して、巨大な火炎弾を生み出した。
「待て、ミロン。あいつが何かはまだわかってねえんだぞ?」
ミロンには、ツェツィーリヤの言葉が伝わらなかった。
ツェツィーリヤは敵か味方かわからない、と言いたかったのだろう。何故ならば、何かはミロンたちを視認しているにも関わらず、無視してきたからだ。
もしかすると、人形園のギミックの一つかもしれないのだ。
だから、手はまだ出すべきではない。
しかし、ミロンにその声は届かない。
彼の心中に渦巻くのは、アイデンティティーの喪失からくる混乱であった。
ミロンの精神は、当然だがミロンが手にしている。
だが、あの姿は何だろうか。
少し前までの自分だ。
考えても見て欲しい。目の前に、自分と同じ姿の何かが現れたときのことを。
その上、ミロンは自分の姿を失っている。
彼はずっと借り物の肉体で生きているのだ。
よくよく考えてみると、これは実にゾッとする。ミロンには心以外、自分のモノが存在していない。
その心にしても、ミロンにはもう一人のミロンの存在がある。心に於いても、ミロンは誰かとそれをシェアしている状況である。
防衛本能。
ミロンは無意識のうちに、殺意を手にしていた。
彼の本能は囁く。
早急に目の前の存在を壊せ、と。
これ以上、自分から何かを奪われるな、と。
故に、ミロンは炎を放った。
『操作』を込められた炎弾は風を切り裂き、刹那のうちに何かを襲う。
何かがようやくミロンの姿をじっくりと見つめた。迫る炎ではなく、ミロンを見やる。
(見ないで)
自分に見つめられているようで、不気味であった。
「行きます!」
ミロンの戦闘の意思を察して、アリアが駆け出す。と、同時にアリアの姿が掻き消えた。
「え?」
アリアが速かったから消えて見えた、という訳ではない。本当に、まるで霧のように、アリアの姿が消滅したのである。
アリアが何かをされた。
それだけは理解できた。
「……ミロン・アケディ」
何かが零すように、言葉を漏らした。それに応じて、ミロンの周囲から仲間たちの姿が消えていく。
ネリーも、ツェツィーリヤも、エレノアも。
消えてしまった。
人形園で残されたのは、ミロンと何かの二人きりであった。
『こいつ! ミロンくん、今すぐ僕と変わるんだ。こいつの使っている神々の死体には見覚えがある』
「何?」
『これは……遊戯の神。クゼルの能力だ』
クゼル。
未だ使用者が一人も見つかっていない神々の死体。
クゼルが司るのは、幻惑と錯乱である。
ミロンはどうしようかと迷う。
もう一人のミロンに変われば、安心できるだろう。だが、ことはそう簡単なモノではない。
ふと、思ったのだ。
今変わってしまえば、自身の自我まで奪われてしまうのではなかろうか、と。
『違う! ミロンくん、聴いてくれよ。きみの今の感情は神々の死体によるものさ』
もう一人のミロンは言う。
神々の死体『魂の内乱』であると。
その効果は、敵を錯乱させる力だ。正確には、対象の心を不安定にする力だ。
普段のミロンは温厚な方である。やすやすと、見ただけで人に殺意を抱くような人間ではない。
感情を強く揺さぶる。たったそれだけの能力だが、この能力は対象から冷静さを奪う。
あまりにも強力な力である。
今のミロンは全てを信じられず、己を信じられず、まるで地に足が着いていないような、不安定な状況だ。
とても戦える状態とはいえない。
「嘘だ! 嘘を吐くなよ! ぼくがここにいるのに、どうしてぼくがあそこにいるのさ。ぼくはここにいるじゃないか」
それに、とミロンは声を荒らげた。
「じゃあ、どうしてみんなは消えたのさ。錯乱の能力を持ってるのに、こんなことができるの?」
『花火くんと同じさ。二つ持ち。いや、それ以上と考えるべきかな』
神々の死体『霧彷徨う亡霊』
能力は対象意外を迷子にする力。
今頃、ネリーたちはこの人形園の何処かを彷徨っているのだろう。
「煩いな。きみに頼らずとも、ぼくは戦える!」
ミロンがハルバードを手にして、一気に何かとの距離を詰めた。全力でハルバードを振り被る。
また、片手で教鞭を操り、ハルバードに設置した魔道書から土の魔法を引き出した。
土が盛り上がり、何かの足を絡め取る。
動きを封じてからミロンはハルバードを叩き下ろした。
その一撃はかわされた。
いや、正確には命中した。だが、ずらされたのだ。
神々の死体『永遠なる憑代』
攻撃を食らった自身の肉体を幻想のモノとすり替える能力である。つまり、今のミロンは幻を切らされたのである。
「どうしてさ! どうして、ぼくを苦しめるんだ。ぼくが何をしたって言うのさ。いきなり、こんな意味のわからない世界に連れてこられて、アリスをネリーに壊されて! 訳のわからない『壊れ者』が襲ってきて! ぼくが何をしたって言うのさ!」
敵の能力によって、ミロンの考えはぐちゃぐちゃにされてしまう。
今まで理解できずに、いや寧ろ敢えて理解してこなかったことがどんどん頭をよぎる。
骨董無形なこの世界。
残酷なこの世界。
この世界に理不尽に連れてこられたことに対する不満が、敵の能力の補助を受けて、とうとう爆発した。
ミロンはその場に蹲り、何度も地面を殴りつけた。
冷静さを失っていた。
『やはり、クゼルの能力は強いね。神戦を生き残っただけはあるよ。……あは』
変われ、という言葉がミロンの頭を襲った。
直後、ミロンは意識を奪われる。
代わりに現れたのは、もう一人のミロンであった。
黒の長髪が風になびき、鮮血色の瞳が鋭く何かを貫いた。
「やあ、新しい依り代くん。僕のことがわかるかい?」
「……」
「裏切り防止かな? きみは残り者なんだね」
新しい依り代、と呼ばれた何かはゆっくりともう一人のミロンへと指を突き付けた。
「……」
もう一人のミロンは眼鏡を捨てると、スティレットを抜いた。無言で依り代と対峙し、敵の実力を探る。
正確には、敵がどの程度クゼルの力を保有しているのかを確認しているのだ。
数分の時が流れた。
そして、戦の引き金が引かれた。
敵の実力を計測したもう一人のミロンは確信していた。勝てる、と。
故に、もう一人のミロンは地を蹴った。




