一部
海の底から、水面を眺める。
太陽の光が、きらきらと輝いている。
私はあの日以来、毎日ここでこうして、ただぼんやりと考えるのだった。
ああ、あの人はいま、なにをしているのだろう。
どんな服を着て、どんな靴を履いて、誰とお喋りしているだろう。
私は恋をしていた。
叶わぬ恋を。
何故なら私は人魚で、あの方は人間。
ああどうして出会ってしまったのか。
出会わなければ、こんなに苦しい思いをしなくて済んだのに。
慈悲深い神よ、海の神ポセイドンよ。あなたはこんな私にまだ試練を課すおつもりか。
どうして私にばかりこんな酷い仕打ちを。
珊瑚礁の陰から、二人の人魚がこちらを指差しひそひそと何事か話している。その内の一人が頬を赤らめながらゆっくりと近付いてくる。彼女らに私の苦悩は分かるまい。
私は彼女らとは違う。
私はこの海の全ての人魚達とは違う。
私は、男の人魚だった。
人魚の世界には男がいなかった。
だから人魚達は人間の男性に惹かれるのだった。その美しい歌声で人間の男を魅了し、海の底へと引きずり込んでしまうのだ。実らぬ行為と知りながら、それでも彼女達は恋をするのだった。
そんな中で唯一の男である私は、それはもうモテてモテて仕方がない。毎晩毎晩、違う人魚とヤりまくりだ。
しかし私は満足しなかった。
最初のうちはいい。だが歳を重ねるにつれ、こんなものは恋ではない。ただの性欲だ、動物のする事だ、知性ある者のする事ではない。と考えるに至り、人魚達を遠ざけるようになった。
それでもよくこうして他の人魚が交際を申し込みに来るのだが、私はその度に「一度だけだ」という条件で彼女達を抱いた。そしてそれから再び私の前に姿を見せることを許さなかった。
かつて、たった一人だけ海を捨て陸に上がった人魚がいたという。
彼女は人間の王子に恋をし、魔女と取引したのだそうだ。そして自分の声と引き換えに脚を手に入れたという。
彼女のその後については諸説あり、泡になって消えたとか、王子と幸せに暮らしとかいうが、果たしてどうなったのだろう。私はそれを真剣に考えるようになった。
そんな日々を過ごしていたときだ。私の前に魔女が姿を現したのは。
「ほう。ホントに男だな」
「あなたは何者です」
私は尋ねた。
「ではお前は何者だ」
逆に問われたその質問に、私は答えられなかった。魔女は続けた。
「私が何者かというと、よくわからないな。きっと誰もが、自分が何者なのか、その答えを探していくのではないだろうか。一生。
私自身が何者なのかは私自身わからないが、なんと呼ばれているかと言えば、私は魔女と呼ばれている」
ああ。やはりこの人は魔女であった。
「あなたは私に脚を与えに来たのですか」
「お前がそれを望むならば、私のすべき事は、お前に脚を与える事なのだろう」
「ではそうしてください。私は陸に上がりたいのです。人間の娘に恋をしてしまったのです」
「では魔力の源として、お前の声を頂こう。後悔はしないな」
「それはどうしてもそうしなければいけませんか」
「は?」
「いえ、ですからどうしても声を渡さなければなりませんか。他の物では」
「さあな。考えたこともなかった。確かに、他に何かやりようがないものかと言われれば、もっといい方法もありそうな気もする。しかし今は何も思い付かないので、やはり声を頂くしかないであろうな」
「そうですか。ではそのように」
惜しい。何か他の方法を思い付いてほしかった。実に惜しいが仕方がない。
「その前に、もう一度問うぞ。後悔はしないな」
「後悔とは常に後からするものです。よって現時点ではわかりかねます」
「では後悔しないことを祈るのだな」
「はい。祈りましょう」
その瞬間、魔女のへそが光を放った。
そこから魔法がでるんだな、と思うやいなや、私は目映い光に包まれ、やがて気が付くとそこは…。
どこだかさっぱりわからなかった。
どこかの砂浜だ。
脚が生えている。やった!
しかしここがどこだかわからない。
私が恋をしたあの人はどこにいるんだろう。それもわからない。というか名前も知らない。
「おい兄さん、あんたどうしたんだ」
声に振り向くと、中年の男が立っていた。まるでクズを見るような目で私を見ている。
「パンツは流されちまったのか」
パンツ。なるほど、この男が下半身につけている装備のことか。
そしてなるほど、私はパンツを装備していない。人間界では、パンツを装備していない者はクズを見るような目で見られてしまうらしい。
魔女に声を奪われ喋ることが出来ないない私は、かわりに指で砂浜に文字を書いた。なんと頭の良いことか。声は出ずとも話はできる。筆談だ。ああ賢い子。
(パンツは波に流されてしまいました。見たところあなたは漁師。私がかわりに魚を獲ってきますから、あなたは私にパンツをよこせ)
長い文章で疲れてしまったため、最後の方が思わず命令文になってしまった。
男は逃げていった。
きっと人間界では、今の私のようなこういう者のことをキチガイと言うのだろう。
仕方がない。とりあえずそこの森に入って、衣服になるような物を探そう。
森の中で、小人に出会った。
「おや?おやおや?」
小人が私をじろじろと観察しはじめる。
「お前さん、人間じゃないね」
(いかにも。私は人魚でした)
私は筆談で答える。
「口がきけないのかい。いやはや、いつかのお嬢さんのようだ」
驚いた。この小人はあの噂の、もはや都市伝説と化した、あの例の人魚のことを知っている!
(それは以前陸に上がったという人魚のことですか)
「そうそう。えーと、なんと言ったか…。名前…。なんか洗剤みたいな…。まあいい。名前などは取るに足りない些末なもの。お前さんは何という」
名前。
私の名前。
どうしたことだろう。私は自分の名前を忘れてしまっていた。
私は何と名乗っていた。何と呼ばれていた。
どうしても思い出せないのだった。
「なるほどな。わしが思うに、その魔女とやらはお前さんから声だけでなく、名前も奪っていったようだぞ」
なんということか。そんな事はあの魔女は一言も言っていなかったではないか!
私は同意していないのだから、この取引は不当である。
いやしかし。
私は魔女の言葉を思い出していた。
お前は何者か、と魔女は言っていた。そして自分も自分が何者であるかはよくわからないのだ、とも。
あの時はただ下らん問答のように思っていたが。
一体どういうことなのだ。
なぜ、私から声だけでなく名前まで取っていったのだ。
「まあ何にせよ、恋の相手の居場所も名前も分からんのではどうしようもないな。何か覚えている事はないのかい。ほんの些細なことでも」
私は彼女の顔以外は何もわからない。
その声すら聞いていない。
「そうだ。ケンタウロスの奴らを頼ってみてはどうか。あの連中は森の賢者などと言われておるが、最近は人間から迫害を受けていてな。こそこそと隠れ住んどる。
人間とはそういう生き物さ。自らを脅かしかねない知恵を持った者を、恐れ、嫌うのだ。
ケンタウロスの奴らなら、あんたの身の上話の一つでもしてやれば、同情して何かと協力してくれるかもしれないぞ」
ケンタウロスか。
たしか上半身が人間で、下半身は馬と聞く。そしてとても賢いらしい。
(それは良い事を教えてもらった。ありがとう。では私はもう行きます)
「その前にほれ、この服を持っていきな。そんな格好じゃ、またおかしな事になるだろうが」
(かたじけない。今は身一つゆえ、持ち合わせる物が何もないが、必ずいつかお礼をしに参ります)
いいからさっさと行けと、小人は手を振り、穴ぐらへと戻っていった。
よし、ケンタウロス探そうっと。
しかしどこにいるのだろう。
森の賢者というのだから森に住んでいるには違いないだろうが、果たして出会うことができるであろうか。
ケンタウロスはすぐに見つかった。
すごくたくさんいた。
聞くととろでは、人間の数と同じくらいいるらしい。
話に聞いていた通り、彼らは人間の上半身の下に、馬の胴体と四本の脚がついていた。
私があんなに欲していた脚を、彼らは望むまでもなく生まれつき四本も持っているのだ。なんと理不尽なことか。
しかし彼らは鱗やヒレを持たないため、水中を泳ぐことは苦手だという。私が脚を羨ましく思うのと同じに、彼らは私達の鱗やヒレを羨むことがあるのだという。
海を捨てた私にとっては、もはやどうでもよいことであったが。
「俺は君の生まれた境遇に同情するよ。女しかいない社会なんて少し羨ましい気もするが、男が自分一人だけってのはさぞかし辛い事なんだろうなぁ」
(いいえ、人間の社会の隣に生きていながら、人間から迫害を受けているあなた方に比べれば、私の境遇などは余程幸せでしょう。私は脅されたり、隅に追いやられるような事はありませんでしたから。
迫害とは、実際にはどのような酷いことを?)
「選挙権がない。それに住民票や保険だってない。いやそもそも人権ってものがないのさ」
このケンタウロスは一体なにを言い出したのだろう。
そんなの当たり前ではないか。お前達はケンタウロスなのだから。人権もなにも、そもそも違う生き物ではないか。
「なぜ猫や犬は同じ家に入れてもらえるのに、ケンタウロスは駄目なんだ!」
だってケンタウロスだもの。
猫や犬とは全然違うもの。比べるところが間違ってるもの。
大体、人権だ何だと言っている割に、犬猫と比べている時点でおかしいのではないか。ケンタウロスはペットになりたいのだろうか。
「まあ、君に愚痴ったところで、何が変わる訳でもないんだがね」
そう言って、ケンタウロスは遠くを見つめた。
結局、ケンタウロスは役には立たなかった。
得た知識と言えば、靴の生産量が人間界の二倍ということくらいだ。それはそうだろう。脚の本数が倍なのだから。
そんなわけで、私にとって価値のあるものは何一つ得られなかった。
さて、どうしたものか。