犬神と座敷童
散歩に出かけた。
特に理由はなく、特にゆくあてもなかった。
なんとなく天気が良かったのと、サチが家の中は飽きたとかんしゃくをおこして、ぼくの原稿に珈琲をぶちまけたからである。
とはいえボツ原稿の寄せ集めをこねくり回してさらなる混沌ゴミを作り出していただけなので、別に怒るほどのことじゃない。
でもぼくの珈琲をぶちまけた罪と、ぼくの原稿を汚す輩であるという罪は計り知れないほど大きな罪なので、容赦無くデコピンをかましてから財布だけ持って、仕方なく出てきたのである。
作品も煮詰まっていたし、邪魔が入ってはたまらない。
気分転換がてら、歩くことにしたのだ。
ぼくの住む街は県境の境目、どちらともどの境目ともつかないところにあるので、都内とはいえとてものどかで牧歌的だ。
畑だらけで、川も流れている。ずっと一キロほど続く桜並木なんかもあって、もうすぐきっと花見が楽しみになるだろう。
年の暮れのこの時期は、それでもやっぱり東京なのか田舎へ帰る人が多く、車道も歩道もがらがらになる。
人のはけた静かな畑道を、ぼくはサチの手を引いてのんびりと歩いていた。
「ねえ、ヌシサマ?」
「ん? なんだ?」
「さっきは確かにお外行きたいって言ったけど、でもほんとによかったの? サチは座敷童だから、お家から出るとそのお家の繁栄を見捨てたことになって、滅んじゃうんだよ……?」
「……!」
……へぇ。
なんというか、意外だった。
あんなに外に出たがるから出してやったら、とたんに何故かさっきから黙り込んでいると思った。
何百年ぶりかに会った同類だから、甘えたくなっただけだったのか。だが、それが叶ってしまったもんだから、急に不安になったんだな。
だだをこねることが、やっとできるようになったから。
でも、それは叶ってはいけない“だだ”だったから。
ぼくはまだ年端もいかぬような顔をして、そのくせいっちょまえにこの犬神を心配してくれる優しい座敷童が妙に微笑ましくなって、隣にすっとしゃがんで、おかっぱの頭をわしゃわしゃとなでた。
「だーいじょぶだ。ぼくは、犬神だぜ」
「で、でも、サチはそれで今までも何度も……」
「ああ。でもそれは、“人間の”場合だろう?」
「……? う、うん」
「だが運がいいのか悪いのか、ぼくは犬神だ。ぼくの家はあんな箱の中じゃねえ。ここだ。ぼくの縄張り、ぼくの縄張りの外も含めて全部、駆けずり回れる野山のあるところすべて、ぼくの帰る場所なんだ」
ぼくはあやすためだけではない、もしかしたら初めての笑顔を、サチに向けてつくった。
「だから悪いけど、おまえのヌシサマがぼくなんだったら、どこにも出ていけないんだよ。ごめんな。堪忍しろな」
アハハ……。
ちょっとクサかったかな。
でも本当のことだし、いたいけな子どもにこんな顔をさせとくなんざ、そもそもぼくがつまらない。
犬神には決まった『定住』をするなんて概念がない。
だから、サチがぼくから離れても、ぼくがサチから離れても、サチがぼくをヌシとする限り、サチはどこにも行けないんだ。
「どっかその辺のコンビニで、肉まんと珈琲買って公園ででも食べるか、サチ」
「うううう……ぬじざばあああ」
心配を察せられたからか、それともホッとしたからなのか、整った顔をぐしゃぐしゃに歪ませて飛びついてきたサチを、びっくりして支えながら、ふっと身重になった軽々しさに気づく。
あーあ、こいつ、これでもう離れてくれないかも知らんなあ。
あーあ。別にここに縄張りを固定する気はなかったんだけど。
サラサラのサチの髪をぽむぽむと優しくたたきながら、寒くないように腕だけ首を抱え込んでやる。
「あ、とんぼ。赤とんぼだぞ〜サチ。まだ生き残りいたんだな。もうすぐ新春なのにな〜」
「う……ゔん……っ」
「ほら、じゃあ鼻かんで、いくぞ。な?」
「ゔん……!!」
くしゃくしゃになってしまった顔で、ぱっと顔をあげて嬉しそうににっこりしたサチは、またうつむいてぼくの方にくっついてきた。
ズッ、ビ〜〜ームッ!!!
「アハハハハハハハハオラーーーーーーーっ」
デコピンバッチコーン。
「うん、今回は罪が重いからもういっちょだな」
バチコオーン。
「ぅいたいっ!!?」
「ハッハッハッハ。あ、ティシュあったかなあ」
「ゔあ! 今日のヌシサマなんかやさしい!」
「あ? ぼくのシャツを拭うためにだけど?」
ばちこーん。
「ゔあ! いつものヌシサマ!!」
「……」
すっ……デコピンの構え。
「ひいっ」
がばっ!! おでこガード!!
「……ほっほう」
「ふっふーいつまでも同じ手は食わないんだもん」
「ん? んー…… あ、あんなとこに新しい苺大福屋さんがっ」
「えええ!? ほんt」
ッバチコーン。
「ふんぎゃーーー!!」
いつもはこの街では誰にも知られず、しかし知る者には絶対の不可侵対象であるあの“犬神”が、まさかどこの者かは知らないが着物の童とじゃれているとは……。
と、まだ小僧の頃から犬神のことを知っていた、すぐ目の前の大きな寺の住職が、境内の影から物珍しそうに眺めていた。
昔はあんなにささくれだって、災厄の化身のようだったはずが、かように丸くなるとはのう。
……長生きはするもんだったかの。
と、嬉しそうに刈り上げた頭をつるりとなでた。
もしかしたら、除夜の鐘でもつきにまた夜中にでもひょっこり来るかもしれんの。
あのお方は、どうも弱いものに甘い。
それもまあ、ワシらの世代はみんな知っとって、あの犬神さまだけ知らんのよの。
……まあ、知らん方がいいかの。ほほほほ。
じゃれてるんだか取っ組みあってるんだか、妙にほのぼのした様子で、犬神がデコピンしやすいようになのか、童の前髪をゴムで上にくくっているのに対し、童も負けじとなんか服の裾をゴムでくくっているのを、住職は眼福そうに、もうしばらくだけ見つめた。