道に迷う犬、道を示す犬
同窓会があった。
前に開かれた時には私用で参加しなかったので、実に久しぶりの集まりだ。今の人間の暦が何度巡っただろうか。もう分からない程の昔であったが、会ってみたら何ということもなく、いつものあいつらなのであった。
火車の奴は近頃は人間の寿命が延びたせいで、冥府に送るのはもっぱら動物ばかりだとクダをまいていて、でもそのくせ三丁目の優作じいさんには長生きしてほしいんだよなあ、とあおる酒の数だけ泣いている。
なくならない職を持つってえのも、案外難儀なのかもしれない。
都心にあるこの裏宴会場の広い座敷では、こうやって人の皮をかぶったままでなくとも、酒盛りを開くことができる。
各地にあるこういったぼくらのためにあるような施設は、ある時を境にたくさんできた。
たぶん、維新の頃に入ってきた余所者の奴らも増えたことだし、ちょっといい口実だとでも思って飲んだくれのぬらりひょんのじい様が国の暗部にでも幅をきかせたんだろう。
むこうで濡れ女は「泣き女」のバンシーと一緒にじめじめと結婚の地獄について語ってるし、牛頭鬼と馬頭鬼は鬼一口のおっさんにすごい縮こまって気を使わせてる。
なんかこいつらもあれだなあ。
すっかり自分の生活、ってのを持ってんだなあ。
猪口を持ち上げてのんびりとすすりながら、しんみりとその様子をぼくは見ていた。
平安の夜にゃああんなに恐れられたもんだったのに、たかだか平成になったくらいでこんなに丸くなっちまうんだねえ。
たかが千年。されど、千年なのかね。
かちり、と再び徳利を傾けるぼくとて、それは変わらないのかもしれない。野山を駆けずり里を荒らし回った犬神は現に、ここにだっていないではないか。
噛み付く相手もおらず、爪のたてどころをも失って、それは丸く丸くなってしまった。本来は平和を心から切望したはずだのに、振り返った過去の返り血の記憶にセピアがかかる。
「もうろくしたもんだねえ」
と、この中では若い方だけれど、疲れ切ったように猪口を置き、長机に諭吉を二枚ほど置いて、すっと音もなく立ち上がる。
賑やかな喧騒のなかなので、誰一人ぼくに気がつくものもいないだろうと、人の皮と黒いコートを羽織って襖をすっと開けると、一匹だけ、ぼくに視線を向けてきた後輩がいた。
「送り犬」の、こだまといったか。
夜の山で難儀している旅人を、そっと寄り添いながら里まで送ってやるという妖怪。
未だに忙しいので、もう随分会ってなかったが。
あいつもオフなのか。珍しいな。
まあ、明日も妖としてではなくヒトとしての仕事のあるぼくは、さっと手を振ってから襖を閉じて、暖簾をくぐった。
大通りに出ると 途端に人の多さと街灯、排気ガスのにおいにひどい眩暈がする。
人の作り出すものはとても美しいのに、それらはぼくら自然の一部に当たる生き物には、決して優しくない。
ヒトの皮をかぶっていたとしても、その中身であるぼくそのものが、それを受け付けることができない。
あいつらはうまく馴染めてるんだろうか。
それとも、馴染めていないから、今日もあんなに無礼講だったんだろうか。
白い息を尾のように引いて駅の方にふらふらと歩いていると、コートのフードをいきなり何者かにひっつかまれた。
……夜の新宿で、ここはそういえばネオン街か。
めんどくせえ。
……やるか。
もう一度強くフードが引っ張られた瞬間、ぼくは瞬時に低く屈み込んで振り向き、フードをつかんでいた右手を弾いて左手側へねじり、喉笛に向けて鋭く一撃を叩き……
込めなかった。
いきなりの反撃に大きな目をまん丸に見開き、利き腕は抑えられ、喉元に拳を突きつけられたそいつは、思いもよらなかったかのように青ざめた顔で震えていた。
あ? こいつは確か。
「こだまか?」
ぼくと同じような黒いコート で、背は低いが男のような短髪で気がつかなかったが、そういえばこの皮には見覚えがある……かも。
「先輩……なにをそんなに悩んでるんですか?」
「あ?」
唐突に投げかけられたこだまの言葉は、なんだかちんぷんかんぷんに聞こえた。
悩む? 何に?
「悩むだ? 何に対して?」
「だ、だって、先輩、道に迷ってるじゃないですか?」
「……はあ? 」
ぼくはキョロキョロと辺りを見回すしてみるが、実際すぐそこに駅がもう見えている。
「あのさ、お前、何言ってんの?」
「迷ってます。先輩は、道に迷ってるんです。……こんな」
こだまは突きつけられたままの色のない拳に、そっと手を添えて呻くように言った。
「こんなに迷ってもまだ、気がつけないんですか?」
包み込まれた手は、暖かかった。
それだけ、ぼくの手は冷え切ってしまっていたのか。
あんなに飲んだ酒が、ちっとも役に立たない。
「……ああ、お前、そういえば『送り犬』だったっけな」
「……はい」
「お前さ、ぼくはさ、迷ってんだよな」
「……はい」
「何に……迷っちまったのか、分かるか?」
「……」
答えは求めていなかった。
それに、こだまは答えなかった。
答えようがなかったのかもしれないし、答えなんてなかったのかもしれない。
だが、『送り犬』は答えなかった。
それだけで、まあ、もう答えのようなものだな。
「ありがとうよ」
するり、と握られた手を滑るように引き抜き、ぼくは『送り犬』の耳を、そっと撫でた。
「行くんですか?」
「帰んだよ」
「迷ってるのに、行くんですか?」
「迷ってるから、行かねえといけねんじゃねーの」
「……バカは相変わらずなんですね」
「……相変わらず一言多いのはおめーもだお人よし」
ぺし、と生意気な後輩の頭を弱くどつくと、犬神はさっと踵を返してフードをかぶった。
「んじゃあな」
「送っていかなくて、いいんですか?」
「……どこまで」
「さあ。先輩が夜を抜けるまで?」
フフン、と悪戯っぽく含み笑いの聞こえる背後に、少しだけ、犬は微笑ましい心持ちになった。が、
「じゃあ、また休みがあえば、いつかな」
書き消えるように闇に溶けた犬神は、その心情はおくびにも出さなかった。
見送る後輩がどんな顔をしているのかも、考えたくなかった。
また夜はくるから、そん時に備えて、眠ろうとだけ強く思った。
白み出した東の空を見上げて、『送り犬』の無事を三日月に祈る。
もう、少しだけかもしれないが、夜は明け始めたのかもしれない。