サヨナラとまたね。 呪いと魔法
その日、ものすごくぐったりした顔をしたこだまとサチが帰ってきたのは、深夜を回って二時間ほど経ってからのことだった。
「ぬじざばああああぁぁぁ……うわーーーーん」
「ぜんばいいいぃぃぃぃ……ひぐぅ」
「……うん。おかえり?」
玄関を開けるなり、ぐしゃぐしゃの泣き顔で泣きじゃくりながら帰ってきた二人を、別に待っていたわけではないが、執筆していた机を片付けて、お茶を淹れて座らせる。
鼻水と涙とお茶をなんだか同時にすすりながら、二人が落ち着いた頃合いを見計らって、ぼくはちょっと心配にもなってはいたので、それとなーく尋ねてみることにした。
「二人して、なんでそんなことになってんの……?」
呆れ顔のぼくに、ことさらに小さくなるこだまと、ガタガタと震えるサチ。なんか怖い目に合ったのかな?
はて。迷える旅人を山から里へ送り届ける妖怪のこだまのことだ。そんなに腕がたたないはずはないのだが。
「ちょ、ちょっと山梨の昇仙峡に、ですね、そのぅ……は、初詣なんかに行ったり行かなかったり……」
「……っあー。そういうこと」
早くもなんとなく全部理解した。
こいつ、今朝の腹いせにぼくの生みの親の神様に会いに行ったのか。でも、会えるわけないのは分からなかったのか。
「あのさあ、四国の山の従属関係にあるお前が、こっちの神山の神に会えるわけないじゃんよ」
「うー……それは、そう……なんですけど」
涙をぽろぽろとこぼしながら、正座をしてうつむくこだま。
そんなにまでして、なんでまあ一生懸命になれるのかが分からないよ。
本当、バカすぎて可愛くなるだろうがよ……。
「神域回廊に迷い込まされたんだろ」
すとん、とこだまの前にしゃがんで目線を合わせると、びく、とこだまはさらにうつむいてしまった。
招かれざる客のための応接領域、そして力ない者には永遠の漂流を与える、各々の神の絶対領域〈神域回廊〉。
そこにはまり込んでしまったこいつらは、まあ、出方が分からない以上、木花咲耶姫の赦しが得られるまでずうっと彷徨っていたんだろう。
……ぼくのにおいがなかったら帰ってきてないだろうなあ。
「……はぁ」
ぼくは疲れてしまって、大きなため息をこれ見よがしに吐く。
こだまは嗚咽をもっと大きくして、大粒の涙をもう一粒こぼした。
「どうやったら、もう無茶しないでくれるんだよ」
ほつり、とぼくは言葉に霊威を込めて、こだまのうえに囁く。
ほとり、とこだまの中に落ちた言葉が、波紋になって広がり、ぼくの届かない言葉の領域を、たった一度だけ伝える。
「……え?」
こだまが、腫れぼったくなった顔をあげる。
それは喜びと、そして、思いもよらぬ失望に打ちのめされたような、ふにゃふにゃとした表情だった。
「ぼくがお前のものになれば、もう、お前は無茶しないのかって聞いてんだよ。」
ぼくは、ズルい雄だ。
“霊威”を込めた言霊なんか使わなくたって、別にできるはずの結果を、誘発するためにつく優しすぎて冷たい嘘。
「お前がぼくのために取り乱して、そうやっていつも危ない目に合うのを、どうしたらやめてくれるんだって。ぼくがお前のために全て諦めれば、お前のその空っぽの心は満たされてくれるのかって、ぼかぁ聞いてんだよ」
決して強くない語調。
どこにも孕んでいない怒り。
温度のない絶対零度。
それらを含まないままに、全てを叩きつける、ズルい言霊。
凍りついたこだまは、返答ができる訳がなくて、まん丸になった目でぼくを見つめる。
ぼくの目は氷の刀の様に、写すだけで映らないこだまを、切り裂くように見下ろす。
……返答の決まった問答。
答えなんかない。
だから、これで終わりにしかならなくなった。
「……望まないです」
こだまの震えきった声が、誘われるままに、言葉を吐き出してゆく。
「そんなこと、望めるわけないです……」
開き切った瞳孔。
こだまの中の何かを、壊してゆく感触。
「だ、だから……」
「うん」
「こ……これで終わりに……します……」
がく、と言い切ったこだまは、糸がきれた人形のように突っ伏して、大声で泣き始めた。
まるで野生の獣があげる断末魔のように。
まるで、目の前で恋人が殺された一人の娘のように。
慟哭は高く低く、突き刺さりぼくを抉った。
ぼくもまた、ここで、死んだのかもしれなかった。
一匹の獣としてではなく、一つの心として。
……鳴り止むことのないかとも思われたこだまの泣き声は、しかし唐突に終わった。
たまるほどに滴った涙は、もう枯れて欠片も残っていなかった。
むくりと起き上がったこだまは、ゆっくりと、その冷たそうな自分の腕を通した白いワイシャツを、すい、と見やって、ぺこりと頭を下げた。
「グズ……た、大変、おぜわに……なりばしだ。も、もう、ご縁もないがもじればぜんが……」
汚い、きたない、ぐしゃぐしゃのままで、こだまが、別れの挨拶を、告げた。
「いばばで……ありがどうござい……まじた」
だから、ぼくはうっかりした。
“うっかりしてしまった”んだ。
その最後の際に、まさかできるとは思っていなかったから。
こだまが乗せた霊威の言霊を、防ぐことができなかったんだ。
「ぞれでも、ずっと、ずっと大好きでず。先輩のことが、私、大好きでいまず。ごめんなざい、ずっとずっと、お世話に、なりまじた」
こだまの悪意のない本意が、ぼくの中に波紋を落とす。
やめろ……。
こだまの本当の気持ちが、ぼくの鉄の硬度に凍てついているハズのなにかに、柔らかいさざ波をたててゆく。
やめろ……やめてくれ……。
「先輩」
やめ……
「いついつまでも、愛しています。だから、もしも次会う時は、先輩から尋ねてきて、くださいね」
にこ。
こだまはその瞬間、
微笑んだように見えた。
ぼくにかけた呪を解かないままで。
ぼくを縛らずに首輪にかけたままに。
その屈託のない笑顔で、無邪気に、可愛らしく笑って行った。
畳から噴き上がった、冥府からの闇にかき消されるように隠れて、あいつは、行ってしまった。
ぼくの胸をえぐり取ったままで、行ってしまいやがった。
だから、そう……。
これはきっと悔しさだ。
そうだ。
そうに違いなくて。
だからそうに決まってる。
なんで、ぼくが泣いているのかなんて。
そんなの、悔しいからに決まってる。
してやられた。
一本取られた。
「っちっくしょうが……!!」
あいつの狂おしさだけ分かってしまって、それでいなくなられて、ぼくのしまっていた何かにまで触って行きやがって。
これはだから、キライとか憎しみとかなんかじゃなくて。
「こッ……のォォオオオオ……!!!」
だからこれが、無視していた感覚。
気づかないフリをしていたかったココロ。
……殺し続けていた、生きたいと願っていた、ジブン。
「戻って来いよ……!! こだま……ッ」
気付かされてしまったからには、ぼくの負けなのだろうか。
ぼくが、一丁前の半人前に、あいつを好きだったって。
たったそれだけのことに。