サヨナラメロディー
ピアノが大嫌いだった。
幸人が弾くのを横で見ていると、まるで滑るように、指が鍵盤を滑っていくのに、実際にそれを押さえてみるととても重くて、それだけでも一苦労だった。それに、そんな風だから、すぐに鍵盤に指をとられて躓いてしまう。しかも、白と黒とが交互に混じる鍵盤はどれも同じように見えて、私の指はすぐに場所を踏み間違えてしまう。その、私の目の前で幸人は何の苦もなく、滑らかな動作で、転がるような指使いで、魔法のような音を奏でるのだ。
要は私のこらえ性がなかった、それだけなのだけど、当時の私には何か、ピアノに贔屓されているような、意地悪されているような気持ちになって、それで癇癪を起こして始めて僅か1日でピアノを放棄してしまった。
幸人のピアノは逆に長く続いた。いつも学校から帰った私の耳には幸人の奏でるピアノの音と、それに合わせてカチカチと言うメトロノームの音が聞こえていた。幸人は真面目な性格で、その上見かけによらず実は完璧主義だったから、そうやってリズムをとってきっちりとした練習をしていたのだ。
私の知る幸人の姿は、概ねピアノの前に座ってピンと伸ばした背中をこちらに向ける姿だけだった。私は年を重ねる毎に、そんな幸人には見向きもしなくなって、ただ学生生活に励むようになって行った。
幸人はうちに居るけれど、うちの子供ではない。
幸人のお母さんがうちの母親の妹で、幸人は私のいわゆる従兄にあたる。昔から音楽が大好きだった幸人の母親は無理して音大に行って、そこで幸人の父親と出会って、そのまま学生結婚というなんともロマンチックな人生を送った人だった。幸人の父親は、ピアニストになって、子供も生まれて、幸せな家庭を築いた。だけど、妻とヨーロッパに公演に行った飛行機が不幸にも飛行機事故にあって二人とも帰らぬ人となった。死に際まで劇的だったわね、とうちの母親は苦虫を噛み潰したような顔で言ったものだ。
そういうわけで、幸人は私も幸人も7歳の時に、幸人の両親の遺産である無駄に大きいグランドピアノと共にうちに来た。
うちだって、そこまで大きなわけではないから、始め、両親はそれを渋い顔で持て余すようにしていたけど、それを受け入れる事で他の遺産も得る事ができるのだから、と無理矢理一室を空けて、そこに大きなピアノと幸人を招きいれた。幸人両親は、二人とも結婚する時に実家と大喧嘩をして、共に勘当されていたから、自然、遺産は全て唯一の親族で居たうちの母の元へと流れ込んできたのだ。幸人の両親は万が一の事があれば、と結婚した時に既に弁護士に自分たちの死後の息子の事や遺産の事を明確に相談していた。決して、グランドピアノだけは売り払ってはいけない、というのもその条件だったのだ。
うちに来たばかりの幸人は、とても大人しかった。昔から、おとなしい子ではあったけど、それでもうちに来た場合は笑顔で挨拶をして、私と遊ぶような、むしろ感じの良い子供だった。だけど、うちに引き取られてからの幸人はまるで以前とは違った。いつも部屋にこもりきりで、ピアノばっかり弾いていて、私と視線を合わすこともしない、暗い顔をした子供になりきっていた。こちらが話しかけても、ふいと目を逸らしてしまう、そんな態度に腹を立てたのは一度ではない。それでも、幸人が来たばかりの頃は、私はその横にいてよく、幸人が一心にピアノを弾くのを隣で眺めていた。
本当は、もっと別の事をするべきだったのだろうか。両親の死にショックを受け、心を閉ざしてしまった少年を相手にするのだから、何度もめげずに話しかけてみるとか、外に引っ張り出して遊び仲間に入れてやるとか。でも、私はそれをしてあげるほど優しい子供ではなかった。自分の好きに、やりたいようにやる、他人の事など気遣えない子供だったのだ。だから、私は時々気が向いた時に幸人の部屋に入ってピアノを聴き、その他はまったく幸人を見返らないようになった。
そもそも、うちの両親は私が幸人の部屋に入るのを快く思っていなかったし、幸人はどうやら一生ピアノで食べていく気なのか、学校にも行かず、ひたすらピアノを弾き続けていて、こちらを振り返る事もしなかった。それで私は、どんどん幸人に興味をなくし、段々と足も部屋から遠ざかるようになって行った。
そうしていくうちに、私たちは幸人が居るのにもかかわらず、居ないような錯覚を起こすような生活をして行くようになっていた。絶え間なく聴こえてくるそのピアノの音も、もはや私の耳には日常の物で、それが改めて幸人の存在を思い起こさせるような物ではなくなっていた。
それでも私は、いつも学校から帰って来た時、玄関先で真っ先に耳を澄ませていた。少しでも早く、聞こえてくるピアノの音を聞き取ろうと、日課のように毎日。それに、幸人の部屋の前を通る時には、いつも耳を澄ませてピアノの音とメトロノームの音を聞き取っていた。それだけが、私と幸人を繋いでいたものだった。
だけど、ある日。本の些細な事でその関係が変わったのだ。
それは本当に思いもかけない事だった。田舎に居る父の祖父が倒れたから、と母親が看病のために急遽田舎に行ってしまった。追って父親も行くという事で、私は幸人と家に取り残されてしまったのだ。
始めは気楽な物だった。祖父の大変な時にそんな事を考えるのは不謹慎かもしれないけれど、両親の居ない家で好き勝手が出来ると思うと心が躍った程だ。だけど、台所でコンビニの弁当を買ってきて一人で食べている時にふと思い至った。そうだ、幸人の食事はどうしよう?いままでは母がきっと部屋に持って言っていたのだろうけど、今はいないのだから、やはり私が持っていくべきなのだろうか。それとも、母はその事を幸人に言い置いて行ったのだろうか?だが、今回の事は急な話だったし。
しばらく悩んだ後、結局私はそれを本人に聞きに行く事にした。
もう、何年も入っていなかった部屋をノックする時に、僅かに緊張しているのを感じたが、それを無視してドアを叩く。だが、返事はなく、相変らずピアノの音は聞こえてくる。どちらにしろ、ピアノを弾きながらなのだから開けて拙い場面に出くわすという事もないだろう。私は、そう思って勝手にドアを開けた。
ドアを開けた瞬間に、洩れてくる音とは比べ物にならない程の音量と迫力を持って音の洪水が私に押し寄せる。それと同時に見えたのは、相変らずのピンと伸びた背中。でも、見ない間に確かに私と同じだけ成長している。
私はごく自然な様子を装って、幸人に近寄って行った。幸人は真剣な瞳で譜面を見詰め、男にしては白過ぎる程に白くて長い、少し節が目立つ指が鍵盤の上を恐ろしいほどの速さで踊っていた。
おそらくとても上手いのだろうけど、私はそれが実際どの程度なのかは分からない。ただ、その音を聴いた瞬間から、なにか音の振動とは別に、体の中から痺れるような感じを味わったから、やはり幸人の音はすごいのではないのだろうかと思った。
だからだろう。一曲が終わるのを待ってしまったのは。
音の余韻の残る部屋で、幸人がまた新たな曲を始めようと鍵盤に手を置いた時に、ようやく私はハッと我に返った。
「ちょっと、幸人、話があるんだけど」
言いながら掴んだ手首は、驚くほど細くて冷たかった。
幸人はピアノを弾くのを邪魔されたのが不快だったのか、ようやく私の方に視線を向けた。もう随分長い事見ていなかった幸人の顔。父親譲りの色素の薄い瞳がこちらに向き、随分と久しぶりに私の顔で焦点を結ぶ。幼い時に見たその顔は何の穢れもないような清らかな顔をしていたけれど、今の幸人にはそれは見る影もなかった。青白い顔は幽霊のように精気がなく、昔は透き通っていた長い睫毛に縁取られた瞳には、何か底知れぬ暗い物が陰を落としていた。
私は思わず、言葉を呑んでその様子をまじまじと見つめてしまった。幸人はただ無言で、私の言葉を待っていると言うのに。そのまましばしの沈黙が降りて、幸人は私の手を振り払ってピアノに戻ろうとする。それでようやく、私は慌てて口を開いた。
「幸人、あんた、ご飯はどうするの?」
幸人の眉がひそめられ、怪訝な顔になるのを認めて、ようやくその顔に反応らしい反応が見られた事に内心安堵しながら私は続ける。
「お母さん、今日居ないんだけど、あんた、ご飯自分で食べたの?」
その言葉に幸人はしばし私の顔を不審そうな顔で見つめた後、ふいと視線を逸らして頷いた。
「食べた」
幸人がうちに来て以来始めて聞いたその声は、記憶にある可愛らしい声とは程遠くて、それでも、どこかその声の面影を残した低い声だった。
幸人が口を利いた。その事で私は内心、何故か分からないが舞い上がるような心地を感じていた。うちに来て以来ずっと私を無視し続けていた幸人がようやく、口を利いた。
だがそれっきり幸人はまた、ピアノの方に意識を戻そうとする。私は何とか幸人にもっと話をさせたくて、慌てて会話を探す。
「ねえ、今弾いてたのって何て曲?」
幸人は一瞬邪魔そうに、うざったそうに私を見たが、それでももぞもぞと口を動かして億劫そうに答える。
「幻想即興曲」
そう言ってすぐに鍵盤に手を伸ばそうとする幸人に更に畳み掛ける。
「速い曲だね。難しそう。……なんか、簡単なのとかないの?」
大好きなピアノに触れるのを先程から遮られていて苛ついているのか、幸人は険のある瞳をこちらに向けてきた。それでも、私は怯まずに続ける。
「ほら、私でも弾ける曲ってないのかな、とか」
私は本当はピアノは大嫌いだ。幼少の頃に一度幸人に触発されてやってみようとピアノ教室に行ってみたものの、1日行ってそれっきりになってしまった。いつも見ている幸人のそれと自分の差があまりにも歴然としていたのも嫌になった理由かもしれない。
だけど、なんとなく、もう少し幸人と一緒にいたいと思ったのだ。こうして幸人と口を利くのは久しぶりで、それが妙に私の心を昂揚させていた。そうして、幸人の興味を引けるものはピアノしかない。だから、咄嗟にこんな事を言っただけ。
幸人はしばらく黙って無表情に私を見ていたが、やがて鍵盤に手を戻すとまた音を奏で始めた。
やっぱり、駄目か……。
隣でピアノの音色に耳を傾けながら、そう溜息をつく。この曲を一曲だけ聴いて、退散しよう。
だが、意外に短かったその曲を弾き終えた後、幸人は私を振り返って初めて自分から口を開いてこう言った。
「この曲は?」
私は一瞬、驚きで頭が真っ白になった。それからそれは、じんわりとした喜びに変わって胸に広がる。
「難しすぎない?私は初心者なんだけど」
注文をつけてみると、幸人は首を傾げてまた曲を弾き始めた。
それから、いくつか弾いてもらったけど、全部私には到底弾けそうもないもので、幸人は明日までに考えてみると言って私を部屋から追い出した。
次の日、私は学校から帰ってすぐに幸人の部屋に直行した。両親が引き続き留守だったせいもあるかもしれないけど、やはり前日に幸人と会話を出来た事が大きかった。幸人の言葉は短くて素っ気無いけれど、何故かそれは私の胸に甘い痺れを与えて、私はそれが病みつきになってしまう。その次の日も、いそいそと学校から帰って私は幸人の部屋に足を運ぶ。幸人は迷惑そうにしていたけれど、それでも私を追い出しはしなかった。そんな中でも、最低限のマナーは守ろうと、私は幸人が曲を弾いている最中は、絶対に言葉を発しないようにしていたけれど。
随分と、身勝手で現金な話だとは思う。今までは全く気に掛けもしなかった幸人の部屋にこうして入り浸るのは。幸人が辛い時は何もしてあげなかったのに、知っていて放っておいたのに、こうして何事もなかった顔をしているのは。
だけど、一度知ってしまったらやめる事など出来なかった。結局、子供の頃だけでなく、今も私は自分勝手なままなのだ。
自分はこの家の娘だから、幸人が追い出すことを出来ないのを分かっていて、本当は嫌そうな顔をしている幸人に気付かないふりをして、こうしてここにいる。
いくつも幸人が提示した曲を却下した末、結局落ち着いたのは有名な曲で、最早クラシックですらないけれど『アメ-ジング・グレイス』だった。幸人は意外と心遣いが細かいらしく、わざわざ私用に簡単にアレンジしてくれた。
幸人が椅子を退いて、私がそれに座って、ひょろりと細い幸人の体が傍らに立って、細いくて白い指が譜面と鍵盤を示す様子をいまだに信じきれない心地で眺めていた。日当りの悪い薄暗い部屋だけど、埃だらけの部屋だけど、全く気にならなかった。
指を間違えると、幸人のひんやりと冷たい白い指が私の指に軽く触れて、それを直す。それが待ち遠しくて、でも意図的に間違えるような器用な事もできずに、ただ、身を硬くして鍵盤と譜面に集中する素振りしかする事ができなかった。傍らの幸人をずっと目の端で意識しながら。
小さい頃は重かった鍵盤も、今では簡単に押さえる事が出来るようになっていた。幸人のように滑らかに弾けなくとも、幸人が傍に立っていつもはピアノにしか向けない視線を私に向けているのだから良い気がした。
耳に、リズムを刻むメトロノームの音が心地よく響く。かちかちかち、と同じ速度で。
つきっきりでレッスンをしてもらえば、たどたどしくとも何とか弾けるようになる。2日間レッスンしてもらって、そうしてやっと弾けた私に、幸人は僅かながら初めて微笑をくれた。
それを見た時はもう、本当に。心臓が壊れるかと思ったのだ。
幸人の微笑みなんて、幼少の頃は飽きる程見ていたのに。幸人は昔は今よりもずっと素敵に笑えたのに、それなのにその笑顔よりも、私は今の笑顔がとても嬉しかった。
幸人の部屋には椅子が一つしかない。それは、ピアノの椅子で現在は幸人が座っている。だから、私は幸人の部屋に長居するつもりならば椅子を持ち込まなければいけない。私がそれを持って行った時、始め幸人はとても嫌な顔をしたけれど、私が別段邪魔するでもなくピアノを聴いているだけだと知ると気にしなくなった。その椅子の上で雑誌を広げてピアノに耳を傾けながら、私は幸人の横顔に無意識に視線を固定していた。自らそれに気付いてはっとして雑誌に視線を戻すも、気付くとまたそうしている。
もう随分長い間、背中しか見ていなかったので、横顔が新鮮なんだ、という言い訳はもう自分に通じない事は分かっていた。細く長めの首や、痩せすぎの感はあるけれど、スラリとした顎のライン、気付くとそうやって目で追っている。昔の面影のない幸人を。
どうして、もっと早くにこうしていなかったのだろう、と思う。
昔から、幸人の視線を独り占めしたくて、ピアノにまでやきもちを焼いた私が、何故傷心の幸人に慰めの言葉一つかけてやれずに、意識の外に追い出してしまうことが出来たのだろうか。
不意に幸人が顔をこちらに向けたのはその時だった。多分、私の視線を感じたのだろう。
自分では散々眺めておきながら、いざ幸人がこちらを向くと、私はとても狼狽した。慌てて視線を逸らして雑誌に目を落す。だが、肝心の雑誌は、私が身動きをとったせいで、膝の上から滑り落ちて埃だらけの床の上へと落下してしまっていた。慌てて手を出すも遅く、雑誌は激しい埃を舞い立たせて床に着地した。途端に目の前に広がった灰色の霞に、思わず手を口に当てて目をつぶる。人の住んでる部屋とは思えない。本当に、どれだけ埃をためているのだろう。
ようやく埃がおさまってから、私は台所に行って濡れ雑巾を持ってきて、床をざっと拭き始めた。この埃の量は異常だ。埃なんて気にも留めずにピアノを弾き続けている幸人に少しだけ白い目を送りながら、私はそれもまたびっしりと埃を溜めているピアノの上を見て呆れて溜息をついた。屋根を閉めていたから良かったものの、開けていたら中身がいかれていたんじゃないかと思うほどの埃の量。だが、それを拭き取っている間もピアノの音は続いて、その音の振動に拭き難い事この上なかった。だから、私はその屋根を開ける事を思いついたのだ。上げてしまえば本体から離れて少しは振動が来なくなるかと思って。それが、どんな結果を引き起こすかなんて、思いも寄らなかった。
思い切り力を入れて屋根を上げた私は、そこに現れたものに驚いて、そのまま手を放してしまったから、バタンと言う大きな音を立てて、それはすぐに閉まってしまった。だけど、私の目は閉まってもそこに釘付けになっていた。
信じられない物を見た。普通は有り得ない。もう一度開いてちゃんと確認しなければ。だけど、開く勇気はない。
なんで、ピアノの中にあんなものが?
本来ならば、鍵盤と繋がっているはずの弦や音を出すための色々な仕組みが中に入っている筈なのだ。なのに、そのピアノの弦は全て切られ、中身が持ち出され、ぽっかりとした空間が作られてていて、その中にありえないものが入っていた。
目に焼きついたのは生々しく髪の毛を生やした骸骨と、人の体を作っていただろうと思われる骨たちだった。
あれは、なに?
そうして、このピアノは、なに?中身が全部なくても音を奏でられるこれは……?
そう考えてようやく私はいつの間にか幸人のピアノの音が止んでいるのに気が付いた。聞こえるのは、ただ無意味にリズムを刻み続けるメトロノームの音のみ。恐る恐る顔を上げると、そこにはまっすぐにこちらを見据える幸人がいた。
それで、私はようやく気が付いたのだ。
「これは、幸人?」
尋ねる声は、震えてしまった。
幸人はこっくりと頷いた。
そのまま、私はその場で気を失ってしまった。
そうして、まどろみの意識の中で、ようやく思い出したのだ。幼い頃の事を。
両親が幸人に手をかけた日、私は家に居たのだ。
本当は、学校に行っているはずだった。両親もそう信じていたのだろう。だけど私はその日、幸人が家に引き取られて来るという事を知っていた。それがとても楽しみで、一刻も早く幸人に会いたかった。だから、両親に気付かれないようにランドセルを背負ったまま、幸人の部屋になるはずの部屋の押入れに隠れて幸人が来るのを待っていたのだ。
幸人は部屋に入ってくると、しばらく両親と話していたが、そのうちに幸人の視線は押入れの僅かに開いた隙間、すなわち私の方へと固定された。幸人は気付いていたのだ。私が覗いている事を。幸人はそれで苦笑しながら私の方へと近寄ってきた。でも、そうする前にいきなり私の両親が幸人に襲い掛かったのだ。私は、首を絞められて死に行く幸人とずっと視線を合わせていた。幸人はずっと、私の方を見ていた。
私は恐ろしかったけど、気が付いたら自分の部屋に居て、そうして次の日から幸人はああしてピアノを弾き始めたから、あれは夢か何かだったのだと思うようになった。そうして、忘れてしまった。だけど。
幸人は私と同じようにちゃんと成長していた。私の見てきた背中だけの幸人も私と同じように成長して行った。だけど、骨になってしまった幸人は成長する事など出来ないはずだったのだ。
―――私が、傷つかないようにずっと生きているふりをしてくれていたの?
いつもピアノの音を耳に届けて、生きているよ、僕はここに居るよ、と。
幸人は昔から優しい子供だった。私とは正反対の。
―――ありがとう。ごめんなさい……。
許しを請う事など、到底できやしない。自分の両親のせいで命を落とした相手にそんな事。
それでも、幸人の優しさにつけこんで、こう思ってしまう。
―――ごめんなさい、ごめんなさい。
そんな私の耳に、唐突に澄んだピアノの音が響いた。音の出ない筈のピアノが奏でる、その曲は。
アメージング・グレイス。
密かに刻み続けるメトロノームの音に合わせてゆっくりと、穏やかに。私が弾いたのには比べ物にならないほどに滑らかに。
優しいメロディーはまるで私を慰めてくれているかのようだった。
私はまどろみの中でその音に息を詰める。
その音は、段々と私から遠ざかっているように感じた。曲が終盤になるにつれて、もうほとんど消えていくような感じで。
「幸人……」
思わず引き止めるように呟いてしまった耳に、最後の和音が響いた。
最後に残ったのはメトロノームの刻む音だけ。目を開いてみたら、それは、時計の刻む音で、部屋には壊れた鍵盤の軽いピアノがあるだけだった。
私はなんて馬鹿なのだろう。
せっかく幸人は私のために、私のためだけに十年間もここに留まってくれていたのだから、こんな年になるまえに、もっと幸人と話しておけば良かったのに。十年間も、孤独にピアノを弾かせておかないで、もっといっぱい喋ってずっと一緒に居ればよかったのに。そうすれば、咄嗟に彼を引き止める事も出来たかもしれないのに。今まで自分のしてきた事を考えれば、その資格もありやしない。
彼がせっかく与えてくれた十年と言う歳月の中で、私が有効活用できたのは、ここ三日だけだ。その馬鹿さ加減に涙が出てくる。
私の耳にずっと聞こえていたピアノの音は、私にだけ聴こえていたものだ。
私の両親はきっと、幸人が死ねば遺産の全てが手に入ると欲に目がくらんだのだろう。幸人の父親はそれなりに名の知れたピアニストで、あの一家はどちらかと言えばお金持ちの部類に入ったはずだ。だが、考えてみれば当然の事、本当は、遺産はうちになんて来ないで一人息子の幸人に全て行く筈だったのだ。
それで、幸人を引き取ったその日に、幸人を殺してしまって……。
自分の親ながらに情けなくて、それでも自分の親だから悲しい。
これを、どうするべきだろうか。通報して、裁いてもらうべきだろうか。
自分の親を?
家の外に車が止まる音がした。両親がきっと、帰って来たのだ。
まとまらない思考の中で、それでもひっきりなしに幸人の面影がちらつく。
きっと私は両親を許せないだろう。どんなに家族で大切だと思っていても。
私は目を伏せ思いを馳せる。幸人はきっと今頃は、先に行っていた両親に温かく迎えられているだろうか。そうなる事を、心から願う。
それは、私にはもう二度と得られない物だ。
車が車庫に入って、話し声の混じった足音が向かってくる。私は玄関に立って二人を待つ。
がちゃりと鍵が開き、少し驚いた顔の二人に向かって私は言う。
「おかえり」
多分、この二人にこの言葉を言うのもこれで最後になるのだろう。
そう、悲しく考えながら。