十九.
十三〈蹟.二〉の冒頭および十八.の続きです。一部が九.に対応しています。
春の暁 夏の木漏れ日
秋の落陽 冬の星影
そのめぐりを その季節を 君はどうか
光は 永遠に
*** *** ***
『なんと、無茶なことを……』
『確証が欲しかった』
『それにいたしましても。お方様は、身重でいらっしゃるのですよ』
『……その通りだ。ただ』
『そのようなお顔を、なさいますな』
『――……うしなったものは、もどっては参りませぬ。陛下』
『キールド様は、いつも。あなた様の、おそばに』
ぼんやりとした霞のなかで、瞳が痛みに伏せられたように見えた。
*** *** ***
「――そろそろ、お薬湯と温かいものをお持ちいたします」
室付の侍女の声に、目を覚ました。
「お加減はいかがにございますか」
寝台の上から、侍医のいたわるような、穏やかな声が降りた。
「あなたは、いつもそれを訊くのね」
また顔がゆがんだ。
「――そのようなお顔を、なさいますな」
「同じようなことを聴いたわ」
「同じにございます」
胸が、くるしい。
「お方様」
「こちらに初めて来たとき、誰かわたしの手を握ってくれていたの。とても、あたたかかった。だから」
だからかえってきたのかと思った。あのひとが。
でも、ちがった。あのぬくもりは――
「あのかたのものだったのですね、わたしと同じひとを喪ってしまった。わたしは失ったのね。今度こそ」
天蓋の幕の間から、ぼんやりとした天井が目に入る。
冬の弱い夕日が室をかすめていた。
「……諦めていればなにか、かわっていたでしょうか」
「なにかとは」
「キールドが望んでいたように」
祖国は、取り戻せていたかも知れない。音はかえってこずとも。
「――お方様。キールド様は」
「わたしはあのひとを望んでしまった。だから、こんなことに」
わたしがキールドを殺したのだろうか。キールドの父はいまだに生きているというのに。
「なにを仰せです。キールド様がこちらでどれほど――」
「キールドが、あのひとが。諦めてくれていれば」
「なにを仰います」
「わたしを、助けることを、諦めてくれていればっ……」
「お方様――」
顔を、おおう。あまりにもあっけなく、終わりは告げられた。秋が終ったように。
「あなた様はご自分がなにを仰せか、お解かりでいらっしゃるのですか」
――――わからない。
『わからない。キールド、わからない』
あなたの思いはわからない。
あの日からずっと。
「キールド様のお望みは、あなた様ただおひとりです」
「ちがう、そんなはずはない」
わたしは諦めなければならなかった。望んだのは、わたしだから。
――――望んだのは、そなただけではない。
ちがう。こわしたのは、わたしだ。
「こわしたの。わたしがすべてを」
あの秋の日のあこがれを。花のようなきらめきを。
「望んでいたのは、あの方も同じです。ですから」
「望んでいないっ! 望んでいなかった、あのひとは」
あの瞳は。わたしが――
「キールドの子を宿すことなど」
突然、ガシャッと硬質な音が室に響いた。
失礼いたしましたと俯いて硝子の茶器を整える侍女の姿が目に入った。
「お方様。お薬湯を召されませ」
茶器のそばへ向かう侍医の背中は、侍女のそばで止まった。
「あなた、そういえば、なぜあの場に?」
侍女を見て、なせがとてつもない違和感がわたしを襲った。牢で倒れる直前に見た、彼女が肌掛けを持って駆け寄る姿を思い起こす。あのような冷たい牢に、侍女が居る必要があったのか。
「あなた、あなたももしかしてキールドを知っていたの? だからあの場にいたの?」
起き上がって思わず懐をおさえた。――笛。
いつか彼女は言わなかっただろうか。この笛をお持ちだった御方はと。
あれはいつだったか――この室で撫子の刺繍をしていたときだった。
撫子は、キールドのような花だった。だから昔、リボンに撫子の刺繍をした。不得手だったのに、一生懸命。
そう、あのときわたしは膝にあった笛を落として。笛は彼女に拾い上げられて。
あのとき笛は彼女の手に握られていた。そうだ彼女は笛を、握っていたのだ。
「見届けたかったのです。あの御方を苦しめたのが、どのような人だったのかを」
あの牢で握った短剣の感触が胸をよぎる。
彼女もまた、絶望をこめて笛を握ったのであろうか。
ふとざらついた手の感触を思い出した。そうだあれも、撫子の刺繍だった。城の歩廊の砂のようで。あの日の室の砂のようで。
「わたしは好きでした。あの御方が」
言葉に詰まった。
わたしが諦めていれば、あのひとが諦めていればかわっていたかも知れない。
少なくとも、あのひとが命を落とすことはなかった。
わたしにために。
ああ胸が、くるしい。
「そう。知っていたのですね。キールドのことを」
今更知っても仕方がないことを、ゆるゆると尋ねた。
「……はい。お優しい御方でした」
やさしい。キールドが?
「あなたの目にはキールドがやさしく見えたの?」
いいえ、あのひとの手は冷たかった。春のような瞳は、色を失った。
わたしの望みを叶えてくれた。でもそれはあのひとが望んだことではなかった。
やさしいの? わたしをおいていったのに?
なにも知らせず、わたしをひとりにしたのに?
失ったままでは、もうなかった。今度こそすべては、かえってこないのだ。
わたしに残ったのは、冬だけだ。春も夏も秋も消えた。
冬の掴みもできない流浪の光にただ立ち尽くすだけだ。
「どうして? なにがやさしかったというの?」
ざらついた感触がまたよみがえる。撫子――いや、砂――、短剣。
「あの御方はいつも、きっとあなた様のことをお思いでした。撫子の花が好きだったと、その人のために笛を吹くのだと。仰ったのはただ一度だけ。けれど」
侍女の手に力が篭ったのを、そのときわたしは知らなかった。
「あのひとがっ……。キールドが、わたしのことを諦めてくれていれば、今のようではなかった! そうだったなら、あのひとは生きていた!」
叫んだ。わたしも彼女も。
「左様でございます! 生きておいででした。なのに、それなのに……っ。なぜあなた様がそのようなことを仰るのですっ。わたしの目にキールド様が優しく映ったのは、あなたを思い出されていたからです!」
ひゅっ、と喉が鳴る。
――――諦めていれば。
わたしが、あのひとを。
わたしを、助けることを。
懐をおさえる。
よみがえった感触が、わたしを貫く。
熱い。あの剣は、まだ熱い。
わたし、は。
「こわしたのよ。なにもかも。あのひとが望んでいないと知って、こわした」
「キールド様は。あなた様のことをお話されたときだけは、違っておいででした」
「なにもちがわない! あのひとはかわったの、ずっとずっと昔にかわったの!」
「ならば返してっ! 知らないのなら返してっ。キールド様を返してっ」
その刹那。悲鳴のような音を立てて茶器が割れた。
悲憤に満ちた顔がわたしに迫る。
侍女が手にした硝子の茶器の破片が、刃のように鋭いきらめきを放つ。
とっさに懐に手をやる。
硬質な感触を、確かに認めた。悲鳴をあげたのは、わたしか、彼女か。
襲う硝子の刃の振りを両手で受け止めた。
ほんの、瞬きの、あと。
鈍い音とともに割れたのは。
笛、だった。