十八.
八.と十.および十二〈蹟.一〉に対応しています。
笛を渡されたとき、幻かと思った。
わたしが罪だと、表しているようだった。
赦されるべきではないと、告げられているように。
突如として、視界が真っ赤に明滅する。血に染まった城が映る。
顔をおおう。
息をつめる。
音のない涯のない、喪失の静けさに言葉をうしなう。
かなしみはわたしにそそぐ。とらえようとも戯れに零れ落ちる。
あなたを思う心のすべては、とどまってくれない。
音は、痛みに沈んでも。熱は、甘露に染まったように。
笛を渡されたとき、なにも望んでいないと、そう言った。
望んだものは、城が血に染まったあのときから失われたから。
だからこの笛を吹けなかったとき、安堵してしまった。音がしてしまったら、もう認めなくてはいけない。
だからまだ、失ったままだと。
城を去るとき、短剣を懐にしまった。
笛を渡されたとき、後悔と償いが胸にあふれた。
剣が、熱をもつ。
*** *** ***
「この者に、覚えはあるか」
灯火に揺れる影が、音もなく壁に這う。
硬質な声はなお、冴え冴えとして響いた。
身震いするほどの冷寒を囲う地下牢は、厚い石壁に覆われている。
額から血を流した男が、鉄格子の向こうに冷たい石壁に身を預けるようにして座り込んでいる。
ほんの幾月かの間に、その姿は零落していた。
近付く長靴の音に男はこちらに顔を向けた。
――――ああ。視界が揺らぐ。面影を捉えようとして。
「――――……」
男を見据える男の瞳もまた、氷のように突き刺さる。
「この者に、覚えはあるか」
「――――……」
目の前の霞が晴れなければいい。そうすれば、見ずとも済む。
「ラヴェンナ」
応えられない。
光を奪った。熱を奪った。あこがれを潰した。音を、消した。それは。
灯火が照らす、その瞳は。
――――なんて、似た面差し。
なのにどうして、春の瞳ではないの。
「ラヴェンナ。終りだ。今度こそ」
このかたの声が、胸に刺さるのは。
氷のように響くのは。
失くしてしまったから。
このかたも、わたしも。
「この、者は――――……」
声が震える。
「そなたから国を。キールドからすべてを」
奪った者それは――――キールドの、父。
「国境の森で捕らえた。――やはり思っていた通りになった。森が雪でおおわれる前に来ると思っていた。そなたを追って」
手先から身体が凍っていくようだった。面差しから、目を逸らせない。
「キールドの父で、間違いはないな」
男を見据えたまま、零下の声音が問う。
「捕らえられなかった。攻城の混乱で行方が掴めなかった」
胸に声が突き刺さる。剣が、熱い。
言わないで、それ以上は。
「――正統の王家の血のために、ラヴェンナ、この者はそなたを逃がすわけにはいかなかった」
影は揺れる。
「御前に、どうしても訊きたいことがある」
――――キールドは、と声が揺らぐ。
寒い。熱い。
零落した姿の男は、それでも昂然と言い放つ。
もう居らぬ、確かにこの手に掛けたと――――。
「――――このっ……裏切り者!!」
「ラヴェンナッ! なにをする!」
短剣を抜く音に背筋が震える。鞘にこすれる感覚に歯を食いしばる。
「この者が奪った。父も母も祖国も。キールドでさえも……っ。失ったままでは終われないのです!」
「キールドは……っ、そのようなことは望んでいないっ!」
怒号が反響する。両肩をつかまれ身体が反転する。鋭い瞳が胸に、身体に、突き刺さる。
「やめて……」お願い。できることを、やらせて。
「諦めるな、ラヴェンナ」
「なにを」諦めているというの?
「頼むから、生きてくれ。そなたのままに」
「生きているわ」
違う、と肩が揺れる。
「なぜわからない、なぜ。生きてほしいと、なぜわからない」
そんなことはわからない。本当は城が落ちたあのとき、剣で胸を突くべきだった。
いいえ。塔の深奥に閉じ込められたときにそうしておくべきだった。
殺されないのならば、この者に利されるだけだとわかっていたのに。
でもできなかった。会いたかったから。どうしても。
きっといつかかえると、信じていたから。
音も光もぬくもりも思い出も。
「わかる訳、ない……っ。はなしてっ!」
「ラヴェンナッ」
頬を、熱をもつ手がすべる。
――――そうか。このかただ。いつもわたしに触れていたのは。
見知らぬ土地で目覚めたあのとき。手に感じたぬくもり。横抱きにされたとき。ほんのわずかに感じた疑問は。
たびたび感じたあのぬくもりは。
どうして。
「なぜ助けたの。なぜわたしを助けたの」
「キールドがそれを望んだから」
どうして。
「――っ。……わたしなど、助けなければよかった」
失った痛みは、あなただって同じはずだ。
「なにを言うのだ。ラヴェンナ、キールドがどのような思いで――」
「キールドがいなくなってもよかったというの!?」
厳冬の瞳が、わずかに揺らいだように見えた。
「キールドの決意を踏みにじるなど、わたしにはできなかった。そなたを助けることでしか、キールドに報いることができなかった」
違う。愚かなのは
「キールドが求めていたものはたったひとつだった。ラヴェンナ。わたしは、それを望んだだけだ」
「……一度も会ったことのないわたしを助けてなにになるの。――あなたが望んだのは、キールドを喪くすことだったのっ!?」
ずっと愚かであったのは。
「――わたしを憎んでいるか」
違う。憎むべきは、償うべきなのは
「……わたしはなにも、望んでいませんっ……」
わたしだ。責められるべきはわたしだ。
助かったのだ、わたしは。
キールドと、このかたの手によって。
「――ならばわたしは、どうして生きていけば良い。この者を殺めずしてどのように終われば良い」
「わたしに訊かないで! わたしを助けたのはあなたよ」
「殺めればきっと終わる」
「ならばわたしが殺すわ」
「キールドは望んでいない」
「あなただって望んでいないっ! あなたが笛を渡したのは、わたしを責めたかったからではないの? あなたが望んでいるのはキールドよ。生きていきたいのは、キールドとなのよ」
「――そうだ。言われずともわかっている。……わたしの心を理解したのはキールドだけだった。肉親を、臣を追放し葬ったわたしを赦したのは。だがキールドが望んだのは――――そなただった。わたしにはわかる。キールドの思いが。後悔も償いもすべてを賭して守ろうとしたものがある。叶えたいものがある」
「それが、あなたとキールドでは同じだと言うの? わたしと同じ者を失ったあなたの願いだと言うの? 同じ痛みをもつわたしへの、思いだと言うの――――?」
――――ぼくには、それしか赦されない。いや、それすらも、きっと――――
キールド。
痛みに目を伏せないで。
――――後悔を置き去りにしてなお、償いすら、赦されることはかなわず――――
後悔も償いも、わたしが負うものだ。
たったひとつ、望んでしまったわたしが。
赦されないのは、わたしなのだ。
罪であるのは、わたしだ。
熱い。懐の剣が熱い。胸が苦しくて。
終わらない。だってかえってこない。
音はきこえなくなったのに。
「なぜ。そのように諦めているのだ。その短剣をなぜ放さない。あのときも、命を絶とうとしていた」
それは償いたいから。だからできることを、する。どちらも。
「――っ。諦めてなど、いない――――っ」
ふたたび剣を男めがけて放つ――その――わずかの、間。
「ラヴェンナッ! よせっ」
剣はまたしてもさえぎられた。
逞しい腕に、突き刺さったことによって。
「――――あっ……」
手が震える。零下にたたずんだように。
わたしの手をゆっくりと、ぬくもりが包む。
……あたたかい。
――――ああ。このかただ。いつもあたたかったのは。
喪い、失ったかなしみを抱える瞳だ。
いつまでも剣は熱い。
それは。熱をもつのは。
いつまでもあなたを求める心が熱いから。
わたしも、このかたも。
だから乾いていたのだ。このかたがそばにいるとき。
同じ者を、失ってしまったから。
「ラヴェンナ……殺めても終わらぬ。そなたが殺めたところで、なにも――。済まなかった。わたしにも、同じことだったのだ。――ようやく解った――――……」
カラン、と剣が石床に跳ねた。
寒くて熱くて、気がとおくなる。
わたしは大きな手に抱きとめられる。
最初から熱をもつのはこのかたの手だった。
キールドの手は、いつも冷たかったから。
どうして忘れていたの。かえるはずのぬくもりは、最初からなかったのだ。
あの春のぬくもりはずっと前に失われていたのに。
かなしみの笛を吹くことしかできないと、キールドが言ったあのとき。
わからないと首をふった。でも本当は終わりを予感していた。
大切なリボンを失くしたのは、そのことの予兆だとどこかで理解していた。
知っていた。あなたはもういないと。
それでも
それでも
きこえないから
まだ失ったままだから
かえってくる
失くしたものはかならず
お方様、と侍女が肌掛けを持って駆け寄る姿が見えた。
キールド。
生きろと言うの。
光を失い、なお生きろと。
ならば、わたしにはわからない。
あなたの思いは、わからない――――。