十七.
十一.の続きです。なお、十.および十二.〈蹟.一〉の一部と、序に対応しています。
「もうすぐだ、キールド。雪がふる前に、必ず来る。……もうすぐ終わる――」
あのひとの名をささやく声が、きこえる気がする。
靄がかかったなかで、頬に熱を感じる。
このぬくもりには覚えがある。
どうして。いつから?
だって熱は消えたのに。音がとおくて目覚めたあのときから――――……。
音がとおくて目覚めたあのとき、あの熱はもう消えたと知った。
――――胸が、くるしかった。
知っていた。あのひとが、なにをしようとしているかを。
どこかで、終わりは近いと。
だからかも知れない。望んでしまったのは。
あのひとがいなくなった日々は、思い返す日々は、城は、いつも冷たかった。
硬質な箱に入れられているように。 光のやわらかさも思い出のぬくもりも、なくなった。
けれども落葉を見ると、季節は少しだけとまってくれたように思った。
かたわらにいてくれたひととの思い出を、悼んでくれているようだった。
あのひとが城に戻ってきてからは、希望を宿す熱がわずかに芽吹いたように思った。
祖国を再建する光が灯ったようだった。
けれどもそれは、ひとときだった。わずかに芽吹いた種は、根こそぎ刈られた。かすかにあったあたたかな輝きは、またも奪い取られた。
集った同志が、血に散った。わたしは最上の塔のさらに深奥に閉じ込められた。
挑むように峻厳な弔鐘の音が響く。
キールドが鳴らしている。
笛の音がきこえる。
でも、音はとおい。
あのやさしかった音色は、ずっとむかしになった。
あのおさなかった音色は、もうきこえなくなった。
だから本当はずっとわかっていた。春の瞳が痛みに伏せられたあのときからずっと。
あのひとが、なにをしようとしているかを。
そして、終わりはいつか来ると。
――――恐れていた。
だからあこがれに焦がれた。かわらないでいてほしいと。
焦がれた光は、熱になった。
いつしか染まった。甘露な熱に。
ひとときだけで良いと思った。
けれど。
キールドは幾度もこちらを訪れた。他でもないわたしが望んでしまったから。
懐妊に気づいたのは、それほど間を置かずに。
どうしようもなく愚かだと思った。
あこがれを、自らこわした。
おさない日の光を願ったために。
わたしがあなたを諦めていれば、なにか、かわっていた?
あなたがわたしを……
*** *** ***
争乱の音がする。なにかが燃える音も。
霞む天井。亀裂の入った壁。倒れた椅子。散らばった硝子。砂だらけの床。抜き身の短剣。
わたしが閉じ込められている最上の塔のどこかの一室だった。
音を頼りにあのひとを探して、いつの間にかそこで倒れていた。
信じたくなかった。こんなに城が、室が荒れている理由を。
甘露だった熱の終わりを悟った。恐れていたことがおこった。
胸がくるしい。
音が、しない。
音がきこえない。
這いつくばってゆるゆると短剣に手をのばした。腹をかばいながら。
わたしはなにがしたいの。
「音は……」消えた、の?
「――――ラヴェンナ」
わたしの名を呼ぶ声がした。あなたではない声。熱く乾いて、けれど氷のようにそれはわたしに突き刺さる。
ああ、思ったとおりだ。見知らぬこのひとが、わたしの名を知っているのなら。この最上の塔の旗を手にしているのなら。やはり城は落ちたのだ。あのひとが、頼んだのだ。この氷の刃のように響いて、炎のように滾る、乾く声を持つひとに。
そしてあのひとは、もう――。
「……っ」
ざらついた砂の感触が手のひらに伝う。
短剣の柄を掴んだ、そのとき――
「――――なにをしているっ!」
「やめてやめてっ」
逞しい腕に、短剣は遮られる。
はなして。
おねがい。
音がしないのなら。もう終ったのだ。
「ラヴェンナ。終らない。まだ、終わらない」
荒れた室に風が流れる。
唸るような烈風が、巻く。
砂塵を。衣を。髪を。
風が、弔鐘を鳴らす。
今はない、在りし日の落ち葉も いつかの手紙も 思い出も すべて 浚う。
とまって。おねがいとまって。
思い出が流れてしまうから。
胸の隙間に流れて、思い出はとまってくれない。ひとつとして同じ落ち葉はない。
冷たい手のままでいい。
ぬくもりがなくてもいい。
いかないで。かえりたい。
どうしたい、わからない。
助けないで。そばにいて。
「よく、聞け。案ずることはない。わたしがすべて終らせる」
熱い手が、頬をすべる。
氷のように痛みに満ちた声が、突き刺さる。
同じ者を失った痛みに、共鳴する。
厳冬の夜空のような瞳が、わたしを射る。
どれほどわたしを見ようと、あのひとは戻らない。
わたしの瞳にどれほどあのひとを探そうと、映るものはなにもない。
なぜ、わたしに触れるの。
どれほど触れても、あのひとのぬくもりはあなたには伝わらないのに。
――たすけるから 君を かならず――
あなたの声が木霊する。
いかないで。
失うくらいなら、なにもしなくていい。
声に呼応するように 熱い。
短剣が熱をもつ。
失ったままでは、終われない。
*** *** ***
キールド
あなたがわたしを諦めていれば。
助けることを諦めてくれていれば。
あなたは、かわらなかった?
あなたが笛を吹くときは、争乱のとき
ただ鎮魂の音を奏でるために。
音が、しないのなら。
知っていた。
あなたはもう、いないのだと。