十六.〈蹟.五〉
『九.』と『十.』に対応しています。
少女は泣き濡れた顔でこちらを向いた。
少女の顔を見た少年は庭園に立ち尽くす。
今しがた起きた惨劇を信じられる術を、少年は探したかった。
景色のすべては、色褪せた。崩れ落ちていた。
「ラヴェンナ、ぼくはもう吹かないよ。かなしみの笛しか、吹かない」
つい数瞬前まであった庭園の輝きは、そこにはなかった。
「鎮魂の笛を、奏でよう。祖国を、取り戻すまでは」
思い出は、今、この時から凍る。
かなしみで、全身が冷たくなる。
「……とりもどす……?」
「ぼくには、それしか赦されない。いや、それすらもきっと」
償うことなど、できようはずがない。この少女の失ったものをふたたび返す以外では。
「――――ラヴェンナ。ぼくは、ゆるさない。君からすべてをうばったぼくの、父を」
その意味を瞬時に悟った少女は、首をふった。
「わからない。キールド、わからない。どうして?」
ゆれる少女の髪に、幾日か前にあった撫子を刺繍したリボンはなかった。
刺繍が得手ではなかった少女が、きっと懸命に作ったであろうもの。遊学すると話したことに落ち込んだ少女を元気づけようと褒めたリボンだった。
あの撫子の飾りは――そう訊こうとして、やめた。失くしたのかも知れない。もう、これ以上失くしたものの在り処を問うてどうするのだろう。
「――ラヴェンナ。泣かないで」
少年は少女の頬に手を滑らせた。
少女の頬は、あたたかかった。
どれほど月日がかかっても、必ずきみをたすける。
たとえ、父を弑することになっても。
*** *** ***
娘は背を向けて歩廊に立ち尽くしていた。
青年はかつて祖国と呼んだ城の、朽ちた庭園を見つめた。
迷乱する落ち葉が青年の足元を流れた。落ち葉を眺めて遊んだ在りし日の少年だった頃の面影を乞うように。二人の思い出を悼むように。
思い出が青年の胸に飛来する。朽ちた庭園にあってなお、落ち葉は舞う。思い出が木霊する。
青年は硬く目を閉じた。
娘の、名を呼ぶ。
「――――ラヴェンナ」
娘は驚きに、立ち尽くす。
「どうして」
「戻ってきたんだ。君を、たすけるために」
娘は呆然と青年に告げた。
「わたし、手紙を、なくしてしまった」
「持っていてくれたのか」
いつかに送った一通の手紙。
きっと大切に持っていてくれたのだろう。
ならばまた、大切なものをひとつ失わせてしまった。
青年は痛みに沈んだ瞳で娘を見つめた。
娘の頬に、手を滑らせた。
「――ラヴェンナ。泣かないで」
思い出は、あの日から凍った。
けれど娘の頬は、あたたかかった。泣き濡れていたあの日と、変わらず。いつの日も、変わらず。
取り戻す。必ず。この光を。
青年は、娘の名を呼ぶ。
「ラヴェンナ」
春の暁
夏の木漏れ日
秋の落陽
冬の星影
そのめぐりを その季節を 君はどうか
「ラヴェンナ」
光は
「すまない、ぼくはまだ。かなしみの笛しか、吹けない」
永遠に
「ラヴェンナ、たすけるから。君を、かならず」
君のなかに
*** *** ***
「一度ならず、二度までも。こんなことにっ……」
笛を握りしめる。近しい者をまた、失ってしまった。
わずかにあった希望の道すら、消し去られた。
弔いの鐘を、鳴らす。
すべての嘆きをなでるように。
惨禍を濯い流すように。
取り戻すのだ。ただひとつ残されたあの光を。たすけるのだ、必ず。
道はもう、ひとつしかない。
あの子の望むことはこれからはすべて、叶えよう。
その先はもう、叶えることはできないから。
彼女がいる最上の塔を見据える。
笛を構える。口づけるように。
彼女が泣き濡れた日から、ついにかなしみの笛しか吹けなかった。
在りし日の輝きに、かえることはなかった。
『わたし、手紙を、なくしてしまった』
いつかに送った一通の手紙。
また、大切なものをひとつ失わせてしまった。
自分が、これから行うことは、どれほどの喪失となるのだろう。
彼にとって。彼女にとって。
彼女が恐れていることを、している。
彼女が恐れていることを、する。
それは笛の音が、聴こえること。聴こえないこと。
それは争乱の音がするとき。争乱の音が永久にやむとき。
それは自らの心が死ぬこと。人が、心に生きること。
それは会えること。それは、逢えなくなること。
「――――済まない」
あの手紙が、もうないのなら。
笛に、こめよう。
この思いを。
そして託そう。
彼女が、この思いに気づくことがなくてもいい。
気づくときは、こわれるときだから。
気づいてくれればいい。
気づくときは、手にするときだから。
けれどきっと、気づいてほしい。
だって君は 光だから。