十四.〈蹟.三〉
一部、『十.』の冒頭に対応しています。
君が言った言葉を、こんなかたちで君に返さなければならないなんて。
ぼくは、なんと慮外なのだろう。なんと傲慢なのだろう。
*** *** ***
深い茜色が湖面にきらめきをまぶしている。
それは空をもうひとつ見つめているようだ。
青年はひとり湖畔で、笛を吹いていた。
「なぜいつもこの場所で笛を奏でる」
今しがた言い争った声の主に、振り返らずに青年は答えた。
「あの子に、届くように。いいや、届いてほしくはないかも知れない」
「……なぜ」
「ぼくが鎮魂の笛しか吹かないことを、あの子は知っているから。ぼくの笛の音が聴こえることを、きっと恐れている」
青年は笛に目を落とした。
「……さっきは、済まなかった。シュライゼ」
「――いや。気にしていない」
「こんな穏やかな国に、争いがあるなんて。幼い頃から、ずっとこの国は平和なのだと思っていた」
「穏やかであるのは、景色だけだ。人の心は、荒れる」
「ぼくはなにも知らなかった。君は、手にしたかったんだね。争いのない国を」
「そうだ。だが。わからない、未だに。正しかったのか。もう、五年も前の話なのに」
「ぼくがここに逃れて来て、もう四年だ。ここに来なければ、ぼくはこんなにも平静では暮らせなかった」
青年は、穏やかさを慎ましく湛える湖に目を戻した。
「ぼくは、君のなにを見てきたのだろうか。こんなにも、ともにいて。父のこともなにもわからなかった。政変を起こすほど、あの国がほしかったなど」
「近くにいても、わからないことばかりだ。わたしの父も母も兄弟も、心は通わない」
「……生きて、いるのに」
「そうだ。心があれほど通わなくて、ともに暮らす意味はない」
「君は、排除しなければならなかった。腐敗を」
「あれ以上争って、戦いにでもなれば。そのように無益なことはない」
「だから、家族を、臣を追放した」
「……人を殺さずとも、人の心は死ぬ。人が生きずとも、人は心に生きる」
「……シュライゼ」
湖面に風が吹き抜ける。
青年は湖をひたと見つめる。
濃い茜色が、青年の瞳を染める。
「君は、正しい」
青年は湖を見つめ続ける。
「シュライゼ」
彼は手の内の笛を、握りしめる。
「ぼくはあの地にかえるよ。この音を、終わらせるために」
風が、青年の髪をなでる。
「あの子はきっと、ずっとあの日から恐れていただろう」
「恐れている、というのは?」
「鎮魂の音が聴こえること。鎮魂の音が聴こえないこと」
青年はふたたび笛を構えた。
音は、湖面を渡り、風に乗り、森を伝う。
茜色の湖水をすべる。
湖面に落した葉陰がゆれる。
入り日は濃く、濃く、落葉を染める。
けれど湖水はきらめく。
澄んだ音を、光とするように。
湖水の茜が、一層のかがやきを帯びる。
光が、笛を照らす。
音が、落日に染まる。
落日に、音がつつまれる。
青年は、目を、閉じる。
*** *** ***
済まない。シュライゼ。
いまぼくは、どんな顔をしているだろう。
君の国に来たときとは、違う顔をしているだろうか。
また恐れを抱き、憎しみを抱いているだろうか。だけど。ただひとつ、この胸にあるものを、叶える。
いまはただもう、そのことしかない。
ずっと、忘れられない。君の、かなしみに満ちた姿を。
ずっと忘れられないのに、わかっているのに、ぼくは、君に願ってしまう。
どうか叶えてほしい。君が望んだ国があるように。
ぼくが、またひとつ君の失うものになるとしても。
争いが、いつまでも果てないのなら。
父があの子を苦しめるなら。
あの子を救う道は閉ざされてしまった。
祖国の再建を誓った仲間を喪ってしまった。
この地に戻ってからの三年の月日は、水泡と帰した。
君に頼むしかないんだ。どうかもう。終わりにしてほしい。君が、終らせてほしい。
『人が生きずとも、人は心に生きる』
君のこの言葉を君に返すぼくは、赦されるべきではない。
シュライゼ、ぼくはあの子に、なにも伝えていない。あの日からずっと。
だから笛にこめる。
笛をあの子に渡してほしい。
託す笛は、君の来訪を、待つ。
これは成し遂げられなければならない。
ぼくは父を討つ。
城を崩してくれ。
あの子を頼む。