魔法学園に通う十二歳。好きな人の名前を書いた消し石を、本人に拾われました
魔法学園に通う十二歳。好きな人の名前を書いた消し石を、本人に拾われました
消し石はあと半分になっていた。
鼻に近づけると、ほんのり、甘いにおいがした。木いちごみたいな、学園前の文房具屋さんのにおい。白くてやわらかい、インク消しの石。ノートのまちがえた字をこすると、インクがすうっと石に吸いこまれて紙がまっ白にもどる。そのかわり、石は少しずつ小さくなっていく。
こすったあとにこぼれる白い粉は、つくえの上で小さな山になる。コリーヌは毎回、それを指でつまんで、こっそりハンカチに包んでいた。
粉でさえ、なんだか、すてるのがもったいなかった。
このおまじないのことはお母さんにもお姉ちゃんにも言っていない。言ったら、きっと笑われる。六の星にもなって、まだそんなことしてるの、って。だから、筆箱のふたを閉めるたびに、コリーヌはほんの少しだけ、息を止める。
王立アステリア魔法学園、六の星・青の組の教室。一時間目が始まる前の、ざわざわした時間。十二歳のコリーヌは筆箱の中の白い消し石を指先でそっとつまみ上げた。
アステリアでは、学年を星の数でよぶ。入学した年が一の星。一年ごとに、制服のむねの学年章の銀の星が、一つずつふえていく。
新しかったころは、手のひらにすっぽり収まるくらい大きかった。秋の初めに、学園前の文房具屋さんで買ったもの。それがひと月半で半分。
消し石には紙の帯が巻いてある。青い、よくある柄の帯。
その帯の下に、えんぴつで小さく書いてある字のことは世界で二人しか知らない。
コリーヌと、親友のマノンだけ。
――ふぁびあん
好きな人の名前を消し石の帯の下に書いて、誰にも見られずに使い切ったら、両思いになれる。
三の星のとき、上級生のお姉さんたちが話しているのを聞いた。そのときはそんなの、ただのおまじないだと思っていた。
六の星の秋、コリーヌは自分の消し石にその名前を書いた。
えんぴつを持つ手が、ふるえた。「ぁ」の字が、少しゆがんだ。書き終わって、帯を巻いて、筆箱にしまってから、心臓がずっとどきどきしていた。
あれから、ひと月半。
算術のまちがいを消すたびに、古代文字の書き取りを消すたびに、コリーヌはほんの少しずつ、名前に近づいていく。
あと半分。
卒業までに使い切れるだろうか。
「コリーヌ、おはよ」
後ろから、マノンが肩をたたいてきた。二つに結んだ栗色のおさげが、ゆらりとゆれた。
「おはよ。……ねえ、見て。半分」
コリーヌは消し石を手のひらにのせて、マノンにだけ見えるようにこっそり見せた。
マノンは目をまんまるにした。
「うそ、もう半分? すごいじゃん。コリーヌ、消しすぎ」
「算術の宿題、まちがえまくったから」
「それ、わざとでしょ」
「わざとじゃないもん」
二人で声をころして笑った。
そのとき、教室の前の扉が開いて、男子が一人、入ってきた。
コリーヌの笑い声が、のどの奥で止まった。
ファビアンくん。
背はクラスの男子の中でまん中くらい。少し長めの黒い前髪が、目にかかっている。かばんの横に、魔法生物係の木札をぶら下げている。いつも朝いちばんに、教室の後ろの水そうの光る小魚にえさをやる。
ファビアンくんはコリーヌたちのほうをちらりとも見なかった。まっすぐ教室の後ろへ行って水そうをのぞきこんだ。青白く光る小魚が、えさに寄ってきて、水そうの中がぱあっと明るくなった。
コリーヌは消し石をぎゅっとにぎりしめた。
ファビアンくんを好きになったのは四の星の冬だった。
その日、コリーヌは魔法生物係の当番だった。放課後、中庭のすみの飼育小屋に、えさのキャベツを持っていった。
小屋の戸を開けたとたん、白い角うさぎが一羽、コリーヌの足のあいだをすりぬけて外へとび出した。
あっ、と思ったときにはもう、角うさぎは中庭を走っていた。白い毛のかたまりが、すごい速さで遠ざかっていく。おでこの小さな角が、夕日にきらっと光った。
コリーヌは追いかけた。でも角うさぎは速かった。
初等科の子はまだ、動いている生き物を呼びよせる魔法を習っていない。止まれ、と呪文をとなえても、コリーヌの杖の先からはぽふっと白いけむりが出ただけだった。
角うさぎは講堂の裏へ回りこんで、植えこみの中へもぐりこんで見えなくなった。
日が暮れかけていた。冬の夕方の空気は冷たかった。コリーヌは植えこみの前にしゃがみこんで泣きそうになっていた。
角うさぎを逃がした。先生にしかられる。みんなに、コリーヌのせいだって言われる。もし、学園の門から外へ出て馬車にひかれたら。
「――そこ、いるの?」
後ろで声がした。
ふり向くと、男子が一人、立っていた。となりの組の、ファビアンくん。そのころは名前しか知らなかった。
「角うさぎ。にげたんでしょ。走ってくの、見えた」
コリーヌはなみだをこらえてうなずいた。
ファビアンくんは、コリーヌのとなりにしゃがみこんだ。それから、植えこみの奥をじっとのぞきこんだ。
「大きい声、出さないで。あと、杖もしまって。角うさぎって、魔法のにおいがこわいと、もっと奥に行くから」
ファビアンくんは上着のポケットから、にんじんのかけらを取り出した。食堂のお昼ごはんの残りをこっそりとっておいたらしい。それを植えこみのすきまにそっと置いた。
二人でだまって待った。
五分くらいたったころ、植えこみの奥でがさりと音がした。白い鼻先がひくひく動きながら、にんじんのほうへ出てきた。
ファビアンくんはゆっくり手をのばして、角うさぎの体を両手でふわりとつつんだ。
「……つかまえた」
ファビアンくんが、コリーヌのほうをふり向いた。
そのとき、はじめて、ファビアンくんが笑うのを見た。前髪の下で、目が、くしゃっと細くなった。
「もう、だいじょうぶ」
コリーヌの胸がどくん、と鳴った。
それから、二年。
六の星ではじめて同じ組になった。席はいつも遠かった。話したのは数えるくらい。
でもコリーヌは知っている。ファビアンくんが、毎朝、光る小魚にえさをやること。休み時間に、図書室で魔法生物の図鑑を読んでいること。食堂のにんじんを今でもこっそりポケットに入れて飼育小屋へ持っていくこと。
だから、コリーヌは消し石に名前を書いた。
事件が起きたのはその日の三時間目だった。
算術の時間。分数のわり算。先生が黒板に問題を書いて、「ではノートにやってみましょう」と言った。
コリーヌはえんぴつを動かした。三分の二わる五分の四。ひっくり返してかけて。
まちがえた。
消し石を手に取った。こすった。力を入れすぎた。
消し石が指からすべってつくえの上ではねた。
ぽん、と、つくえのはしにぶつかってゆかに落ちた。ころころと転がっていく。
コリーヌの席は窓ぎわの、前から三番目。先週の席がえでそこになった。
消し石は転がって転がって。
ななめ後ろの席の、足もとで止まった。
ファビアンくんの、室内ばきのすぐ横で。
コリーヌの頭の中が、まっ白になった。
しかもゆかに落ちたひょうしに、青い紙の帯が、すっぽりぬけていた。白い消し石がむき出しのまま、ゆかの上に転がっている。
帯の下に、えんぴつで書いた字が。
ファビアンくんが、えんぴつを置いた。
ゆっくりと、かがみこんだ。消し石を拾い上げた。
コリーヌは息ができなかった。
ファビアンくんが、手の中の消し石を見た。
見た。
ほんの一秒くらい。ファビアンくんの手が止まった。前髪の下の目が少しだけ、大きくなった。
それから、ファビアンくんはゆかに落ちていた青い帯を拾って、消し石に、ていねいに巻き直した。
そして、立ち上がって、コリーヌのつくえの上にそっと置いた。
何も言わなかった。
ファビアンくんは自分の席にもどってえんぴつを持ち直した。ノートに何か書きはじめた。
コリーヌはつくえの上の消し石を見つめていた。
青い帯。いつもどおり。何もなかったみたいに。
――見られた。
顔が火がついたみたいに熱くなった。耳も首も手のひらまで。心臓がこわれそうなくらい、どくどく鳴っていた。
見られた。ファビアンくんに。ファビアンくん本人に。
帯の下に書いてある、ファビアンくんの名前を。
黒板の問題がぜんぜん頭に入ってこなかった。先生の声が遠くで聞こえた。コリーヌは消し石をにぎりしめたまま、三時間目が終わるまで一度もふり返れなかった。
「コリーヌ、コリーヌってば」
休み時間、マノンが、コリーヌの腕を引っぱって手洗い場に連れていった。
いちばん奥の、鏡の前で、コリーヌはマノンにしがみついた。
「マノン……」
「見てた。見てたよ、ぜんぶ。消し石、ファビアンの足もとまで転がってったでしょ」
「帯、とれてた……」
「うん」
「名前、見られた……」
「……うん。たぶん」
コリーヌの目から、なみだがぽろぽろこぼれた。
はずかしかった。消えてしまいたかった。今すぐ、この学園から、いなくなりたかった。姿消しの魔法が使えたら、今すぐ使うのに。
「どうしよう。ファビアンくん、きっと、気持ち悪いって思った。勝手に名前書かれて。おまじないとか、ばかみたいって」
「そんなの、分かんないじゃん」
「分かるもん。だって何にも言わなかった。だまって帯を巻いて返してきた」
それがいちばんこわかった。
笑ってくれたら、まだよかった。からかってくれたら、まだ、ちがうよ、べつのファビアンくんだよ、とか言えた。
何も言わなかった。何もなかったみたいに。
見なかったことにされた。
それはつまり、こまらせた、ということだ。
「……もう、おまじない、だめだね」
コリーヌは手の中の消し石を見下ろした。
「誰にも見られずに使い切らないと、だめなんだもん。本人に見られちゃった。いちばん、見られちゃいけない人に」
マノンは何も言わずに、コリーヌの背中をぽんぽんとたたいてくれた。
手洗い場の窓から、秋の風が入ってきた。中庭の大きな銀杏の葉っぱが、黄色くなりかけていた。
その日、コリーヌは一度もファビアンくんのほうを見なかった。食堂でもそうじの時間も。
帰りの会が終わって、かばんをしょったとき、黒板の横の当番表が目に入った。
――魔法生物係 コリーヌ・ファビアン
コリーヌの足が止まった。
今週の飼育当番。角うさぎ小屋のえさやり。放課後、二人で。
六の星の魔法生物係は、二人ずつ組んで当番をする。春に、くじ引きで決まった組み合わせ。コリーヌはくじでファビアンくんと同じ組になったとき、家に帰ってから、まくらに顔をうずめて足をばたばたさせた。
それが今はいちばん、こわかった。
放課後の飼育小屋はいつもどおり、干し草のにおいがした。
金あみの向こうで、白い角うさぎと茶色い角うさぎが、鼻をひくひくさせている。四の星のとき、コリーヌが逃がした白い角うさぎはもう、おばあちゃんうさぎになっていた。おでこの角も少し丸くなっている。
コリーヌはキャベツの入ったバケツを持って小屋の前に立っていた。
ファビアンくんはもう来ていた。小屋の中で、ほうきで干し草を集めていた。
コリーヌが来たのに気づいて、ファビアンくんはほうきを持つ手を止めた。
目が合った。
コリーヌはすぐに目をそらした。
「……キャベツ、持ってきた」
「うん」
会話はそこで終わった。
コリーヌは小屋の中に入って、えさ箱に、キャベツをちぎって入れた。ファビアンくんはだまってほうきを動かした。
しゃっ、しゃっ、というほうきの音。キャベツをちぎる、ぱりっという音。角うさぎがキャベツをかじる、しゃくしゃくという音。
二人とも何も言わなかった。
コリーヌの手がふるえていた。キャベツがうまくちぎれなかった。
――何か、言わなきゃ。
あれはちがうの。おまじないなんて信じてないの。マノンに、ふざけて書かされただけなの。
うそだ。全部、うそだ。
でも、本当のことなんて言えるはずがない。
――ファビアンくんのことが、四の星のときから、ずっと好きです。
そんなこと言ったら、明日から、学園に来られない。
ファビアンくんが、ほうきを小屋のすみに立てかけた。それから、水入れを持って外の井戸へ行った。
コリーヌはその背中をこっそり見ていた。
少しだけ、ほっとした。それから、少しだけ、さみしくなった。
やっぱり、何も言わない。きっと、なかったことにしてくれるつもりなのだ。ファビアンくんはやさしいから。気まずくならないように。
それがやさしさだって分かるから、よけいに、胸がぎゅっと痛かった。
えさやりが終わって、小屋の戸にかぎをかけようとしたとき、ファビアンくんが、ポケットから何かを出した。
にんじんのかけらだった。食堂の、オレンジ色の、いちょう切りのにんじん。三つ。
ファビアンくんはそれをだまってコリーヌのほうへ差し出した。
「……え?」
「白いの、にんじん好きだから」
コリーヌはにんじんを受け取った。手のひらに、少しひんやりした、三つのかけら。
金あみのすきまから差し出すと、白いおばあちゃんうさぎが、ひくひく鼻を動かしながら寄ってきて、コリーヌの指先から、にんじんをかじった。くすぐったかった。
四の星のときと、同じだった。ファビアンくんがポケットからにんじんを出して白い角うさぎが寄ってきて。
――覚えてるのかな。
コリーヌはちらりとファビアンくんを見た。ファビアンくんは、金あみの向こうの角うさぎを見ていた。コリーヌのほうは見なかった。
覚えてるわけ、ないよね。
コリーヌは最後のにんじんのかけらを角うさぎにやった。
その夜、コリーヌは晩ごはんをほとんど食べられなかった。
「コリーヌ、どうしたの。おなか痛い?」
お母さんが心配そうにおでこに手を当てた。
「……ちがう。だいじょうぶ」
「好きな肉だんごのシチューなのに、半分も残して」
「明日、食べる」
コリーヌは自分の部屋に逃げこんでベッドにもぐりこんだ。
ふとんの中で、杖の先に小さな明かりをともした。初等科で最初に習う、いちばんかんたんな魔法。豆つぶくらいの光の下で筆箱から消し石を出した。青い帯をそっとずらした。
――ふぁびあん
えんぴつの字が少しだけ、こすれてうすくなっていた。きょう、ファビアンくんの指がここにさわったのだ。
コリーヌは消し石を胸に当ててぎゅっと目をつぶった。杖の明かりがふっと消えた。
どうか、明日、学園に行ったら、みんなが忘れていますように。ファビアンくんも忘れていますように。
――ちがう。
本当は忘れてほしくなかった。
見られたのははずかしい。消えてしまいたいくらい、はずかしい。でも心のどこかで、ほんの少しだけ、思っていた。
気づいてくれたら、いいのに。
ふとんの中で、コリーヌはまくらに顔をおしつけた。なみだがまくらカバーにしみこんでいった。
次の日の、帰りの会だった。
「先生、しつもーん」
クラスでいちばんうるさい男子の、バスチアンくんが、手をあげた。
先生が「なあに、バスチアンくん」と言うと、バスチアンくんはにやにや笑いながら立ち上がった。
「おれ、きのう見ちゃったんすけど。三時間目に、コリーヌの消し石が落ちて、ファビアンが拾ったじゃないですか」
コリーヌの背中が、こおりついた。
「そのとき、帯がとれててー。下に、なんか書いてあったんすよ。ふぁびあん、って」
教室が一瞬、しんとなった。
それから、ざわっと、波みたいに声が広がった。
「えーっ」「うそ、本当に?」「コリーヌ、ファビアンのこと好きなの?」「消し石のおまじないじゃん」「はずかしー」
女子たちがきゃーっと声をあげた。男子たちがひゅーひゅーと口笛を吹いた。誰かの杖の先から、ぱちぱちと小さな火花がはじけた。
コリーヌはつくえの下で両手をにぎりしめた。
顔が熱かった。目の前がぐにゃりとゆがんだ。なみだがこぼれそうだった。
にげたい。今すぐ、ここから。
――でも。
コリーヌはくちびるをかんだ。
ここで泣いたら、もっとからかわれる。ここでにげたら、ファビアンくんまで、明日から、みんなにからかわれる。
ファビアンくんは何も悪くないのに。勝手に名前を書いたのはコリーヌなのに。
コリーヌは立ち上がろうとした。足ががくがくふるえた。
ちがうって言わなきゃ。わたしが勝手に書いただけで、ファビアンくんは関係ないって。
ガタン、と、いすの音がした。
コリーヌの、ななめ後ろで。
ファビアンくんが、立ち上がっていた。
教室がまた、しんとなった。
ファビアンくんは、バスチアンくんのほうを向いていた。前髪の下の目がいつもより、ずっと、こわかった。
「人の消し石、勝手に見るなよ」
低い声だった。ファビアンくんがこんな声を出すのをコリーヌははじめて聞いた。
「拾ったのはおれだ。見たのもおれだ。バスチアンは関係ないだろ」
「い、いや、でも見えちゃったし」
「見えても、言うなよ」
短く言い切ると、ファビアンくんはいすに座り直した。
教室じゅうがしーんとしていた。誰も、ひゅーひゅー言わなかった。バスチアンくんは口をぱくぱくさせて、それから、もごもごと「……ごめん」と言って座った。
先生がぱん、と手をたたいた。
「はい、帰りの会の続きをします。バスチアンくん、人の持ち物のことをみんなの前で言うのはやめましょうね」
コリーヌはつくえの上で、両手をにぎったまま、動けなかった。
ファビアンくんが、かばってくれた。
でもそれはコリーヌのことが好きだからじゃない。ファビアンくんはただ、ずるいことがきらいなだけだ。角うさぎを逃がして泣いていた四の星の女の子を、だまって助けてくれた人だから。
分かっていた。分かっていたのに、胸が、苦しくて、苦しくて、なみだが一つぶ、つくえの上にこぼれた。
その日も飼育当番だった。
コリーヌは行きたくなかった。でも角うさぎはおなかをすかせて待っている。当番をさぼるわけにはいかなかった。
夕方の飼育小屋は、オレンジ色の光につつまれていた。中庭の銀杏の影が、長くのびている。
ファビアンくんは今日も先に来ていた。
小屋の前のベンチに座って、白いおばあちゃんうさぎをひざの上にのせていた。角うさぎはファビアンくんの手のひらに鼻先をこすりつけて目を細めていた。
コリーヌが来たのに気づいて、ファビアンくんが顔を上げた。
「……さっきはありがとう」
コリーヌはバケツを持ったまま、ぺこりと頭を下げた。声がかすれた。
「かばってくれて。……ごめんね。わたしのせいで、ファビアンくんまでみんなに言われて」
「べつに」
「消し石のこと、気持ち悪かったよね。勝手に名前書いて。わたし、もう、書かないから。消し石もすてるから」
言いながら、なみだが出てきた。止まらなかった。
すてたくなかった。半分まで使った消し石。ひと月半、毎日少しずつ、名前に近づいた消し石。
でも本人に見られた。おまじないはもうだめになった。それに、ファビアンくんをこまらせた。
「すてないで」
ファビアンくんが言った。
コリーヌは顔を上げた。
ファビアンくんは角うさぎをひざにのせたまま、コリーヌを見ていた。前髪の下の目がまっすぐだった。耳が夕日のせいか、まっ赤だった。
「すてないでほしい」
「……え?」
ファビアンくんは角うさぎをそっとベンチの上におろした。それから、かばんの横のポケットから、何かを取り出した。
筆箱だった。紺色の、よくある布の筆箱。
口を開けて、中から、消し石を一つ、取り出した。
灰色の帯の、消し石。コリーヌのと同じくらい、小さくなっている。半分よりももう少し小さい。
ファビアンくんはその消し石の灰色の帯を指でそっとずらした。
帯の下に、えんぴつで小さな字が書いてあった。
――こりーぬ
コリーヌは息が止まった。
世界から、音が消えた。角うさぎがキャベツをかじる音も遠くの中庭の笑い声も全部。
「……これ」
「五の星の、冬の学期から使ってる」
ファビアンくんは消し石を見下ろしたまま、ぼそぼそと言った。
「一回、使い切ったんだ。誰にも見られずに。でも何も起きなかったから、もう一回書いた。これ、二こ目」
二こ目。
五の星の、冬の学期から。
「一こ目のとき、最後のほう、豆つぶくらいになってさ。にぎれなくて、えんぴつのおしりでおさえて消してた。そしたら、転がってなくした。教室のどっかに」
ファビアンくんはぼそぼそと続けた。
「使い切ったのか、なくしたのか、分かんなくなって。だから、数に入らないと思って、もう一回、書いた」
「……数に入らない」
「でも六の星で同じ組になったから、ちょっとは効いたのかもしれない」
ファビアンくんはそう言って灰色の帯を元にもどした。
コリーヌは口をおさえたまま、何も言えなかった。
五の星の、冬の学期。コリーヌがまだファビアンくんと別の組で、廊下ですれちがうたびに、こっそりふり返っていたころ。
ファビアンくんもそのころから。
六の星の春、組分けの貼り紙を見て同じ組に「ファビアン」の名前を見つけたとき、コリーヌはマノンの腕をつかんで、その場でぴょんぴょんはねた。
ファビアンくんももしかしたら、あの貼り紙の前で。
想像したら、胸がいっぱいになって息が苦しくなった。
「な、なんで」
声がふるえた。
「なんでわたし」
ファビアンくんはしばらくだまっていた。それから、ベンチの上の角うさぎを見た。
「四の星のとき、角うさぎ、にげただろ」
「……うん」
「あのとき、コリーヌ、泣きそうだったのに、ずっと、うさぎの心配してた。先生にしかられることより、うさぎが馬車にひかれたらどうしようって。植えこみの前でずっと言ってた」
コリーヌは口をおさえた。
覚えていない。そんなこと、言っていたなんて。
「つかまえたあと、コリーヌ、うさぎに、ごめんねって言ったんだ。こわかったよね、ごめんねって。何回も」
ファビアンくんの耳が、もっと赤くなった。
「……それから、なんか、ずっと」
ファビアンくんはそこで言葉を止めた。消し石を手の中でぎゅっとにぎった。
コリーヌの目から、なみだがぽろぽろこぼれた。
さっきまでとはちがうなみだだった。
「きのう、消し石拾ったとき、心臓止まるかと思った」
ファビアンくんが、ぼそりと言った。
「自分の名前、書いてあって。……おれのと、おんなじことしてるって」
「だから、何も言わなかったの?」
「何て言えばいいか、分かんなかった。おれもだよって言ったら、コリーヌのおまじない、だめになるだろ。おれに見られたら」
コリーヌは泣きながら、ふき出してしまった。
「もう、だめになってるよ。ファビアンくんに見られたもん」
「……あ」
ファビアンくんが、ぽかんと口を開けた。
「それに、わたしも今、ファビアンくんの、見ちゃった」
「…………あ」
二人で顔を見合わせた。
それから、二人同時に笑い出した。おなかをかかえてベンチの前で。角うさぎがびっくりして長い耳をぴんと立てた。
「おまじない、二人ともだめになっちゃったね」
「うん」
「じゃあ、どうするの」
コリーヌが言うと、ファビアンくんは笑うのをやめた。
前髪の下で、目が、まっすぐコリーヌを見た。
「……おまじない、なしで言う」
ファビアンくんは一回、大きく息をすった。
「コリーヌ。……卒業まで、いっしょに帰らない?」
夕日が飼育小屋の金あみをオレンジ色に光らせていた。
コリーヌはなみだをそででごしごしふいた。それから、手のひらの上の、自分の消し石を見た。
半分の、白い消し石。青い帯の下の、少しゆがんだ「ぁ」の字。
「……うん」
声がふるえた。でもちゃんと言えた。
「いっしょに帰る」
次の日の朝、コリーヌは通学路の角で立ち止まった。
街灯の柱のかげに、紺色のかばんが見えた。ファビアンくんだった。コリーヌを見つけると、片手をちょっとだけあげた。
「……おはよ」
「おはよう」
二人でならんで歩きだした。
何を話せばいいのか、分からなかった。ファビアンくんもだまっていた。でも気まずくはなかった。石だたみの上で、足音が二つ、ならんでいた。
「消し石、どうする?」
学園の門が見えてきたころ、ファビアンくんが言った。
「おまじない、もうだめになったし。すてる?」
「すてない」
コリーヌはすぐに答えた。
「ふつうに使う。算術で、いっぱいまちがえて、いっぱい消す」
「わざとまちがえるなよ」
「わざとじゃないもん」
ファビアンくんが、くしゃっと笑った。四の星の冬に、角うさぎを抱きながら見せてくれたのと、同じ笑い方だった。
門の前で、マノンが、こっちに手をふっていた。それから、二人がならんでいるのを見て、目をまんまるにして両手で口をおさえた。
ファビアンくんが「先、行く」と小さく言って、げた箱のほうへ走っていった。耳がまっ赤だった。
そのとたん、マノンが、コリーヌに飛びついてきた。
「ちょっと! コリーヌ! なに! なにあれ! なんでファビアンといっしょに来てんの!」
「マ、マノン、声、大きい」
「大きくもなるよ! きのう、手洗い場で泣いてたじゃん! おまじない、だめになったって!」
コリーヌはマノンの耳に口をよせた。
「……あのね。ファビアンくんの消し石にも書いてあったの」
「何が」
「わたしの、名前」
マノンが固まった。
それから、コリーヌの両肩をつかんでぶんぶんゆさぶった。
「うそでしょ!? えっ、えっ、両思い!? 消し石どうしで!?」
「声!」
マノンは自分の口を両手でふさいだ。でも目が、きらきらしていた。おさげがぴょんぴょんはねていた。
「よかったじゃん……よかったじゃん、コリーヌ……」
マノンの声がちょっとだけ、ふるえていた。きのう、手洗い場で、ずっと背中をたたいてくれた手が、今はコリーヌの手をぎゅっとにぎっていた。
昼休み、バスチアンくんが、コリーヌのつくえの前に来た。
両手を後ろに回してもじもじしている。いつものうるさいバスチアンくんとは別の人みたいだった。
「コリーヌ。……きのうはごめん」
バスチアンくんは、後ろに回していた手を前に出した。新品の消し石が一つのっていた。
「おわび。おれの、新しいやつ」
コリーヌは少しびっくりして、それから、首を横にふった。
「ありがとう。でもいい。わたし、今の消し石、最後まで使うから」
「……そっか」
バスチアンくんは、消し石をポケットにしまった。それから、ちらりと、コリーヌのななめ後ろの席を見た。
「ファビアン、きのう、めっちゃこわかった」
「うん」
「あいつ、あんな声出すんだな」
バスチアンくんは頭をかいて、自分の席にもどっていった。
コリーヌはななめ後ろをふり返った。ファビアンくんは、魔法生物の図鑑を読んでいるふりをしていた。でも本が、さかさまだった。
コリーヌはかばんの肩ひもをぎゅっとにぎった。顔が熱かった。
三時間目の算術で、コリーヌはまた計算をまちがえた。
消し石を手に取ってこすった。
ななめ後ろの席で、ファビアンくんもちょうど同じときに、消し石を動かしていた。
しゃっ、しゃっ、と、二つの音が、ならんで聞こえた。
(完)




