筋肉はSAN値を凌駕する
エンド5:筋肉
「修也、太った?」
その一言は、今の俺の柔らかな身体に深く突き刺さった。
「……きゅう?(……太った?)」
「うん。なんか前より、もちもちしてない?」
「きゅう……(もちもち……)」
触手で自分の身体をつまんでみる。
むに。
「…………」
もう一度つまむ。
むにむに。
(……太った?)
いや、そもそもこの身体に太るとかあるのか?
人間だった頃なら、腹が出たとか、顔が丸くなったとかで分かる。
でも今の俺は、ぐにゃぐにゃの身体に触手がいっぱい生えた、人ならざるナニカだ。
(どこからが太った判定なんだよ)
「ほら、ここ」
「きゅ?」
梓が俺の横っ腹らしき場所を、むにっと掴んだ。
「前はもうちょっとシュッとしてた気がする」
(シュッとしてたの!?俺!?)
知らなかった。この身体にも、シュッとしてるとかあるんだ。
「まあ、これはこれで柔らかくて好きだけどね〜」
「きゅう……(そっか……)」
「うん。もちもち〜」
梓が楽しそうに俺の身体をむにむにしている。
別にいいじゃん。
梓が好きって言ってくれてるんだから、太ってようが、もちもちしてようが。
でも。
(俺……最近、何してる?)
朝、梓を見送る。
日向ぼっこして、テレビを見て、プリンを食う。
梓が帰ってきたら、一緒に飯を食って寝る。
翌日。
同上。
「…………」
(俺、ニートじゃん)
今さら、とんでもない事実に気づいてしまった。
「ぎゅう……(なんてこった……)」
「ん?どうしたの?」
「きゅう……(いや……)」
働いていない。
家事は多少するし、チャーハンだって作れる。
でも金は一円も稼いでいない。
家賃も、光熱費も、食費も、全部梓。
梓におんぶに抱っこで、そのうえ俺は太った。
「ぎゅううう……」
「え、どうしたの修也。急にしぼんでない?」
このままでいいのか。
いや、よくない。
金を稼ぐのは、今の俺には難しい。だったらせめて、身体くらいは引き締めよう。
梓に「もちもち」じゃなくて、「カッコいい」って言ってもらうんだ。
「ぎゅうっ!(よしっ!)」
「お?」
俺は勢いよく身体を起こした。
「きゅうっ!きゅうっ!(やるぞ!俺はやるぞ!)」
「なんかやる気出た?がんばれ〜」
◇◇◇
翌日。
「きゅあっ!きゅあっ!(せいっ!せいっ!)」
床に触手をつき、身体を上げては下ろす。
腕立て伏せだ。
◇
続いて腹筋。
身体を起こして、倒して、また起こす。
(腹、どこだ?)
分からない。
でも、効いてる気はする。
◇
さらに俺は、部屋の隅へ目を向けた。
そこには、人間だった頃に買ったものの、いつの間にか物置と化していたルームランナーがある。
かつては三日坊主の象徴だったこいつも、今の俺には立派な相棒だ。
(梓に、カッコいいと言わせる!)
ルームランナーへ乗り、スイッチを入れる。
「きゅあっ!きゅあっ!(せいっ!せいっ!)」
走る。
触手で。
「きゅあっ!きゅあっ!(せいっ!せいっ!)」
ひたすら走る。
「ぎゅあああああ!!(燃えろ俺の脂肪おおおお!!)」
そもそも脂肪なのか分からない。
でも燃やす。
目指せ、脱・もちもち。
目指せ、マッスル修也。
こうして俺の、孤独な戦いが始まった。
◇◇◇
それから数日。
俺は毎日、筋トレに励んだ。
梓を見送ったら腕立て伏せ。腹筋。休憩を挟んでルームランナー。
「きゅっ!きゅっ!(せいっ!せいっ!)」
最初こそ少し動いただけで疲れていたが、続けているうちに段々と身体が慣れてきた。
そうして今日もいつものメニューを終え、俺は自分の身体を眺める。
触手に力を入れてみる。
むきっ。
「…………!」
(なんか、引き締まってない!?)
気のせいかもしれない。
いや。
(これは絶対、引き締まってる!)
なんとなく触手にもハリがある。
身体だって、前ほどもちもちしていない……ような気がする。
「きゅう〜!(いいぞ俺!)」
この調子なら、梓に「カッコいい」と言われる日も近い。
となれば。
俺はルームランナーを見る。
(今日は、もうちょっといけるんじゃね?)
いつもより少し速度を上げてみる。
「きゅっ!きゅっ!(せいっ!せいっ!)」
(いける。これはいけるぞ!)
さらに上げる。
「きゅあっ!きゅあっ!(せいっ!せいっ!)」
まだいける。
(俺、めちゃくちゃ成長してる!)
さらに。
ぽち。
さらに。
ぽち。
「きゅあああああ!!(うおおおおお!!)」
触手をものすごい勢いで動かす。
(速い!)
でも、いける!
(俺は今、風になってる!!)
「きゅああああ──」
そのとき。
触手の一本が、別の触手に絡まった。
「きゅ?」
次の瞬間。
「ぎゅあっ!?」
ぐるん、と身体がひっくり返った。
まずい。
そう思ったときには、もう遅い。
高速で回り続けるベルトが、俺の身体を容赦なく後ろへ運んでいく。
「ぎゅあああああああ!?」
バシュッ!!
射出。
ドンッ!!!
「ぎゅっ!!」
壁に叩きつけられ、そのままずるずると床へ落ちた。
「…………」
静かになった部屋で、ルームランナーだけが元気よく回り続けている。
「…………きゅう(……痛い)」
もうだめだ。
身体も痛い。
心も痛い。
俺は床に、べちゃりと広がった。
「……きゅう(……つら)」
何やってんだろ、俺。
そもそも身体を鍛えたところで、なんだっていうんだ。
見せる相手なんて梓しかいない。
梓だって、もちもちしてる俺を好きだって言ってたじゃん。
(……太ってるくらい、別にいいじゃん)
うん、もちもち上等。
むしろ柔らかい方がいい。
梓は俺にもたれて本を読むのが好きだし。
(いいクッションになるじゃん……)
そうだよ。太ったんじゃない。
クッション性が向上しただけだ。
「きゅきゅう……(もう、やめよ……。俺は梓の高品質クッション)」
そうして、筋トレ道具を片付けようとした、その時。
「そこで、諦めるの?」
聞き慣れた声がした。
「きゅ?(梓?)」
顔を上げる。
「…………」
サングラスをかけ、片手にはメガホン。
いつ帰ってきたのか、梓が仁王立ちしていた。
「……きゅう?(……何してんの?)」
梓は俺の問いには答えず、サングラスをくいっと上げる。
「よく考えてみて、修也」
「きゅう……(何かはじまったな……)」
「将来、私たちに子供ができたとき」
(こ、……子供ぉ?)
「そんなみっともない姿でいいと思ってるの?」
(そもそも俺たちには無理だろ)
「イメージして」
メガホンが俺へ向けられた。
「可愛い女の子」
(女の子)
「中学生」
(中学生)
「そして、思春期」
「…………!」
俺の脳内に。
まだ見ぬ娘の姿が、ゆっくりと浮かび上がった。
浮かんだのは、梓に似た可愛い女の子だった。
長い髪に制服姿。学校から帰ってくる。
(……可愛い)
俺と梓の娘なんだから、そりゃ可愛いに決まってる。
いや、待て。
(人の形……してるか?)
俺を見る。人ならざるナニカ。
梓を見る。人間。
(どっちだ?)
分からない。
なら。
(両方で考えよう)
まず、人間バージョン。
学校から帰ってきた娘に、俺が近づく。
その肩へ、ぽん、と手を置いて。
『おかえり』
娘が振り返る。
「ちょっと、みっともないんだから触らないでよ」
「…………」
ぐさっ。
(いやいやいや)
今のは人間バージョンだ。
実際ありえるのは次。
ナニカバージョン。
「きゅう〜」
触手を揺らしながら、可愛い娘が帰ってくる。
(……可愛い)
目は二つ。
触手いっぱい。
ぐにゃぐにゃ。
でも可愛い。
俺の娘だから。
そんな娘へ近づき、触手で肩らしき部分をぽんと叩く。
「きゅう(おかえり)」
娘が振り返った。
「きゅう(うわ、キモ)」
「…………」
ぐさっ。
……嫌だ。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!)
「ぎゅぎゅう〜〜〜!!!!(いやだ〜〜〜!!!!娘に嫌われたくないぃぃぃ!!)」
床の上でのたうち回る。
「そうなりたくないでしょ!」
「ぎゅうっ!!(なりたくない!!)」
梓がメガホンを高々と掲げる。
「だったら!!」
「ぎゅうっ!!(俺、頑張るよ!!)」
俺は勢いよく身体を起こした。
「ぎゅうううう〜〜!!(俺は娘にカッコいいって言われる父親になるんだあああ!!)」
「その意気だよ、修也!」
「ぎゅうっ!!(梓!!)」
「修也!!」
俺たちは見つめ合った。
「…………」
「…………」
ところで。
(なんで梓、俺が想像してること分かったんだ?)
時々思ってることが通じすぎて怖い時がある。
「ほら!休んでる暇ないよ!スクワット百回!」
「ぎゅあっ!?(百回!?)」
「いーち!」
「きゅあっ!(せいっ!)」
「にーい!」
「きゅあっ!(せいっ!)」
「声が小さい!」
「ぎゅあああ!!(せえええい!!)」
こうして。
俺の筋トレ第二ラウンドが始まった。
◇◇◇
それからというもの、俺は鍛えに鍛えた。
腕立て伏せ。
──腕はない。
腹筋。
──腹がどこかは、いまだに分からない。
スクワット。
──脚もない。
「きゅあっ!きゅあっ!(せいっ!せいっ!)」
「いいよ修也!あと五十回!」
「ぎゅううう!!(おおおお!!)」
ルームランナーも走った。
今度は調子に乗って速度を上げない。
俺は学習する男だ。
「もっと速く!」
「ぎゅう!?(鬼!!)」
鬼コーチが許してくれなかった。
それでも走った。
来る日も来る日も。
雨の日も。
──いつも家の中だから関係ないが。
そして、ある朝。
「…………ん?」
目を覚まし、身体を起こす。
何かがおかしい。
視界が高い。
「…………」
自分の身体を見る。
腕がある。
脚もある。
腹なんて、しっかり割れている。
「…………?」
慌てて鏡の前へ向かった。
そこに映っていたのは、鍛え上げられた肉体を持つ一人の男。
人間だった頃の、俺だった。
戻った。
人間に戻った。
「きゅう〜〜〜〜!!!!(よっしゃ〜〜〜〜!!!!)」
声以外。
「…………きゅう(…………きゅう)」
鏡の中の俺が、絶望した。
「修也〜?」
「きゅっ!?」
振り返ると、寝室から出てきた梓が眠そうに目を擦っていた。
「さっきから鏡の前で突っ立って、どうしたの?」
(……どうしたって)
俺は自分の身体を見る。
どこからどう見ても人間だ。
「……きゅう?(……何も思わない?)」
「ん?何が?」
梓はいつも通りだった。
(……まあ、ナニカになっても、梓にはずっと俺は俺に見えてたしな)
それより問題は。
「きゅう」
声。
人間に戻ったのに、これだけは変わっていない。
いや待てよ。
(声帯って……筋肉だよな?)
「…………!」
そうか、筋肉だ。
筋肉を鍛えて、人間に戻った。
だったら声帯も鍛えれば、声だって戻るんじゃないか?
(いける!)
俺はもう知っている。
筋肉の可能性を。
◇◇◇
それから、声帯も鍛えることにした。
朝起きて。
「きゅう」
駄目。
◇
腹から声を出して。
「きゅああああ!!」
駄目。
◇
風呂場なら声も出やすいんじゃないかと思って。
「きゅう〜〜〜♪」
駄目。
◇
発声練習もした。
腹式呼吸も調べた。
毎日、今日は出るか、今度こそ出るかと試してみた。
けれど。
「きゅう」
何日経っても、きゅう。
「ぎゅううううう!!」
どれだけ頑張っても、ぎゅう。
出せるのは、き、ぎ、ゆ、う、あ。
怪物だった頃から何も増えていない。
「ぎゅああ!!(声帯は無理なんかい!!)」
がくりと膝をついた。
(まあ、運動してた時から声は出してたし、何となく分かってたけど……)
筋肉ならって、期待してた。
でも、筋肉にもできないことがある。
その事実に筋肉への信仰が揺らいだ。
「…………っ」
「きゅ?」
顔を上げる。
梓が口元を押さえ、肩を震わせていた。
「ふっ……ふふ……あはははは!」
「きゅう!?(何!?)」
「あはは!だって……人には戻れたのに、声は『きゅう』のままとか……!」
「…………きゅ?(……ん?)」
今。なんて?
「…………きゅぎゅう?(……人に、戻れた?)」
「あ」
「…………」
「…………」
「ぎゅうううう!?(は!?え!?気づいてたの!?)」
梓の両肩を掴む。
「わっ」
「ぎゅう!ぎゅううう!!(いつから!?いつから気づいてた!?)」
がくがく揺さぶる。
「ちょ、修也、揺らさないで!あはは!」
「ぎゅあああ!!(笑ってんじゃねえ!!)」
「あははは!ごめん、ごめんって!」
「ぎゅううう!!(説明しろおおお!!)」
「あ〜、やば……」
ようやく解放すると、梓はふらふらしながら頭を押さえた。
「ほ、ほら、あれだよ」
「ぎゅう!?(どれだよ!?)」
「運動すると健康にいいっていうでしょ?」
「…………」
「そういう、アレ」
「ぎゅううううう!!(どういうアレだよ!!)」
「まあまあ。人に戻れたんだから良かったじゃん」
「ぎゅう!(声!!)」
「それは残念だったね〜」
「ぎゅううう……(他人事だと思って……)」
「でもさ」
「きゅう?」
「喋れないだけでしょ?」
「…………」
梓が俺の手を取った。
「今なら普通に外、歩けるんじゃない?」
「…………!」
言われて、自分の身体を見る。
(……確かに)
声は出ない。
でも。
外を歩ける。
店にも入れる。旅行だって行ける。仕事だって探せるかもしれない。
何より、また梓と並んで外を歩ける。
声が出なくても、今までだってなんとなく……いや、梓とは怖すぎるほど意思疎通できていた。
細かいことならスマホを使えばいいし、筆談や手話など他の手段も取れる。
(なんだ、いけるじゃん)
「きゅう!(いける!)」
「お、元気になった」
「きゅきゅう!(外出られるじゃん!)」
「うんうん」
「きゅう!(梓と出かけられる!)」
「そうだね〜」
梓が笑う。俺も笑う。
そのちょっとした当たり前が嬉しい。
(筋肉って、すげぇな)
さっき一瞬でも疑って、ごめんな。
信仰が戻った。
◇◇◇
それから、俺たちの生活は“ナニカ”になる前に、少しずつ戻っていった。
仕事も、声を使わずにできる在宅の仕事を見つけた。
これで、めでたくニート生活からも脱出だ。
当たり前のように買い物へ行って、散歩して。
くだらないことで、梓と笑い合って。
(ああ、楽しいな)
そんな日々を過ごしていた。
◇◇◇
──ちなみに。
人間に戻ってから数日後。
「修也〜。今日、戻ってるよ」
「きゅう?」
自分の身体を見る。
触手。
ぐにゃぐにゃ。
いつものナニカ。
「ぎゅあああああ!?(なんでええええええ!?)」
どうやら、たまに元の姿へ戻るらしい。
「今日のお出かけ、どうする?」
「きゅう……(筋トレする……)」
「そっか〜」
まだ。
筋肉が足りない。




