9話 逃亡
「殿下!」
「王子!」
アメリは咄嗟に肘で目の前を覆う。
一気に光がなだれ込み、唐突にロイとリアムの怒声が廊下に響き渡った。
「やつだ!」
マクシミリアンが叫ぶ。
アメリは目を細めたまま、彼を見た。
壁に無造作にたたきつけられたせいで、額から血を流している。眩暈もするのか、足がふらついていた。
それでも、右手の鉤爪を振り上げ、屍鬼に一撃を加えようと態勢を整えている。
「母上を屍鬼にしたやつだ!」
抜剣をしたロイがアメリのすぐわきを疾風のように駆ける。それに続いたのは、警棒を構えたリアムだった。
ふわり、と。
足元をなにかが触れる。「なになになに!」。悲鳴を上げて身体を竦ませたが、ネモがゆるゆると尾を振りながらアメリを見上げていた。
「逃がすな!」
マクシミリアンの怒声に、反射的にアメリは振り返る。
屍鬼は、呻きながら廊下のカーテンを握りしめた。そのまま、一気に開く。
昼間の陽光に屋内が晒されたが、屍鬼は眩しがりもしなければ、伝説のように灰にもならなかった。
ただ、ぎらぎらした瞳でアメリとマクシミリアンを睨みつけて来る。
「覚えてろよ」
言うなり、スカートの裾を蹴散らし、窓に足をかける。
ロイが大股に一歩踏み込み、大上段に剣を振り上げる。
「またな、くそがき」
屍鬼は言うなり、ばさり、とその背中に真っ黒な皮膜に覆われた翼を広げ、外へと飛び出していった。
「ネモに追わせろ!」
マクシミリアンが怒鳴る。側に待機していたリアムは困惑顔でそんな主を見上げた。
「無理だよ。空に行ってしまえば……」
「くそっ! 追え、ロイ! 馬を出せ!」
額から流れ続ける血が目に入ったらしい、左手で雑にこすり、頭を振って血を飛ばそうとしてたたらを踏む。
「王子……っ」
慌ててリアムが抱きしめて支え、ロイに大きな瞳を向けた。どうしよう、と泣きだしそうに顔をくしゃくしゃにする。
「殿下、無理です。それより……」
ロイが長剣を鞘におさめて近づく。リアムがそっと場所を譲った。ロイがマクシミリアンの肩を支えようとしたが、毛を逆立てた猫のように唸る。
「追え! あいつなんだ!」
顔半分を血に濡らしながらマクシミリアンは吼えた。
「あいつだ!」
顎から滴る血が服や血を汚していた。ロイはそんなマクシミリアンを見下ろし、きっぱりと首を横に振る。
「無理です。それより先に治療を」
「黙れ!」
言うなり、マクシミリアンは腕を振る。右手に鉤爪をつけているせいで、咄嗟にロイもリアムも距離を取った。その隙に、フロアに向かって走り出す。
「王子!」
リアムが手を伸ばすが届かない。
気づけばアメリは飛び出し、マクシミリアンの腰に抱き着いた。
「だめです、だめです、だめです、だめです!」
きつく目を閉じたまま、夢中でそう言い続けた。
この王子はあの屍鬼を。化け物を追いかけようとしている。あんなもの、太刀打ちできるわけがない。殺されてしまう。
「離せ、この莫迦!!」
「莫迦な私に発言権がないのは分かっています! でも、ロイさんも、リアムくんも、だめって言ってるんです! 大切な人の言うことはちゃんと聞いて!」
必死にしがみつき、声を放つ。
腰に取りすがった当初は、ずるずると引きずられたというのに、気づけば動きは止まっている。ふすふすふす、と鼻息と柔らかな獣毛の感覚におそるおそる目を開けると、ネモだ。膝立ちになってマクシミリアンにしがみつくアメリとは目の高さが一緒になっていた。
つい、とネモの鼻先が上を向く。
つられてアメリもマクシミリアンを見上げた。
ぽつり、と。
頬になにか当たるとおもったら、マクシミリアンの顎から伝って落ちた血だ。
「お、王子……。血が……っ」
「あ?」
喉から素っ頓狂な声が出たが、マクシミリアンは不機嫌そうに唸り、顎を左手の甲で拭った。
顔どころか、その手の甲さえ深紅に染まる。
「ロイ」
首をねじり、マクシミリアンが自分の護衛官の名前を呼んだ。
「なんか……。お前の顔が、だぶる」
言うなり、いきなり膝から崩れ落ちた。
「にゃああ!」
腰を捕らえていたアメリごと床に倒れ込んできた。
「王子! 重い!」
押し倒された、というより、押しつぶされたアメリが、なんとか彼の下から這い出そうともがくが、仰向けの体勢から動けない。
「ああもう、言わんこっちゃない」
慌てて駆け寄るロイに、アメリは必死に手を伸ばした。




