7話 西館1階にいるもの
屍鬼化した女主人から隠れ続けていたのかもしれない。今、自分たちが屋敷内に入ってきたことで、彼女は救いを求めているのかもしれない。
「アメリ?」
遠くからマクシミリアンらしい声が追って来る。
「メイドがいるかもしれません!」
アメリは大声で応じ、足早に階段を降りる。背中で鞄が揺れた。片腕を抜き、胸の前に回す。中に手を突っ込んで、試験管を一本ぬきだしてポケットに忍ばせた。ついでに、革手帳を取り出す。
「誰かいますか?」
アメリはフロアに立ち、首を巡らせ、革手帳を開いた。盾をモチーフにした銀色のバッチを周囲にかざす。
「教会支援部屍鬼対策課アメリ・パルツァーです。浄化師とともにやってきました。誰かいますか?」
「浄化師……?」
微かな声が西側から聞こえる。
かつり、と。
床をヒールが打つ音がした。
アメリはバッチを上着のポケットにしまい、身体ごと向き直る。
「そうです。あなたは?」
問いながら、不思議だ、とアメリは頭のどこかで感じた。
西側の建物。
カーテンがひかれているとはいえ。
どうして。
あんなに闇がとどまっているのだろう。
廊下も壁も朧だ。いや、形が崩れかかっているほど、見えない。
そこに。
くっきりと。
まるで月光を差し込まれたように、白い腕が現れた。
「お願い……。動けないの……」
女の声がした。
白い手が震えながらアメリの方に伸びる。
「アメリ!」
階上でマクシミリアンが怒鳴る声が聞こえた。
「メイドです!」
振り返り、アメリは白い手を指さした。マクシミリアンは、すでに階段を半ばまで駆け下りている。
「お願い……。助けて……」
泣き出す寸前のような声が、闇から漏れ出て来る。
アメリは足を振り出した。
「待て! アメリ!」
「殿下! お待ちを!」
マクシミリアンとロイの声が追って来る。だが、アメリの心は急いていた。助けなくては。動けないらしい。早くあの暗がりから引っ張り出してやらなければ。それしか頭になかった。
アメリは西棟に飛び込む。
どろり、と。
闇が質感を伴って肩や首、背中にまとわりつく。
反射的にアメリは周囲を見回した。
きつく閉ざされたカーテン。伸びた最奥が闇にとろけだしている廊下。いくつも並ぶのは、リネン室と食器保管庫だろうか。そういえば、使用人部屋もあったはずだ。
「どこに……」
いますか、と言いかけた語尾に、涙に濡れた声がかぶさる。
「ここよ。動けないの。お願い……」
廊下の奥の方から。
ずるり、と。
濃い闇が盛り上がり、伸びる。
べちゃり、と。
なにかが。
床に臥せった。
ずるり、と。
それでも、廊下を這って伸びる。
なにかが。
「足が……」
その後は泣き声に変わった。足を怪我して動けない、ということなのだろう。アメリは闇に向かって、一歩踏み出す。
だが、いきなり腕を掴まれ、悲鳴を上げた。
「こんの、莫迦がっ!」
ぐい、と引き寄せられ、鼻先で怒鳴りつけられる。「ひぃ」と腰から砕けるのに、床に座ることすら許されない。尻から膝をずるずると床にこすりつけながらも、マクシミリアンがアメリの腕を強引に引っ張った。
「痛い! 王子、痛い!」
「莫迦に発言権はない!」
涙目になって見上げたのに、噛みつかれんばかりに怒鳴り返された。
「ち、違うんですっ! 奥にメイドが……っ。動けないって」
アメリが廊下の奥を指さす。
マクシミリアンのサファイアの瞳が移動した。
もぞり、と。
廊下の床から闇が盛り上がる。
のたり、と。
それは立ち上がった。
ち、とマクシミリアンは舌打ちする。
「めんどくせぇ!」
腰をかがめたかと思うと、強引にアメリを横抱きに持ち上げた。そのまま、走り出そうとしたのだが。
「殿下!」
ロイの声が随分遠くから聞こえる。
え、とアメリが顔を向けると同時に、いくつもの黒い塊が西館の奥から飛んできた。
「ロイ! 避けろ!」
言うなり、マクシミリアンもアメリごと壁際に身体を振った。
黒い塊は、まるでそこに透明な壁があるかのごとく、ロビーと西館の境で潰れ、液体のように空中に流れ出たかと思うと、そのまま緞帳のように閉じた。
「……え」
薄闇に閉ざされた廊下を、アメリは見回す。不意に内臓が浮く感じがしたが、すぐに腰をしたたかに打ち付ける。どうやら、横抱きにされていたのに、マクシミリアンに放り出されたらしい。
いたたた、と這いながらロビーに向かうが、ごつん、と頭頂部を何かにぶつけた。
え、と意味もなく呟き、手を前方に伸ばす。
本来であれば、空を掻くはずなのに。手は、ぺたりとなにかに当たった。行き止まりだ。
ロビーと西館を遮る闇色の壁がそこにはあった。




