31話 分岐点
グリム・ノクシアスが竜の力を取り戻すまでの時間は、ダンジョンを滴る雫の落下を待たなかった。
現実では一秒と経過していないが、凝縮された時間にしておよそひと月。
グリムにとって一瞬とも思える時間だったが、人間の体でこの修練を耐える苦痛は想像を絶するものだった。
遺物の魔力を体内に取り込み、自分のものにするべく己の魔力と融和させる修練。
竜人であれば時間はかかったとしても痛みはない。よほど不器用でなければ大抵は竜人の魔法を習得することができる。
当然、スミレの体は拒絶反応を示した。
だからグリムはリネリットに助けを求めた。
苦痛を度外視してでも最短効率で竜の力を得る為の助力を。
リネリットに遺物から取り込む魔力操作の補助を頼み、グリム自身は拒絶反応の痛みを堪えながら流れてくる魔力を全身に馴染ませる。
誰かに頼るというのは、グリムにとって生涯初めてのことだったのかもしれない。
「今度は加減しませんからね」
覚悟を持って答えたリネリットに対して、グリムは少し心を開くことができた気がしていた。
そうして――竜の力の習得に成功した。
「……さすがに俺には及ばないな」
それが最初の感想だった。
全盛期の力を知っているからこそ感動が少ない。それでも確かな手応えはあった。
「竜人の連中と肩を並べられるくらいにはなったか」
グリムが意識を集中させると、魔女の姿が変質した。
肌の一部から菫色の鱗が生え、瞳は研ぎ澄まされた竜のように縦細く収縮する。
試しに腕を振ると、音速で振り抜いた先で空気が弾ける音がした。肉体はとうに人間の限界を越えていた。
「……大丈夫ですか? 凄い汗でしたけど」
リネリットが不安そうにグリムの前で浮遊する。
修練の最中、グリムがかなり苦しそうな様子だったから心配なのだろう。
グリムは手を握ったり開いたりを繰り返して頷いた。
「問題ない、これで最初の目的は果たした。リネリットのお陰だ。ありがとう」
目を大きくしたリネリットが恥ずかしげに飛び回った。
「と、当然です! グリム様の側近ですから!」
胸を張って照れ隠しをする小さな妖精にニヤリと笑うと、グリムは改めて人間の脆さとスミレの努力を再認識した。
「こうして考えると、スミレの奴は俺を殺すために、これとは比にならない地獄を見たんだろうな」
「悪魔族の呪法を使うほどですからね」
「いや、それ以前の――もっと根源的な力だ。……恐らくだが、悪魔族の呪法は努力の成果じゃない」
前世での戦いを思い出す。
グリムが持つ魔障壁の加護を圧倒するほどの魔術の猛攻。無数に思える魔術は、どれを取っても高難度なものだった。
「あいつの魔術は俺に迫るほどの練度に仕上がっていた。自力でその領域まで上り詰めたんだろう……たった二十年で」
グリム自身あまり気にしていなかったが、スミレは確かに黒薔薇の魔女のバッジを身に着けていた。
「クラリスが黒薔薇の魔女候補と聞いて納得したよ。人間にしては大した力だったからな。前世ではスミレが黒薔薇の魔女になったようだが、俺を追い詰めるほどならその称号を持っていても不思議じゃない」
「確かに、クラリスという魔女は贔屓目に見ても優秀でしたね。どうして黒薔薇の魔女になれなかったのでしょうか」
「これも予想だが――殺されたんだろう」
近い未来か、もしくは――この場で。
ジェイトリック・ラスターワンド。
魔人の凶悪な魔力と強者の匂いを巧みに隠し、クラリス・ベルノワールの側近として人間社会に潜り込んだ男。
クラリスを殺したとするなら、あの魔人に違いない。
その手でクラリスを殺し、また数年後には魔女の里を後にし、クレアの国に魔獣をけしかけ――クレアを殺そうとした。
そしてその未来では、竜人の王子が居たからクレアが死ぬことはなかった。
「ここが分かれ道なのかもしれない」
グリムは自身でも驚くほど感じたことのない怒りに気づいた。
「俺はこれからできることを全てやるつもりだ。まずはあの魔人を潰す。竜人としての俺と知り合っていない以上、クレアがあの魔人に殺される未来は消えるはずだ」
「それでいいのですか?」
竜族の妖精は意外そうにした。
グリムが自分の欲しいものを諦めると言っていることに他ならないからだ。
かつての傲岸不遜で自分勝手な王子の発言とは到底思えなかったのだろう。
グリムは伏し目がちに答えた。
「例え俺がクレアと添い遂げたとしても、肝心の俺が変わらなければ同じ未来を繰り返すだけだ」
グリムも自分の全てが原因だとはもちろん思っていない。
ただ、クレアが死ぬ原因の一端に自分があるのだとすれば――そう考えてしまう。
「俺はクレアが好きだ。俺の女にできるならそうする。……ただそれ以前に、自分本位でいるのはもうやめにする」
全てを諦めたように聞こえる言葉に少し寂しそうな目をしたリネリット。
グリムは側近のおでこ指で軽く小突いた。
「俺にはまだ早かったのかも知れないと思ってな。あいつに相応しい王子になった時、改めてクレアを迎えに行くさ」
すでにグリムは上を向いている。
ここからクレアのもとへ翔ぶつもりだ。
「行くぞ」
◆
クラリスは白いジャケットを自分の血で汚しながら、従者だった魔人に向けて聖なる矢を放った。
殺すつもりで発動した魔術ではない。
見知らぬ女が今まさに、魔人の手によって正体不明の水晶へ閉じ込められようとしていたからだった。
クラリスに言わせれば、あの黒髪の女が誰なのか知らないし、守ったところで戦力になり得るわけでもないことは分かっていた。
それでも体が動いたのは、『スミレが守ろうとしていた』からである。
あの気弱だった親友が自分の身を顧みずに助けようとした女だ。赤の他人であるはずがない。
そうであるならば、今助けられるのは自分しかいない。
死んだスミレがやりたかったことをしてやりたい。そう思った。
飛来した魔力の矢を容易く防いで見せたジェイトリックは、クラリスの狙い通り意識を黒髪の女からこちらへ変えた。
それが間違いだったことを思い知ることになる。
「あなたという人は……どこまでも癇に障る女だ」
瞬きをした直後、魔人は目の前にいて低い声でそう言った。
景色が切り替わったと錯覚するほどに、ジェイの動きは目で追える速度ではなかった。
はじめからこの魔人は本気ではなかったのだ。やろうと思えばいつでもクラリス達を殺せた。
ただ、なにかの実験でもしているように泳がされていただけだった。
気付くには遅すぎた。
魔人はブラッカにしてみせたように、クラリスの細い首を掴み上げる。空気の詰まる音が喉から絞り出された。
「あなたの側近を殺して入れ替わった時から思っていました。自意識過剰、傲慢、身勝手、浅薄、無神経――ああ、本当に」
まるで従者として付き添っていた頃の不平不満を手に込めるように、一言発するたびに首を締める力は強くなっていった。
「空っぽのガキが」
空っぽ。
そう言われて、満身創痍のクラリスは薄らいでいく思考で不服にも同意していた。
(私は何をしていたんだろう)
優等生と周りから一目置かれたのは、そうありたいと強く渇望したからだ。
魔人の洗脳呪法にそそのかされたとはいえ、意思の弱いクラリスは周りの魔女にひどいことをしてきたと思う。
もとはスミレと似たように、ベルノワール家の中では才能もなく見向きもされなかった。死ぬほどの努力をして、相応の力をつけた頃には身に余る欲求に溺れて散々友達を傷つけてきた。
――どんなに頑張っても満たされなかった。
そもそもこれが自分のやりたかったことだったのかさえ、今となっては分からない。
(……もう、終わってもいいかな)
クラリスの手から杖が滑り落ちた時。
「勝手に終わろうとするな。不愉快だ」
聞き慣れた乱暴な声が、魔人を挟んだすぐ向こうから聞こえた。
遅れて、死体の山にせき止められていたミミズの怪物ごと焼き払うように、炎の竜が空間を飛翔する。
『〝手を離せ〟』
ぞわりと、言いようのない悪寒がクラリスを支配した。
腕の力を無理やり抜かされた感覚に包まれる。
それは魔人も同じだった。
「――っ、げほっ」
急に首を絞められていた手が緩み、地面に尻を着く。
体が求めていた酸素を取り込みむせ返った。
(腕が上がらない――なんなの、これ)
「ん? ああ、悪い。クラリスにまで掛けるつもりはなかったんだが。竜言は制御が難しいんだ」
見上げると、魔人が両腕をだらんと垂らしながら声を震わせていた。
「なんだ……その力は?」
魔人の振り返ったすぐ後ろに、落ちて死んだと思っていたスミレが立っていた。
その両腕には、どうやったのか、水晶の牢から救い出した黒髪の女性が抱えられている。
明らかに魔人の様子が先ほどまでと違う。明確な脅威を目にした獲物の様相だった。
「おいクラリス。あそこの不良は大丈夫なんだろうな? 俺のペットでさえ怪我人は守っていたぞ」
「それはなんだと聞いているッ!」
得体の知れない力を前に、魔人は手加減をやめた。
吠えたジェイトリックの足元から闇が広がり、津波のようにスミレに襲いかかる。
一切逃げる素振りのないスミレは、真正面からソレを受け止めた。受け止めて――闇の津波が蒸発するように消えた。
「さすがに加護は使えないか。まあ、これは魔法で代用できるから良しとしよう」
不敵に笑ったスミレに、クラリスは瞠目した。
「スミレさん……なの?」




