序章:日常の終焉 – 迫りくる影
序章:日常の終焉 – 迫りくる影
その夜、藤沢市の空は、不気味なほど静かだった。いや、正確には、地上から絶え間なく聞こえてくるサイレンの音、人々の怒号や悲鳴、そして時折響くガラスの割れるような破壊音が、夜空の星々を飲み込んでいるかのようだった。
テレビの緊急速報は、状況の悪化を伝え続けていた。「藤沢市全域に避難指示が発令されました」「原因不明の暴徒化した市民が…」「警察、消防では対応しきれない状況です…自衛隊の出動を要請…」
しかし、その報道もやがて途切れがちになり、ついには全てのチャンネルが砂嵐へと変わった。インターネットも、極端に繋がりが悪くなっている。
村田沙耶は、施設の自室の窓から、赤く染まる街の一部を無表情で見つめていた。遠くで爆発音のようなものが聞こえる。他の子供たちや職員たちの悲鳴や混乱も、彼女の耳には届いている。だが、彼女は動かない。これは、かつて彼女が経験した「戦場」の始まりとよく似ていた。違うのは、ここが日本であるということ、そして、敵が誰なのか、まだ判然としないことだけだ。彼女は、自分の部屋に隠してあった、最低限のサバイバルキットと、護身用の小さなナイフを手に取った。それは、いつか来るかもしれない「その日」のために、彼女が密かに準備していたものだった。
工藤家では、奈々と母の恵美が、帰宅しない父・雄介を案じながら、リビングで肩を寄せ合っていた。窓の外の惨状に恵美は青ざめ、奈々は母の手を強く握りしめる。「パパ、きっと大丈夫よね…?」その問いに、恵美は力なく頷くことしかできなかった。
新井家では、恭二が父・義一と母・智子と共に、玄関にバリケードを築こうとしていた。義一は地域防災課で得た知識を活かし、冷静に指示を出すが、その額には脂汗が滲んでいる。「いいか、恭二。何があっても、母さんを頼むぞ」。父の言葉に、恭二は唇を噛み締めた。
遠藤家では、桜が一人、自室のクローゼットの奥で毛布にくるまり、ただただ震えていた。両親とは依然として連絡が取れない。遠くから聞こえる破壊音と人々の悲鳴が、彼女の恐怖を際限なく増幅させていく。
宮増家では、康二が自室のPCで、途絶えかけるネット回線から必死に情報を収集し、現状を分析しようとしていた。「これは…単なる暴動じゃない。生物学的な要因が…?まさか、あのネットの噂は…」。彼のディスプレイには、海外の掲示板で見つけた「活性化された死者」に関する、荒唐無稽としか思えなかった書き込みが映し出されていた。
平和な藤沢の日常は、この夜を境に、完全に終わりを告げた。
そして、長くて暗い、絶望と生存を賭けた戦いの日々が、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。