序章:最初の兆候と家族への連絡
序章:最初の兆候と家族への連絡
その日の放課後、藤沢駅周辺は不穏な空気に包まれていた。駅前の大型ビジョンが突如として砂嵐のような映像に切り替わり、すぐに復旧したものの、一部の通行人が奇声を上げながら走り出すといった小規模なパニックが散発的に発生していた。スマートフォンには「駅前で通り魔?」「集団食中毒か?」といった真偽不明の情報が錯綜し、サイレンの音が遠く近く、途切れることなく響いている。
学校からの帰り道、村田沙耶はその異常な雰囲気を敏感に感じ取っていた。普段よりも明らかに多い警察官の姿、足早に家路を急ぐ人々、そして時折すれ違う、焦点の定まらない虚ろな目をした人間。彼女の研ぎ澄まされた感覚は、これが単なる偶然や些細な事件ではないことを警告していた。しかし、彼女は表情を変えることなく、ただ最短ルートで施設へと向かう。誰かに連絡を取るという発想は、今の彼女にはなかった。自分一人が生き延びるために必要なのは、他者との連携ではなく、状況の正確な把握と迅速な判断だけだと、これまでの経験が教えていた。
同じ頃、工藤奈々は友人たちと別れ、やや早足で自宅へと向かっていた。駅前の騒ぎは彼女の耳にも入っており、胸騒ぎが抑えられない。「パパ、病院大変なのかな…ママは公民館、もう終わってる時間だけど…」スマートフォンを取り出し、震える指で母親の恵美に電話をかける。数回のコールの後、ようやく繋がった母の声は、どこか切迫しているように聞こえた。
「奈々?今どこ?駅前が少し騒がしいみたいだから、まっすぐ帰っていらっしゃい。私もすぐ帰るから」
「うん、わかった。ママも気をつけてね」
短い会話を終え、奈々は少しだけ安堵したが、胸のざわめきは消えなかった。
新井恭二は、部活のミーティングを終え、加藤正人と共に昇降口を出たところで異変に気づいた。いつもより生徒たちの下校が早く、誰もが不安げな表情でスマートフォンを覗き込んでいる。
「なんだか、様子がおかしいな…」
恭二が呟くと、正人も黙って頷く。恭二はすぐに父親の義一に電話をかけた。
「父さん?今、学校終わったんだけど、駅前がなんか騒がしいって…」
「ああ、恭二か。市役所も今、その対応でバタバタしてる。詳しいことはまだ分からんが、どうもただ事じゃないかもしれん。今日は寄り道しないで、まっすぐ家に帰れ。母さんにも連絡しておくから」
父の緊張した声に、恭二は事態の深刻さを悟った。
遠藤桜は、その日、体調が優れず学校を休んでいた。自室のベッドでぼんやりとテレビを見ていると、突然、画面が緊急ニュースに切り替わった。「藤沢市内の一部地域で、原因不明の混乱が発生。住民の皆様は、不要不急の外出を控え、屋内に退避してください」。アナウンサーの強張った声が、不安を煽る。慌てて両親の部屋へ向かうが、二人はまだ仕事から帰宅していなかった。携帯電話で母親の麻衣に何度も電話をかけるが、繋がらない。言い知れぬ恐怖が、桜の心を支配し始めた。
宮増康二は、自室で例の「未確認異常事態Xファイル」と名付けたフォルダの情報を整理し、世界各地で散発する同様の異常現象の共通点を分析していた。そこに、日本の、しかも自分の住む藤沢市の異常事態を伝えるネットニュースが飛び込んできた。
「まさか…こんなに早く、日本で…?しかも、この規模は…」
彼の顔から血の気が引いた。これはもはや、遠い国のゴシップではない。現実の脅威が、すぐそこまで迫っている。彼は震える手で、SFCに通う物理学教授の父・健吾に連絡を取ろうとしたが、何度かけても繋がらなかった。