序章:沙耶と佐藤恵子院長の夕食
序章:沙耶と佐藤恵子院長の夕食
村田沙耶が寝食を共にしているのは、藤沢市のはずれにある小さな児童養護施設だった。数年前、海外から保護された彼女の身元引受先として、児童相談所を通じて紹介された場所だ。院長の佐藤恵子は、初老の温和な女性で、沙耶の複雑な過去を詮索することなく、他の子供たちと同じように、しかし常に一歩引いた場所から静かに彼女を見守っていた。
その日の夕食は、子供たちの賑やかな声が響く食堂の片隅で、沙耶は恵子と二人きりで向かい合っていた。他の子供たちが沙耶の纏う独特の雰囲気にどこか怯え、近寄ろうとしないのを恵子は知っていた。そして、沙耶自身もそれを望んでいるかのように、常に輪から外れた場所にいた。
「沙耶さん、今日の学校はどうでしたか?何か変わったことは?」
恵子の穏やかな問いかけに、沙耶は箸を動かす手を止めず、小さく首を横に振る。「別に」という、いつもの短い返事。彼女の端正な顔立ちは、その感情の乏しさと相まって、まるで精巧な人形のようにも見え、恵子は時折、その瞳の奥に広がる深い闇に胸を痛めることがあった。
「そう…ならいいのだけれど。最近、少し物騒なニュースが多いから、気をつけて帰ってくるのですよ」
恵子は、野菜の煮物を沙耶の皿にそっと取り分ける。沙耶はそれに対して何の反応も示さないが、拒絶することもなく、黙って箸をつけた。
この施設での生活は、沙耶にとって「戦場」ではなかったが、かといって「安住の地」でもなかった。ただ、恵子の向ける無償の優しさだけが、彼女の凍てついた心の表面を、ほんの僅かに温める陽だまりのように感じられることもあった。食事を終え、食器を下げようと立ち上がった沙耶の背中に、恵子はいつものように「無理はしないでね」と声をかけた。沙耶は振り返らず、小さく頷いた。