第三章:要塞の揺りかご [第三十二話] 泥中の咆哮
市役所の裏手、かつては職員や市民の車両で埋まっていた駐車場は、
今やひび割れたアスファルトが剥き出しの「練兵場」と化していた。
海から吹き抜ける湿った風が、要塞のコンクリート壁に遮られて淀み、
重油の臭いと砂埃が混じり合った独特の重苦しさが辺りを支配している。
「……九十八、……九十九、……百ッ!」
恭二が最後の一回を絞り出すようにして腕を伸ばしきると、その場に崩れ落ちた。
額から流れる汗が地面の砂を吸い込み、どす黒い模様を作る。
隣では正人も、荒い呼吸を繰り返しながら、震える腕で己の身体を支えていた。
彼らの目の前に立つのは、一等陸曹・山口剛だ。
彼は磨き抜かれた軍靴の先で、恭二が吐き出した汗の跡を無造作に踏み潰し、低く、濁った声で吐き捨てた。
「立て。まだ終わりではないぞ。
……この程度で音を上げるなら、今すぐあの湿ったロビーに戻って、女子供に混じって震えていろ。
そこなら、竹本のような連中が喜んでお前たちの『居場所』を奪ってくれるだろうよ」
山口の言葉は、鞭のように鋭く彼らの自尊心を打った。
山口自身、この市役所内にはびこる「平時の皮を被った醜悪な人間関係」に吐き気を催していた。
行政側は権力維持に汲々とし、避難民のリーダーを気取る竹本たちは、
自衛隊の威を借りて私腹を肥やそうとする。
規律を重んじる一軍人にとって、この場所は外の地獄よりも救いようのない汚泥に見えていた。
「……あんな奴らと一緒にしないでくれ」
恭二が、泥にまみれた膝を突き立てて立ち上がった。
視界は疲労で白く霞んでいるが、その奥にある瞳だけは、濁った夕闇の中でも鋭い光を放っている。
「俺たちは、守られるだけの荷物じゃない。……沙耶一人に、全部を背負わせるわけにはいかないんだ」
その言葉を聞いた山口の眉が、僅かに動いた。
山口は、二階の回廊からこちらの様子を伺う黒田一尉の視線に気づいていた。
黒田のような冷徹なエリートは、沙耶という「異常な戦力」を組織のパーツとして
利用することしか考えていない。
そして竹本のような俗物は、自分たちの利益を脅かす「異物」として彼女らを排斥しようとする。
この閉鎖された要塞の中で、純粋に「強くなりたい」と願うこの少年たちの咆哮だけが、
山口にとって唯一、まともな人間の声に聞こえた。
「……いいだろう。なら、その覚悟を形に見せろ」
山口は腰のホルスターから、重厚な金属音を立てて九ミリ拳銃を抜き放った。
もちろん弾は入っていないが、その銃口が突きつけられた瞬間、恭二の背筋を冷たい悪寒が走り抜ける。
「戦場では、敵は正面からだけ来るとは限らん。隣で笑っている者が、次の瞬間には背中を刺してくる。
……今の市役所は、まさにその縮図だ。工藤や遠藤を守りたいなら、まずお前たちが、その『意地汚い大人たち』の策謀を力でねじ伏せるだけの牙を持て」
駐車場の一角、影の中に佇んでいた小林先生が、教え子たちの奮闘を静かに見守っていた。
彼は、恭二と正人の動きが、この短期間で驚くほど研ぎ澄まされてきたことを確信していた。
かつての教え子たちが、泥を啜りながら「守るための暴力」を学び取っていく姿。
それは教師として胸が締め付けられる光景でもあったが、
同時に、この狂った世界で彼らが生き延びるための、唯一の通過儀礼であることも理解していた。
「……よし、休憩は終わりだ。次は実技だ。新井、加藤。
俺をレヴァナントだと思って、本気で殺しに来い」
山口が構えを取る。
恭二と正人は顔を見合わせ、言葉を交わすことなく同時に地を蹴った。
夕闇が市役所を包み込み、要塞の各所で「欲望」と「悪意」の火が灯り始める中、練兵場に響く少年たちの咆哮だけが、鋼のような意志を帯びて夜空へと溶けていった。




