第三章:要塞の揺りかご [第二十九話] 希望の風船
藤沢市役所、地下一階市民ロビー。
薄暗い天井、コンクリートの床を埋め尽くす段ボールとビニールシートの群れ。
数千人の生存者が放つ熱気と、鼻を突く消毒液の臭いが澱のように溜まっている。
山口曹長から割り当てられた壁際の僅かなスペースで、一行は泥のように眠り続けていた。
学校、ルミナリエ、そして湘南大学での激闘。限界を超えていた心身が、
要塞の静寂の中でようやく休息を得ていた。
沙耶だけは、眠っていなかった。
彼女は薄い毛布の上に座り、壁に背を預けた姿勢のまま、静かに目を閉じていた。
意識は覚醒と睡眠の境界線を漂いながらも、周囲の足音や話し声、
異変の兆候を敏感に察知し続けている。
膝の間には、奈々から預かった『A.L.』の資料が入ったリュックが置かれていた。
「……あ」
ふいに、幼い声が鼓膜を叩いた。
沙耶がゆっくりと目を開けると、
段ボールの囲いの隙間から、一人の少女が覗き込んでいた。
昨夜、山口曹長に連れられて亜希子のデスクへ行った際、傍らで眠っていた少女――栞だった。
栞は、沙耶と目が合っても怖がる様子はなく、むしろ好奇心に満ちた大きな瞳でじっと見つめていた。その瞳は、亡き父・田辺巡査長の面影を強く残している。
「……何か」
沙耶の声は短く、感情の起伏がない。
「おねえちゃん、パパのおともだち?」
栞は段ボールの隙間から這い入ってくると、沙耶の目の前で膝をついた。
彼女の手には、色褪せた赤い風船の紐が握られていた。
「……友達では、ない」
沙耶は正直に答えた。「一度、助けられただけだ」
「パパね、いつも言ってたの。警察官は、みんなのお友だちだって」
栞は風船を揺らしながら、自慢げに話した。
「だから、おねえちゃんも栞のお友だち! はい、これあげる」
そう言って、栞は赤い風船を沙耶に差し出した。
沙耶は戸惑った。戦場で与えられるのは、武器か、弾薬か、レーションだけだ。
このような、生存には何の意味も持たない「好意の象徴」を向けられたのは、
彼女の記憶にある限り初めてだった。
「……いらない」
「えー、どうして? かわいいのに」
栞は不満げに口を尖らせ、風船を引き戻そうとした。
その時だった。
栞の手元から、するりと紐が抜け落ちた。
結び目が甘かったのか、あるいは栞の力が緩んだのか。
赤い風船は空調の気流に乗って、ふわふわと、しかし確実に舞い上がった。
「あっ……! ふうせん! まって!」
栞が慌てて手を伸ばすが、風船は彼女の小さな背丈を遥かに越え、ロビーの天井へと向かっていく。
ロビーは吹き抜けになっており、天井付近には照明器具が並ぶキャットウォークがあった。
大人の背丈でも到底届かない、遥かな高みだ。
「あぁ……パパがくれた、さいごのプレゼントなのに……」
栞の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
周囲の避難民たちは、その様子に同情の視線を向けながらも「仕方ないな」「諦めるしかない」と
首を振るだけだった。
この絶望的な状況下で、風船1つに構う余裕など誰にもない。
だが、沙耶の瞳が鋭く細められた。
彼女にとって、それは「救うべき命」ではなかった。
だが、震える栞の背中を見た瞬間、沙耶の身体は思考よりも先に、爆発的な運動を開始していた。
「……っ!」
静かな、しかし凄まじい踏み込み。
沙耶の身体が、常人離れしたバネのように地面を蹴った。
彼女は最短距離にある太い円柱へと躍りかかると、
重力を無視するように垂直の壁を二歩、三歩と駆け上がる。
「なっ……!?」
周囲から驚愕の息が漏れる。
眠っていた恭二や正人も、その気配に飛び起きた。
沙耶は壁を蹴って空中で反転し、さらに照明の支柱を片手で掴んで身体を振り抜いた。
その動きは訓練された兵士というより、もはや獲物を狙う獣のようだった。
最高到達点。指先が、天井付近を漂っていた赤い紐を正確に捉える。
一瞬の滞空。沙耶は紐を掴んだまま、照明器具の影に音もなく着地した。
ロビー全体が、一瞬で静まり返る。誰もが、今目の前で起きた「人間業ではない何か」に言葉を失い、 上空を見上げていた。
沙耶はキャットウォークから静かに舞い降り、栞の前に立った。息一つ乱れていない。
そして、風船の紐を、呆然と立ち尽くす栞の小さな手に握らせた。
「……これか」
栞は目を丸くして沙耶を見上げ、それから太陽のような満面の笑みを浮かべた。
「さやちゃん、すごい! びゅーんって飛んだ! ありがとう! さやちゃん、ヒーロー!」
栞が沙耶の腰に抱きつき、その胸に顔を埋めた。
沙耶は、戸惑ったように両手を浮かせていたが、
やがて不器用な手つきで栞の小さな背中をそっと抱きしめた。
子供の体温が、彼女の冷え切った胸にじんわりと染み渡る。
「……ヒーローじゃない」
沙耶はボソリと呟いた。
だが、その様子を見ていた避難民たちの間から、パラパラと、
そして確かな歓声と拍手が沸き起こった。
それは、絶望しかない要塞の中に、ほんの一瞬だけ差し込んだ希望の光だった。
沙耶は、風船を大切そうに抱きしめる栞を見つめながら、
自分が「戦う道具」以外の何かとして必要とされた感覚に、
言葉にできない不思議な感情を抱いていた。
これが、栞と沙耶の、残酷で温かな世界の始まりだった。




