第三章:要塞の揺りかご [第二十六話] 遺言の行方
市役所のロビーに足を踏み入れた瞬間、一行を圧倒したのは、数百人の生存者たちが放つ、絶望と熱気が混ざり合った呻きだった。
段ボールで区切られた無数の区画、漂う消毒液の臭い、そして時折聞こえる子供の泣き声。
外のレヴァナントとはまた別の、生命の「澱」のような重苦しさがそこにはあった。
「……ひどい」
奈々が、力なく呟いた。
山口は一行を、通常の避難区画とは異なる、総務課の事務機能が残されているエリアへと導いていった。
本来なら民間人の立ち入りは厳しく制限されている場所だ。
「……本来、お前たちのような未確認のグループをここに通すのはマニュアル違反だ」
山口は前を向いたまま、周囲の自衛官に聞こえないほどの低い声で言った。
「だが、田辺の『遺言』とやらを、いつまでも預けておくわけにはいかんからな。俺の気が変わらないうちに済ませろ」
それは、厳しい規律に縛られた軍人が見せた、こっそりとした、そして不器用な優しさだった。
山口が立ち止まったのは、山積みの書類に囲まれたデスクの前だった。
そこには、過酷な激務で目の下に深い隈を作りながらも、
気丈に指揮を執る女性――田辺亜希子の姿があった。
「田辺課長。……北署の巡査長から、ことづてがあるという者たちを連れてきました」
亜希子が顔を上げた。その瞳には、一瞬の期待と、それを上回る深い予感の色が宿っていた。
沙耶は一歩前に出ると、ポケットから泥と血に汚れた警察手帳を取り出し、デスクの上に静かに置いた。
「……田辺勇巡査長は、亡くなりました」
沙耶の声は、冷たいほどに静かだった。
だが、その言葉には、死線を共にした者だけが共有できる重みが宿っていた。
「彼は、最後まで警察官としての義務を果たしました。……そして『愛している。栞を頼む』と。そう伝えてほしいと言っていました」
亜希子の手が、警察手帳の上で止まった。
彼女は唇を白くなるまで噛み締め、溢れ出しそうになるものを必死に抑え込もうと、天を仰いだ。
その指先が、小刻みに震えている。
「……そう。……ありがとう、伝えてくれて」
絞り出された彼女の声に、奈々や桜は耐えきれず涙をこぼした。
だが、沙耶はただ、じっと亜希子を見つめていた。
悲しみを受け入れ、なおも立ち上がろうとする「人間」の強さを、その目に焼き付けているかのようだった。
山口は、その様子を背中で感じながら、一行に顎で合図を送った。
「……話は済んだな。小林、お前たちは今のうちにロビーの区画へ移動しろ。後のことは、俺が適当に報告を上げておく」
山口の計らいにより、一行はロビーの隅に、比較的人通りの少ない、壁際の区画を割り当てられた。
畳一畳分、あるいはそれ以下の僅かなスペース。
だがそこが、彼らにとって初めて手に入れた、誰にも脅かされない「自分の居場所」だった。
「……沙耶ちゃん。お疲れ様。よく頑張ったね」
奈々が、沙耶の隣にそっと座り、その冷たい手を両手で包み込んだ。
安全という名の檻。
その中で、一行は互いの体温を確かめ合うように、初めての長い夜を迎えようとしていた。




