第二章:終末都市の彷徨:[第二十四話] 脱出
「すべて消せ。一点の塵も残すな」
湘南大学、旧資料館を見下ろす高台。黒塗りの大型SUVの傍らで、加賀美建設法務部マネージャー・本田慎二は、
感情を一切排した冷徹な一瞥をキャンパスへと向けた。その瞳に宿るのは、生命への慈しみではなく、自社の不利益を抹消しようとする執念のみだ。
彼の背後には、防護服に身を包み、タクティカルベストで武装したチームが、機械的な精密さで突入の準備を整えていた。
「……康二、見つけたのか?」
地下書庫の重苦しい空気の中、恭二が低い声で尋ねた。外からは、統制された軍靴の足音が確実に近づいている。
「ええ、この古い配管図を見てください」康二が、埃を払いながら一枚の青焼き図面を指差した。
「ボイラー室の裏から、旧講堂の床下を通って西門近くの資材置き場まで続く、メンテナンス用の隠し通路があります。ここを通れば、包囲を抜けてバスを隠した路地まで辿り着けるはずです」
小林先生が図面を覗き込み、鋭く頷いた。
「よし。康二、お前が先導しろ。暦さんと奈々、桜、正人、沙耶は康二に続け。俺がしんがりを務める」
「……待って。私が外で連中を引きつける」
沙耶が、闇の中から静かに、しかし断定的に言った。彼女の手には、いつの間にか複数の空き瓶と、即席の煙幕弾が握られている。
「沙耶ちゃん、一人でなんて……!」
奈々が駆け寄ろうとするが、沙耶はその視線を片手で制した。
「奴らの目的はこの資料だ。私が派手に動けば、連中の意識は外に向く。先生、その隙にバスを。
西門の資材置き場に10分後回して」
「村田……」小林先生は一瞬躊躇したが、彼女の瞳に宿る、この世のものとは思えないほど強固な「確信」に押された。「分かった。一分だ。一秒も遅れるなよ」
沙耶は返事の代わりに、音もなく階段を駆け上がった。
資料館の正面玄関。突入しようとした加賀美建設のチームの足元で、轟音と共に白い煙が噴出した。
「なっ、何だ!? 妨害か!」
煙の中から躍り出たのは、一筋の黒い影――沙耶だった。
彼女は驚愕する男たちの一振りを重力を無視したかのような低い姿勢でかわすと一人の膝を正確に蹴り抜きその勢いを利用してもう一人の喉元に掌打を叩き込む。
「目標捕捉! 少女だ、例の適合者だ!」
無線が飛び交う中、沙耶はあえて遮蔽物の少ない広場へと走り出した。
建物の壁を蹴り、照明の柱を支点にして空中で体を捻る。その動きは、もはや人間のそれではない。
圧倒的で、それでいて美しい戦闘の舞踏。
男たちが放つ非致死性の拘束弾や閃光弾が、沙耶の髪を一房掠めていく。
だが、彼女は止まらない。背後で、康二たちが隠し通路から脱出したであろう「気配」を感じ取りながら、追っ手をキャンパスの反対側へと誘導していく。
「逃がすな! 生け捕りにしろ、貴重なサンプルだぞ!」
本田の冷酷な命令が響く中、沙耶は西門へと続く曲がり角で急停止した。
その目の前には、タイヤを激しく鳴らしながら突っ込んでくる、見慣れた大型スクールバスの姿があった。
「沙耶! 乗れ!」
運転席の小林先生が叫び、開かれたドアから恭二と正人が身を乗り出して手を伸ばす。沙耶は背後の追っ手に向けて最後の一本となった煙幕を投げつけると、全力で加速した。
バスが速度を落とさないまま横を通り過ぎる瞬間、沙耶の体が宙を舞った。恭二と正人が彼女の腕を掴み、車内へと引きずり込む。
「……離脱。全速力で」
沙耶は奈々の隣の席に倒れ込みながら、短く告げた。バスは加賀美建設のSUVを振り切り、夜の藤沢へと走り出す。
激しい追撃から数十分後。一行を乗せたバスは、高く堅牢なバリケードに囲まれた「要塞」の前に辿り着いていた。
「……着いたわ」
奈々が窓の外を見て、小さく息を呑んだ。
サーチライトが夜空を照らし、武装した自衛官たちが周囲を厳重に警戒している。そこは、かつての行政の中心地であり、今は生存者たちの最後の希望の灯火となった場所。
「ここが、藤沢市役所……」
恭二が呟く。
だが、その門の向こう側には、外の世界とはまた異なる、人間同士の欲望と秩序の歪みが待ち受けていることを今の彼らはまだ知る由もなかった。




