第二章:終末都市の彷徨:[第二十三話] 異質
旧資料館の地下書庫。厚い石壁に囲まれたその場所は、外の地獄が嘘のように静まり返っていた。
だが、手元の懐中電灯が照らし出す紙面の内容は、外のレヴァナントたちよりも遥かに冷酷な狂気に満ちていた。
「……人類の不完全性を、この原初物質によって塗り替える」
宮増康二が、掠れた声で資料を読み上げる。その隣で藤森暦が、震える手で別のファイルをめくっていた。
「このプロジェクトの至る所に、この署名があるわ……。『A.L.』。誰なのかは分からないけれど、彼がこのRSVウイルスの『調整』を指示していたみたい。
まるで、この街そのものを巨大な試験管に見立てているような書き方……」
新井恭二や加藤正人は、その言葉に顔をしかめた。自分たちの日常を奪い、多くの友人や家族を死に追いやった元凶が、
どこか高い場所から自分たちを見下ろして笑っているような、不快な寒気が背中を走り抜ける。
沙耶は、その輪から少し離れた書棚の影に立っていた。
彼女の視線は、康二が広げた手記の末尾にある『A.L.』という署名の、その独特な筆跡に向けられていた。
「……」
沙耶は無言だった。表情はいつも通り、感情を削ぎ落とした彫刻のように静かだ。
だが、その瞳だけが、暗い海の底を見つめるように深く沈んでいる。
彼女にとって、その署名は理屈ではなく、生存本能が「最大級の警戒」を鳴らす対象だった。
なぜそう感じるのか、彼女自身も言葉にはしない。
ただ、この文字を書いた人間が、かつて自分が出会ったことのある「人間を道具としてしか見ない存在」と同種の
あるいはそれ以上に邪悪な何かであることだけを、その鋭い直感で感じ取っていた。
「沙耶ちゃん? どうしたの、そんなにじっと見つめて……」
奈々が心配そうに覗き込んでくる。沙耶は視線を資料から外し、奈々の顔を見た。
いつもの、少しお節介で、温かい奈々の瞳。
それを見ることで、沙耶は自分を支配しようとする名もなき不快感を、心の奥底へと押しやった。
「……なんでもない。ただ、この場所はもう、十分に調べたと思っただけだ」
沙耶の言葉は、いつものように短く、断定的だった。
グループの誰もが、彼女のこの「直感」を信頼している。
彼女が「危ない」と言えば、それは絶対的な予兆なのだ。
この並外れた身体能力と、死線を潜り抜ける勘。
それは、この過酷な世界を生き抜くために彼女が授かった「主人公」としての特別な才能なのだと、恭二たちは疑わなかった。
「村田の言う通りだな。これ以上の深入りは、かえって危険を招く」小林先生が腕時計に目を落とし、厳しい表情で言った。
「康二、暦さん。必要な資料はすべてリュックにまとめろ。夜が明ける前に、ここを離脱する」
その時だった。
書庫の天井を伝って、微かな、しかし地響きのような振動が響いた。
それは、レヴァナントが立てる不規則な音ではない。重厚なディーゼルエンジンの回転音と、砂利を踏みしめる複数のタイヤの音。
「……っ、車!? 誰かがここに向かってきてるのか?」
正人が窓のない壁に耳を当てて驚愕の声を上げた。
沙耶は即座に腰のナイフの柄を握り、入口の階段へと意識を向けた。
音の主は、一つではない。複数だ。
それも、訓練された一団のように、完璧に統制の取れた配置で、この資料館を包囲しようとしている。
「レヴァナントじゃない……。人間だ」
沙耶の低い呟きに、室内の温度が一段下がったような緊張が走った。
柴田たちのような、行き当たりばったりの略奪者ではない。
もっと冷徹で、組織的な武力の気配。
「A.L.の関係者……でしょうか」
暦が、資料を抱えた腕を強く締め直す。
「目的が何であれ、今の我々にとって歓迎すべき相手ではないのは確かだ」
小林先生が教え子たちを庇うように一歩前へ出る。
「沙耶……」
奈々が不安げに沙耶の袖を引いた。沙耶は、奈々の手を優しく、しかし力強く振り解くと、闇に染まった階段の上を見据えた。
「私が先に出る。みんなは先生の指示に従って」
沙耶の姿が、一瞬の加速で闇に溶ける。
読者が見れば、それはまるで超常現象のような速さだ。
だが、今の恭二たちにとっては、それこそが唯一の希望の光でもあった。
資料に記された『A.L.』の署名が、懐中電灯の消え際、最後の一瞬だけ怪しく浮かび上がった。
まるで、これから始まる惨劇を予言しているかのように。




