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REVENANT: SHONAN ZERO  作者: 狐目の仮面
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第二章:終末都市の彷徨 [第二十二話] 原初


 旧資料館の一階書庫は、埃っぽく黴の臭いが立ち込めていたが、厚い石壁と小さな窓のおかげで、外の喧騒からは遮断され、不思議なほどの静寂が保たれていた。宮増康二と藤森暦は、床に広げた無数の古びた資料に没頭し、懐中電灯の僅かな光を頼りに、その解読と分析を懸命に進めていた。他のメンバーは、交代で休息を取りつつ、この仮拠点の防衛と、周辺のさらなる探索準備を進めている。

「…この実験記録、見てください、暦さん」

康二が、興奮を抑えきれないといった声で、黄ばんだノートの一葉を指差した。そこには、精密な手書きの文字で、ある「未知の病原体」を動物に投与した後の経過観察が、克明に記録されていた。

「細胞の異常な速度での変質と増殖…そして、末期には極度の凶暴性と、他の個体への強い攻撃性を示す、と…。これは、まさしく今の『レヴァナント』の症状そのものです」

「ええ…」暦も、顔を強張らせながら頷いた。

「そして、この病原体の記述…ところどころ、明らかに人為的な改変が加えられたような痕跡があるわ。まるで、自然発生したものではなく、誰かが意図的にその特性を強化しようとしたみたい…」

二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。この大学の過去に、一体どんな恐ろしい研究が行われていたというのか。

「こっちのファイルには、さらに気になる記述が…」

暦が、別の分厚いファイルを開きながら言った。

「『プロジェクト・プロメテウス』というコードネームが、繰り返し出てくるの。そして、そのプロジェクトの中心となっていたと思われるのが、この『未確認神経系作用薬物』…実験体番号S…いえ、この部分はインクが滲んで判読不能だわ…でも、その薬物を投与された被験体が、驚異的な身体能力の向上を見せたという記録と、同時に、多くが精神崩壊を起こしたり、あるいは肉体が耐えきれずに死亡したという、おびただしい数の失敗例が…」

その言葉に、書庫の入口近くで警戒にあたっていた村田沙耶の肩が、ほんの僅かにだが、ピクリと動いたのを工藤奈々は見逃さなかった。しかし、沙耶の表情は依然として変わらない。

(プロジェクト・プロメテウス…神経系作用薬物…失敗例…)

沙耶の脳裏に、具体的な記憶ではないものの、忘れたくても忘れられない、あの施設の冷たい床の感触や、薬品の独特の匂い、そして誰かの苦悶の声が、靄のかかった映像のように一瞬だけ蘇り、すぐに消えた。彼女は、その不快な感覚を振り払うように、小さく頭を振った。

「この『プロジェクト・プロメテウス』の責任者と思われる人物の名前も、いくつか出てきています」康二が、タブレットに打ち込んだデータを整理しながら報告する。「ですが、その多くはコードネームか、あるいは偽名の可能性が高い。ただ、一人だけ…非常に頻繁に、そして重要な決定を下している人物のイニシャルが…『A.L.』とだけ記されています」

「A.L. …」暦はそのイニシャルを反芻した。「そして、このプロジェクトが最も活発に行われていたと思われる時期は、今から10年から15年ほど前。大学の公式な記録からは完全に抹消されている、空白の期間ね…」

その時、旧資料館の周囲を探索していた小林先生、

恭二、正人が戻ってきた。

「どうだ、何か分かったか?」小林先生が、低い声で尋ねる。

康二と暦は、顔を見合わせ、そしてこれまでの分析結果を簡潔に報告した。未知の病原体への人為的な介入の可能性、「プロジェクト・プロメテウス」という謎の計画、そして「A.L.」というイニシャルの存在。

「…やはり、この大学は、今回のパンデミックと深く関わっている可能性が高いな」小林先生は、腕を組み、厳しい表情で言った。「そして、その背後には、何か巨大な組織や、個人の歪んだ野望が存在するのかもしれん」

「その『プロジェクト・プロメテウス』とやらが行われていた場所は、特定できないのか?」恭二が尋ねる。

「今のところ、この資料だけでは難しいわ」暦が首を振った。「ただ、いくつかの実験記録には、大学の敷地内ではない、別の『隔離研究施設』の存在を示唆するような記述もあるの。でも、その場所までは…」

「…もしかしたら」今まで黙っていた沙耶が、不意に口を開いた。「その『隔離研究施設』の手がかりが、この資料館のどこかにあるかもしれない」

全員の視線が、沙耶に集まる。

「この資料館は、大学創設期からのあらゆる記録が集められていると、藤森が言っていた。公にできない研究の記録なら、表向きの書庫ではなく、もっと隠された場所に保管されている可能性がある」

「隠された場所…?」

「例えば、この建物の地下だ。古い建物には、秘密の地下室や通路が存在することがある」

沙耶の言葉には、奇妙な確信が込められていた。それは、彼女の過去の経験からくる直感なのかもしれない。

「…試してみる価値はありそうだな」小林先生は頷いた。「よし、もう一度、この資料館の構造を徹底的に調べてみよう。何か、地下へと続く隠された通路や扉がないか」

新たな目標が定まった。彼らは、この古びた資料館の奥深くに眠るかもしれない、さらなる秘密と、そしてこの世界の崩壊の真相へと繋がるかもしれない手がかりを求めて、再び動き出す。

康二と暦は、これまでの分析データを整理し、特に「プロジェクト・プロメテウス」と「A.L.」に関する記述を重点的に再検証する。沙耶、恭二、正人、そして小林先生は、資料館の壁や床を丹念に調べ、隠された入口の可能性を探り始めた。


小林先生の指示のもと、旧資料館の内部探索が再開された。宮増康二と藤森暦は、一階の書庫で懐中電灯の光を頼りに、持ち帰った不穏な資料の分析を継続。村田沙耶、新井恭二、加藤正人、そして小林先生の四人は、この古びた石造りの建物に隠されているかもしれない「地下への道」を探し始めた。

「古い建物だ。壁や床に不自然な継ぎ目や空洞がないか、丹念に調べていくぞ」

小林先生の言葉に、三人は頷き、それぞれ分担して探索を開始した。資料館の内部は、一階も二階も、主に書架と閲覧スペース、そしていくつかの小さな事務室で構成されているように見えた。しかし、沙耶の言う通り、公にできない研究が行われていたとすれば、その痕跡は巧妙に隠されているはずだ。

恭二と正人は、一階の床板を一枚一枚踏みしめ、空洞音がないか確認したり、壁に立てかけられた古い絵画や棚の裏側を調べたりした。埃とカビの臭いが立ち込める中、彼らの額には汗が滲む。時折、建物のどこかから聞こえる軋むような音や、風が窓の隙間を吹き抜ける音が、彼らの緊張感を高めた。

沙耶は、小林先生とは別に、まるで獣が縄張りを確かめるかのように、音もなく館内を巡っていた。彼女の鋭敏な五感は、空気の僅かな流れの違いや、壁の材質の不均一さ、床の微かな傾斜などを捉えようと集中している。彼女の脳裏には、かつて自分が閉じ込められていた施設の、隠された通路や秘密の部屋の記憶が、断片的に蘇っては消えていた。それは、具体的な場所や構造を思い出すというよりは、危険な場所が放つ特有の「気配」のようなものを、彼女の体が覚えていたからかもしれない。

数時間が経過しただろうか。めぼしい発見がないまま、焦燥感が募り始めた頃、二階の奥まった場所にある、今は使われていない館長室のような部屋を調べていた沙耶が、ふと足を止めた。その部屋の壁の一面は、天井まで届く巨大な木製の書架で覆われていた。しかし、沙耶の視線は、その書架の特定の一点に注がれている。

「…ここだ」

彼女の小さな呟きに、近くを調べていた小林先生が駆け寄った。

「何か見つけたのか、村田?」

沙耶は、書架の特定の棚、そこに並べられた分厚い革装丁の本の中から、一冊だけ僅かに前に突き出ている本を指差した。それは、他の本と比べて装丁が新しく、不自然に浮いているように見える。

「これを、引いてみろ」

小林先生は、沙耶の言葉に訝しげな表情を浮かべたが、言われるがままにその本に手をかけ、ゆっくりと手前に引いた。すると、ゴゴゴ…という低い地鳴りのような音と共に、巨大な書架全体が、壁ごとゆっくりと横にスライドし始めたのだ。

「な…!」

恭二と正人も、その音を聞きつけて駆け寄ってくる。彼らの目の前には、書架が移動したことによって現れた、壁の暗い開口部――地下へと続く、石造りの急な階段があった。

「…ビンゴ、だな」小林先生が、驚きと興奮が入り混じった声で言った。

階段の先は、深く暗い闇に包まれ、ひんやりとした、そしてどこか淀んだ空気が漂ってくる。懐中電灯の光も、その闇の奥までは届かない。

「私が先に行く」沙耶は、いつものように短く告げると、腰のホルスターから拳銃を抜き、文化包丁をもう一方の手に持ち替え、躊躇なく暗い階段へと足を踏み入れた。

「沙耶さん、待って!」恭二が声をかけるが、沙耶は既に闇の中へと消えかけている。

「仕方ない、我々も続くぞ。だが、細心の注意を払え。何が潜んでいるか分からん」

小林先生を先頭に、恭二、そして正人も、それぞれ武器を構え、沙耶の後を追って地下へと降りていった。

地下へと続く階段は長く、湿気を帯びて滑りやすかった。十数メートルほど降りただろうか、彼らはようやく平坦な通路に出た。そこは、地上とは比べ物にならないほど空気が冷たく、重い。そして、薬品のツンとした臭いと、何かが腐敗したような微かな異臭が混じり合っていた。

懐中電灯の光が照らし出す先には、いくつかの頑丈な鉄製の扉が並ぶ廊下が続いている。扉には、錆びついたプレートが付いており、「被験体保管室」「第1実験室」「廃棄物処理室」といった、不気味な文字が読み取れた。

「…ここは…」恭二は、息を飲んだ。

まさに、沙耶が示唆した「公にできない研究」が行われていた秘密の施設そのものだったのだ。

「酷いな…こんなものが、大学の地下にあったとは…」小林先生も、苦々しげに呟く。

沙耶は、周囲の気配を探りながら、慎重に廊下を進んでいく。いくつかの扉は固く閉ざされていたが、一つの「第1実験室」と書かれた扉は、僅かに開いていた。沙耶は、仲間たちに目配せし、音もなくその扉を押し開ける。

内部は、想像を絶する光景だった。中央には、錆びついた金属製の拘束台が置かれ、その周囲には、用途不明の医療器具や、割れたガラス瓶、そして床には黒く変色した古い血痕のようなものが点々と付着している。壁際には、薬品棚が倒れかかり、中身が散乱していた。そして、部屋の隅には、小さな鉄製の檻がいくつか並べられており、その中の一つには、ミイラ化した小動物の死骸のようなものが転がっていた。

「…なんということだ…」恭二は、思わず口元を押さえた。

「これが…『プロジェクト・プロメテウス』の…」小林先生の表情も、怒りと嫌悪感で歪んでいる。

沙耶は、その惨状を冷静に見渡し、そして床に散らばっていた数枚の書類に気づいた。それは、雨漏りか何かで濡れて一部が判読不能になっていたが、そこには「原初物質プライモーディアル・マター第二段階適合試験」「被験体No.7 生存限界記録」といった、おぞましい記述が断片的に残されていた。そして、その書類の隅には、歪んだ文字で「A.L.承認」というサインのようなものが見えた。

(A.L.…康二たちが言っていたイニシャル…そして、原初物質…)

沙耶の脳裏に、再びあの不快な感覚と、断片的な記憶のノイズが蘇る。しかし、それはまだ、明確な形を結ばない。

その時、部屋の奥の暗がりから、カサリ、と何かが動く微かな音が聞こえた。

全員が、一瞬にして戦闘態勢に入る。

「…誰かいるのか?」小林先生が、低い声で呼びかける。

返事はない。ただ、暗闇の奥から、ズル、ズル、と何かを引きずるような音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。それは、レヴァナントの動きとは明らかに異なっていた。もっと重く、そして…何か硬いものが擦れるような音。

沙耶は、拳銃の安全装置を外し、その暗闇の奥を鋭く見据えた。


「第1実験室」の奥の暗闇から聞こえてくる、ズル、ズル、という不気味な引きずる音。それは、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてきていた。村田沙耶は拳銃を構え、その銃口を暗闇へと向ける。小林先生、新井恭二、加藤正人も、それぞれ武器を手に、緊張した面持ちで音の主を待ち構えた。部屋には、薬品のツンとした臭いと、何かが腐敗したような甘ったるい異臭が混じり合い、吐き気を催させる。

やがて、暗闇から姿を現したのは、おぞましいとしか言いようのない「何か」だった。

それは、かつて人間であったことの痕跡を辛うじて留めてはいたが、その体は歪にねじ曲がり、皮膚は所々爛れて骨が露出し、引きずっているように見えた片足は、ありえない方向に折れ曲がっている。その顔は、苦痛と怨嗟に歪み、焦点の合わない瞳が虚ろに宙を彷徨っていた。そして、その口からは、言葉にならない呻き声と共に、粘ついた黒い液体が滴り落ちている。

「ひっ…!」恭二が、思わず息を飲む。

「…『失敗作』、か」小林先生が、苦々しげに呟いた。この地下施設で行われていた非人道的な実験の、悲惨な犠牲者であることは明らかだった。

その「失敗作」は、沙耶たちの存在に気づいたのか、ゆっくりと、しかし敵意を込めてこちらへとにじり寄ってきた。その動きは鈍重だが、予測不能な痙攣を伴い、逆に不気味さを増幅させている。

「…私がやる」

沙耶は、短く告げると、拳銃の照準を「失敗作」の頭部と思われる箇所に合わせた。しかし、相手は頭部も酷く変形しており、どこが急所なのか判然としない。

「待て、村田さん!」恭二が叫んだ。

「こいつは…もう、人間じゃないかもしれないけど…!」

「感傷に浸っている暇はない。脅威は排除する」

沙耶の指が引き金にかかろうとした瞬間、その「失敗作」が、突如として甲高い奇声を発し、折れ曲がった足を引きずりながらも、予想外の速さで飛びかかってきた。その爛れた両手が、沙耶の喉元を狙う。

沙耶は、コンマ数秒の反応でそれを回避。彼女の体は、まるで重力という法則を無視したかのような軽やかさと予測不能な角度で変化するアクロバティックな体捌きで、「失敗作」の側面へと回り込む。そして、拳銃ではなく、手にしていた文化包丁を逆手に持ち替え、相手の首の付け根――比較的変形が少ないと思われる箇所――に、深々と突き立てた。

「グギィィィ…ッ!」

「失敗作」は、断末魔の叫びを上げ、激しく痙攣した後、沙耶の足元に崩れ落ち、今度こそ完全に沈黙した。

「…これが、あの資料にあった『被験体』の成れの果てか…」小林先生は、その亡骸を見下ろし、唇を噛んだ。この地下施設で行われていた非人道的な実験の、おぞましい一端を垣間見た思いだった。

「酷すぎる…」恭二も、言葉を失う。

沙耶は、返り血を浴びた文化包丁を、近くにあったボロ布で機械的に拭うと、再び部屋の探索を開始した。彼女の冷静さは、この異常な状況において、恭二たちにとって唯一の精神的な支えとなりつつあったが、同時にその人間離れした部分に言いようのない隔たりも感じさせていた。

「先生、こっちにも部屋があります。ドアは…施錠されているようです」

正人が、実験室のさらに奥へと続く、頑丈そうな鉄製の扉を発見した。その扉には、かすれた文字で「高度機密資料保管室」と記されたプレートが取り付けられている。

「…開けられるか、村田?」小林先生が、沙耶に視線を送る。

沙耶は頷き、懐から取り出した細い金属製のピックツールセットを使い、扉の複雑なシリンダー錠へと向き合った。数分間の、息詰まるような静寂。時折、沙耶の指先から微かな金属音が響くだけだった。そして、カチリ、という乾いた音と共に、重厚な扉が僅かに開いた。

内部は、地上とは完全に遮断された、窓一つないコンクリート打ちっぱなしの部屋だった。中央には大型の金属製キャビネットが数台並び、壁際には無数のファイルが収められた書架が設置されている。そして、部屋の奥には、一台の古めかしいが頑丈そうな金庫が鎮座していた。

「…ここは…」恭二は息を飲んだ。「間違いない、ここがあの研究の中枢だ」

彼らは手分けして、キャビネットや書架のファイルを調べ始めた。そこには、先ほどまでの断片的な記録とは比較にならないほど、詳細かつ衝撃的な内容が記されていた。

『プロジェクト・プロメテウス 第二フェーズ移行に関する報告書』

『原初ウイルス(Primordial Virus)株の安定化と、ヒト細胞への適合性に関する中間考察』

『被験体への「原初ウイルス」及び増幅剤P-LBS投与後の精神汚染と身体変容に関する詳細データ』

『「A.L.」直轄チームによる、「原初ウイルス」適合者の選別と、その特殊能力開発プログラムについて』

次から次へと現れる、おぞましい単語と、非人道的な実験の記録。それは、単なる病原体の研究ではなく、意図的に人間を「何か」へと変質させようとする、壮大かつ狂気に満ちた計画の一端を物語っていた。

「原初ウイルス…そして、適合者…?」恭二は、ファイルをめくる手が震えるのを止められなかった。「沙耶さんが以前話していた、彼女が投与されたという『原初の物質』というのは、もしかしてこの…?」

彼の視線が、無言で資料を読み進める沙耶へと注がれる。沙耶の表情は変わらないが、その瞳の奥には、これまで以上に深い影が宿っているように見えた。

「この『A.L.』という人物…やはり、このプロジェクトの最高責任者のようだ」小林先生が、別のファイルを手に取りながら言った。「ここにある指示書や報告書の多くに、彼の署名らしきものがある。だが、フルネームではなく、常にこのイニシャルだけだ。そして…この記述を見てくれ」

彼が指差したのは、「A.L.個人研究記録抜粋」と題された、手書きのノートのページだった。そこには、難解な数式や哲学的な考察と共に、こう記されていた。

『…死は、生命の不完全性の徴候に過ぎない。原初ウイルスは、その不完全性を克服し、人類を新たなるステージへと導く鍵となるだろう。我々は、神の領域に踏み込むのではない。我々自身が、新たな神を創造するのだ。この私、A.L.がその最初の預言者として…』

その記述は、常軌を逸した誇大妄想と、揺るぎない信念に満ち溢れていた。

「…正気じゃない」正人が、思わず低い声で呟いた。

沙耶は、その「A.L.」の記述から目を離せずにいた。その筆跡、その思想の断片に、彼女はかつて自分を支配し、実験台としたあの男――ヨーゼフ・パンツァーとはまた異なる、しかし同質の、底知れない狂気と冷たさを感じ取っていた。

(A.L.…この男が、全ての元凶なのか…?そして、私が投与されたものは…)

彼女の記憶のパズルは、まだ完成には程遠いが、いくつかの重要なピースが、今、この地下の資料室で見つかろうとしていた。

「この金庫の中にも、何か重要なものがあるかもしれない」

小林先生が、部屋の奥に鎮座する古めかしい大型金庫を指差した。ダイヤル式の、極めて頑丈そうな金庫だ。

「開けられるか?」

沙耶は、金庫に近づき、その構造を注意深く観察した。そして、静かに首を横に振る。

「…今の私では無理だ。特殊な工具と、時間が必要になる」

「そうか…」

彼らは、この地下施設から持ち出せる限りの重要と思われる資料を選び出し、リュックに詰め込んだ。それは、人類の禁断の知識であり、同時に、この世界を救うための唯一の手がかりになるかもしれない、危険な代物だった。

一行は、重い空気と、さらに重くなったリュックを背負い、再び地上へと続く階段を登り始めた。旧資料館の一階書庫に戻ると、奈々、桜、そして暦と康二が、息を詰めて彼らの帰りを待っていた。

「皆さん…!ご無事で…!それに、その資料は…?」暦が、彼らが抱える大量のファイルを見て目を見開く。

小林先生は、疲れた表情で、しかし確かな手応えを感じさせる声で言った。

「…ああ。とんでもない『パンドラの箱』を見つけてしまったようだ。康二、暦さん、君たちの出番だ。これを解析すれば、あの『岩石オーガ』だけでなく、このパンデミックの全ての謎が解けるかもしれん…あるいは、我々が知るべきではなかった深淵に触れてしまうことになるかもしれんがな」

その言葉と共に、彼は「PROJECT PROMETHEUS」や「原初ウイルス」、「A.L.」といった単語が記されたファイルの束を、二人の若い研究者の前に差し出した。

康二と暦の顔に、緊張と、そして抑えきれないほどの知的好奇心と使命感が浮かんだ。

沙耶は、その様子を黙って見つめていた。彼女の戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれない。

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