第二章:終末都市の彷徨 [第二十一話] 戦い
旧ボイラー室に運び込まれた大量の塩の袋を前に、一行は岩石オーガ打倒のための具体的な方法を協議していた。時間は限られている。村田沙耶がいつまであの巨獣の注意を引きつけていられるか、予測もつかない。
「高濃度の食塩水、か…」小林先生は、腕を組み、険しい表情で唸った。「問題は、どうやってあの巨体に効果的に浴びせるかだ。並のバケツで水をかけたところで、あの岩石のような外皮にどれほどの効果があるか…」
「消火器です!」新井恭二が、先ほどのアイデアを再度口にした。「このボイラー室にも数本ありますし、大学の他の建物からも集められるかもしれません。中身を空にして、そこに濃い食塩水を詰めれば、ある程度の圧力で噴射できるはずです!」
「なるほど…」宮増康二が、恭二の案に頷いた。
「消火器のノズルなら、狙った箇所に集中的に吹き付けることも可能でしょう。問題は、有効な濃度と量、そして噴射時間ですが…」
「それと、水よ」藤森暦が付け加えた。「この古い貯水タンクの水がどれだけ残っているか…。それに、塩を効率よく溶かすための容器も必要ね」
議論は白熱したが、彼らに残された時間は少ない。小林先生が最終的な判断を下した。
「よし、方針は決まった。我々は、大学内から可能な限りの空の消火器と、水を運ぶための容器を調達する。そして、このボイラー室で高濃度の食塩水を作り、消火器に充填する。それを我々の『対オーガ兵器』とする!」
その言葉に、生徒たちの顔に緊張と決意が走った。
「探索は二手に分かれる。恭二、正人、君たちは俺と共に、このボイラー室周辺の建物を当たり、消火器と容器を探せ。康二、暦さん、そして奈々と桜、君たちはこのボイラー室に残り、貯水タンクの水量確認と、塩を溶かす準備、そして万が一の際の救護準備を頼む」
「はい!」
「村田さんとの合流はどうしますか?」恭二が尋ねる。
「彼女には、頃合いを見て一度ここへ戻るよう、先ほど藤森さんがくれた無線で伝えた。だが、オーガの陽動は続けさせる。我々が『兵器』の準備を整え、作戦地点を決定するまで、彼女には時間を稼いでもらわねばならん」
小林先生の言葉には、沙耶への絶対的な信頼と、同時に彼女に大きな負担を強いていることへの苦渋が滲んでいた。
探索チーム(小林、恭二、正人)は、再び危険なキャンパスへと踏み出した。彼らは、レヴァナントの気配に最大限の注意を払いながら、近隣の建物を一つ一つ確認していく。いくつかの建物で、彼らは数本の未使用の消火器と、水を運ぶのに使えそうなポリタンクを発見することができた。その間にも、遠くからは岩石オーガの咆哮と破壊音が響き続け、彼らの焦燥感を煽る。
一方、ボイラー室に残った康二たちは、暦の指示のもと、古い貯水タンクのバルブを捻った。幸い、タンクにはまだかなりの量の水が残っており、濁りも少ない。彼らは、見つけ出したバケツや鍋を使い、その水を運び出し、持ち帰った塩の袋を開封して、可能な限り濃い食塩水を作り始めた。それは地道で、そして時間のかかる作業だった。
「もっと塩を!もっとかき混ぜて!」
暦の檄が飛ぶ。彼女は、古文書の知識だけでなく、化学実験の基礎心得もあったのか、効率よく飽和食塩水に近いものを作り上げていく。康二は、その濃度や比重を計算し、最適な状態を模索していた。
奈々と桜は、その作業を手伝いながらも、常に沙耶の身を案じていた。
「沙耶ちゃん、大丈夫かな…」桜が、不安そうに呟く。
「きっと大丈夫よ…沙耶ちゃんだもの」奈々はそう答えたが、その声は僅かに震えていた。
数時間後、探索チームが十分な数の消火器と容器を持ってボイラー室に戻ってきた頃には、暦と康二たちも、数個のポリタンクに満たされた高濃度の食塩水を用意し終えていた。
そして、まるでタイミングを合わせたかのように、ボイラー室の扉が静かに開き、黒い戦闘服に身を包んだ沙耶が、音もなく姿を現した。その顔には疲労の色が浮かんでいたが、瞳の輝きは失われていない。
「沙耶ちゃん!」奈々が駆け寄る。
「…状況は?」沙耶は短く尋ねた。
小林先生が、これまでの経緯と、対オーガ兵器の準備が整ったことを説明する。
「奴は…岩石オーガは、今、中央広場で暴れている。私がそこへ誘導した。あそこなら、比較的障害物も少なく、戦いやすいはずだ」沙耶が報告する。
「よし…」小林先生は頷いた。「作戦開始だ。目標は、岩石オーガの弱体化と、胸部にあると思われる『核』の破壊。沙耶、お前には最も危険な役目を頼むことになる。この食塩水を充填した消火器を使い、オーガの外皮に可能な限り広範囲に、そして集中的に浴びせかけろ。我々は、お前が作った隙を突き、弱点が露出すれば、そこを総攻撃する」
彼は、恭二と正人に向き直った。「お前たちの役目は、沙耶の援護と、弱点への直接攻撃だ。金属バットと木刀では威力不足かもしれんが、気合で補え。康二、藤森さん、君たちは後方から戦況を分析し、的確な指示と情報を送ってくれ。奈々、桜、君たちは負傷者が出た場合の救護と、我々の退路確保だ」
全員が、緊張した面持ちで頷く。
「これは、我々全員の総力戦だ。一人でも欠ければ成功はない。必ず…生きて帰るぞ!」
小林先生の力強い言葉に、一行は最後の覚悟を決めた。彼らは、手作りの「兵器」を手に、岩石オーガが待つ中央広場へと、静かに、しかし確かな足取りで向かっていく。
湘南大学のキャンパスに、再び激しい戦いの火蓋が切られようとしていた。
夜明け前の薄明かりが、辛うじて湘南大学のキャンパスを照らし始めていた。中央広場――かつては学生たちの憩いの場であっただろうその場所は、今は見る影もなく荒れ果て、その中央には、悪夢の具現とも言うべき「岩石オーガ」が、地響きを立てながら巨体を揺らしていた。周囲のベンチや植木はなぎ倒され、地面には巨大な足跡が深く刻まれている。その口からは、低く不気味な唸り声が絶えず漏れ聞こえていた。
村田沙耶、小林先生、新井恭二、加藤正人の四人は、広場を見下ろせる学生会館の二階の窓から、息を殺してオーガの様子を窺っていた。彼らの手には、それぞれ武器と、そして数本の消火器(中身は高濃度の食塩水に詰め替えられている)が握られている。後方、少し離れた安全と思われる建物の陰には、宮増康二と藤森暦が双眼鏡やタブレットを手に戦況分析の準備を整え、工藤奈々と遠藤桜は、医療キットを広げ、固唾を飲んで戦いの始まりを待っていた。
「…やはり、胸部中央が怪しいな。あの脈動…外皮の下に、何か重要な器官がある可能性が高い」小林先生が、双眼鏡から目を離し、低い声で言った。
「作戦は、先ほど確認した通りだ。沙耶、お前が陽動しつつ、奴の胸部に集中的に『アレ』を浴びせかけろ。我々は、お前が作った隙を突き、外皮が弱体化したところを狙う」
沙耶は、無言で頷いた。その瞳には、一切の恐怖もためらいもない。ただ、目の前の強大な「敵」をどう効率的に排除するか、それだけを思考しているかのように冷徹だった。
「…行く」
沙耶は短く告げると、学生会館の窓枠に音もなく足をかけた。次の瞬間、彼女の体は窓から吸い込まれるように外へと躍り出て、建物の外壁を数歩、まるで垂直な地面であるかのように駆け下り、空中で一度小さく身を捻って衝撃を殺すと、猫のようにしなやかに、そして完全に音を消して広場の隅に着地した。一連の動作は、重力という概念を忘れさせるほど滑らかで、常人には到底不可能な身のこなしだった。即座にオーガの死角へと滑り込む。
「グルル…?」
オーガは、新たな気配を察知したのか、巨体をゆっくりと回転させ、周囲を見回し始めた。
沙耶は、その隙を逃さない。一本目の食塩水入り消火器を構えると、広場に点在する破壊されたオブジェの残骸や、ひしゃげたベンチを、まるで障害物など存在しないかのように、低い姿勢で高速に駆け抜け、あるいは軽々と飛び越えていく。その動きは、人間の目では捉えきれないほどの緩急と、予測不能な角度で鋭く方向転換を繰り返す、まさにアクロバティックな体捌きそのものだった。瞬く間にオーガの側面へと回り込む。
「今だ!」
小林先生の合図と共に、沙耶は消火器のレバーを握り、白い霧状の濃塩水をオーガの脇腹から胸部にかけて集中的に噴射した。
「グオオオオォォォ!!!」
オーガは、突然浴びせられた刺激物に驚き、苦痛とも怒りともつかない咆哮を上げた。その巨体が激しく震え、周囲の地面を巨大な拳で叩きつける。土煙と破片が舞い上がった。
沙耶は、オーガが薙ぎ払うように振るった、岩塊のような腕を、コンマ数ミリの差で身を屈めて回避すると、その腕の下を弾丸のような速度ですり抜け、次の遮蔽物へと瞬時に移動し、二本目の消火器を構えた。その一瞬の攻防は、巨大な槌を振るう巨人と、その周りを舞う俊敏な影のようだった。
「効いているのか…?」恭二が、固唾を飲んで戦況を見守る。
「見てください!」暦が、双眼鏡を覗きながら叫んだ。「オーガの胸部の外皮…色が、僅かに変質して…ひび割れのようなものが…!」
その言葉通り、食塩水を浴びたオーガの胸部周辺の岩石のような皮膚は、所々が白っぽく変色し、細かい亀裂が走り始めているように見えた。
「よし、効果ありだ!」小林先生が力強く言った。「沙耶、続けろ!恭二、正人、準備はいいか!」
「はい!」
沙耶は、オーガの注意を完全に自分へと引きつけながら、三本目、四本目の消火器を次々とその胸部に浴びせかけていく。オーガは、ますます凶暴化し、足元の敷石を蹴散らし、近くの街灯をなぎ倒し、手当たり次第に周囲のものを破壊し始めるが、沙耶の動きはそれを的確に予測し、翻弄し続ける。
オーガが振り下ろす巨大な拳を、華麗なスライディングで足元をすり抜けて回避し、間髪入れずにその背後へと回り込む。破壊されて傾いたオブジェの側面を駆け上がり、そこからオーガの肩口へと飛び移り、胸部にゼロ距離で食塩水を噴射すると同時に、オーガが自身を叩き潰そうとする腕を、まるで木の葉が舞うように軽やかにかわして再び地上へと舞い降りる。その戦いぶりは、もはや人間の域を超え、重力を自在に操るかのような、死と隣り合わせの危険な舞踏だった。彼女の1つ結びの黒髪が、その鋭い動きに合わせて美しい軌跡を描く。
そして、数分後。
「やった…!剥がれたぞ!」恭二が叫んだ。
食塩水を浴び続けたオーガの胸部中央の外皮が、バリバリという音と共に大きく剥がれ落ち、その下から、赤黒く不気味に脈打つ、ゼリー状の「核」のようなものが露わになったのだ!直径50センチほどのそれは、まるで巨大な心臓のように醜悪な鼓動を繰り返している。
「グルルルアアアアア!!!」
弱点を晒されたオーгаは、これまでにないほどの苦悶と怒りの咆哮を上げ、見境なく暴れ狂う。その衝撃波で、近くの建物の窓ガラスがビリビリと砕け散った。
「今だ!総攻撃をかけろ!」
小林先生の号令一下、恭二と正人が、決死の覚悟でオーガへと突進した。
「うおおおおっ!」
恭二は金属バットを、正人は木刀を、剥き出しになったオーガの「核」目掛けて叩きつける。しかし、オーガの抵抗も凄まじく、その巨腕の一撃で二人は何度も吹き飛ばされそうになる。
「くそっ、まだ力が…!」
「村田!援護を!」小林先生も鉄パイプで応戦しながら叫ぶ。
沙耶は、最後の食塩水をオーガの顔面と思われる部分に噴射し、その視界を一瞬奪うと、懐から田辺巡査長から託された拳銃を抜き放った。
(田辺さん…あなたの力、借ります…!)
彼女は、暴れ狂うオーガの動きを冷静に見極め、揺れる照準を、寸分の狂いもなく、剥き出しになった「核」へと合わせた。その集中力は、周囲の喧騒を完全に遮断し、彼女とターゲットだけの世界を作り上げていた。
そして――引き金を絞る。
ズドン!
乾いた銃声が、早朝のキャンパスに響き渡った。放たれた弾丸は、正確にオーガの「核」の中心を貫いた。
「ギ…ギ…ア……アアアア……」
岩石オーガは、信じられないというように自らの胸部を見下ろし、そして全身を激しく痙攣させた後、まるで糸の切れた人形のように、ゆっくりと前のめりに倒れ込み始めた。
地響きと共に、巨体が地面に叩きつけられ、完全に沈黙した。
「…やった…のか…?」
恭二は、肩で息をしながら、呆然と呟いた。周囲には、破壊されたオーガの残骸と、飛び散った体液、そして硝煙の匂いが立ち込めている。
沙耶は、拳銃を握りしめたまま、静かにオーガの亡骸を見下ろしていた。その端正な顔には、依然として感情は読み取れない。だが、彼女の頬を伝う一筋の汗と、僅かに上下する肩が、この戦いの激しさを物語っていた。
「…終わった…みたいだな」
小林先生が、安堵のため息と共に言った。
奈々と桜、そして康二と暦も、恐る恐る建物の陰から姿を現し、信じられないという表情で、倒れたオーガの巨体を見つめている。
彼らは、ついに、この湘南大学における最大の脅威の一つを、仲間たちとの連携と、そして沙耶の圧倒的な力によって打ち破ったのだ。




