第二章:終末都市の彷徨 [第二十話] 作戦会議
旧ボイラー室の裏手、朝靄が立ち込める森との境界で、一行は束の間、息を潜めていた。背後の図書館の方角からは、依然として「岩石オーガ」の咆哮と、何かが破壊される轟音が断続的に響いてくる。いつ、あの巨体がこちらへ向かってくるか分からないという恐怖が、彼らの心を重く支配していた。
「…このままでは、埒が明かない」小林先生が、厳しい表情で言った。「あの化け物をどうにかしない限り、我々はキャンパス内をまともに移動することも、ましてや安全に情報を集めることもできない」
「しかし、先生…あんなバケモノに、俺たちの武器でどうやって…」恭二が、絶望的な声を上げる。金属バットや木刀では、あの岩石のような外皮に傷一つつけられそうにない。沙耶の持つ拳銃も、弾丸は残り僅かだ。
その時、藤森暦が、康二と共に抱えてきた資料の束の中から、数枚の古びた実験ノートのページを震える手で取り出した。
「小林先生、康二くんとこれを見ていたんですが…もしかしたら、何かのヒントになるかもしれません」
暦が広げたノートには、おぞましい変異を遂げた生物のスケッチと、判読しづらい手書きの文字でびっしりと観察記録が記されていた。それは、沙耶が書庫の奥で一瞬だけ目にし、胸の奥に冷たい棘が刺さったような感覚を覚えた資料の一部だった。
「これは…例の『未知の病原体』と『未確認薬物』に関する初期の実験記録のようです」康二が、眼鏡の位置を直しながら説明する。「ほとんどが暗号化されているか、意図的に記述が曖昧にされていますが…この部分を見てください」
康二が指差したのは、ある実験体の「体組織の異常な石灰化、あるいは鉱物様変質」に関する記述と、その変質した組織サンプルに対する様々な化学薬品の反応テストの結果だった。
「多くの薬品が無効、あるいは逆効果だったと記されています。しかし…ここに、一つだけ興味深い記述が」暦が、興奮を抑えきれないといった様子で言葉を継ぐ。「『高濃度の塩化ナトリウム溶液…つまり、濃い食塩水に長時間曝露させた場合、鉱物様組織の結合が著しく脆弱化し、剥離する傾向が見られた』と…!」
「食塩水だと…?」恭二が、信じられないという顔で聞き返す。「あの岩石オーガに、食塩水が効くっていうのか?」
「あくまで仮説です」康二は冷静に訂正した。「この実験記録が、あの『岩石オーガ』と直接関連があるという確証はありません。ですが、もしあの巨体の硬質化した外皮が、この記録にある『鉱物様変質組織』と類似の組成を持っているとしたら…試してみる価値はあるかもしれません」
「具体的には、どうするんだ?」小林先生が、鋭い目で康二と暦を見据える。
「大量の食塩を用意し、可能であれば水に溶かして高濃度の食塩水を作る。そして、それを何らかの方法であの岩石オーガの外皮に集中的にかけることができれば…」暦が説明する。「もし、この記録通りなら、外皮が脆くなるか、あるいは一部が剥がれ落ち、内部の比較的柔らかい組織…つまり、弱点が露出する可能性があります」
沙耶は、その言葉を黙って聞いていた。彼女の脳裏には、先ほど屋上から見た岩石オーガの姿が焼き付いている。その巨体、分厚い外皮、そして…時折、その岩のような胸の中央部が、不気味に脈打っていたような気がした。もし、そこが「核」だとしたら…。
「食塩か…」小林先生は腕を組んだ。「確かに、人間の生活には馴染み深いものだが…この状況で、大量に手に入れられる場所があるか?」
「大学の…学生食堂の厨房なら!」奈々が、ハッとしたように声を上げた。「業務用として、大きな袋で塩を保管している可能性があります!」
「あるいは、化学系の研究室にも、純度の高い塩化ナトリウムが大量にあるかもしれません」康二も付け加える。
「よし…」小林先生は、決断した。「危険は承知だが、それに賭けてみる価値はある。我々の目標は二つ。一つは、大量の食塩を確保すること。もう一つは、それをあの岩石オーガに効果的に使用する方法を見つけ出し、奴を弱体化させ、露出した急所を破壊することだ」
その言葉に、生徒たちの顔に、再び緊張と、しかし僅かな希望の色が浮かんだ。ただ逃げ惑うのではなく、あの圧倒的な脅威に立ち向かうための、具体的な道筋が見えてきたのだ。
「問題は、どうやって学生食堂や研究室に近づくかだ。岩石オーガは、おそらく図書館周辺を徘徊している」恭二が懸念を口にする。
「陽動が必要だな」小林先生が答えた。「そして、食塩を確保した後、それをどうやって奴にかけるか…その手段も考えなければならん」
「私が、陽動と、奴への『散布』役を引き受ける」
静かに、しかし力強い声で、沙耶が言った。その瞳には、既に具体的な作戦が組み上がり始めているかのような、冷徹な光が宿っていた。
「沙耶ちゃん…!」
「お前たちは、食塩の確保と、それを運ぶ準備に集中しろ。そして、私が奴の動きを止めている間に、確実に急所を破壊する。いいな?」
彼女の言葉には、有無を言わせぬ決意が込められていた。
こうして、彼らの新たな作戦が始まった。目標は、湘南大学内に隠された「塩」。そして、その塩を使い、絶望的なまでの強敵「岩石オーガ」を打ち破ること。
それは、あまりにも無謀で、あまりにも危険な賭けだった。しかし、彼らにはもう、後戻りする道も、他の選択肢も残されてはいなかった。
一行は、再び薄暗いキャンパスへと、それぞれの決意を胸に足を踏み出す。
「目標は、学生食堂の厨房だ」
旧ボイラー室の薄暗がりの中、小林先生が、暦と康二が広げたキャンパスマップの一点を指差した。そこは、彼らが今いる大学の東端から見て、中央図書館を挟んで反対側、比較的大きな建物群の一角に位置していた。
「あそこなら、調理用に大量の塩が保管されている可能性が高い。化学系の研究室も候補だが、薬品の知識がない我々が不用意に立ち入るのは危険すぎるだろう」
「しかし、先生…」恭二が不安げに口を開いた。
「食堂へ行くには、あの岩石オーガが徘徊している図書館周辺を避けなければなりません。どうやって…?」
「私が陽動する」
即座に、村田沙耶が答えた。その瞳には、一切の迷いも揺らぎもない。
「私が奴の注意を引きつけ、図書館から遠ざける。その隙に、お前たちは最短ルートで食堂へ向かい、塩を確保しろ。その後、このボイラー室で再度合流だ」
「沙耶ちゃん、一人で…!?無茶だよ!」奈々が、悲鳴に近い声を上げる。
「無茶かどうかは、私が判断する」沙耶は、奈々の言葉を冷静に遮った。
「今のところ、奴の動きは鈍重だ。完全に私を捉えることはできないだろう。それに、私には田辺巡査長から託された『切り札』もある」
彼女は、腰のホルスターに収められた拳銃に軽く触れた。残弾は僅かだが、いざという時の抑止力、あるいは最後の手段として、その存在は大きい。
「だが、もしものことがあったら…」小林先生も、沙耶の単独行動には懸念を示した。
「その時は、その時だ。今は、感傷に浸っている余裕はないはずだ」沙耶の言葉は、非情なまでに現実的だった。
「私が時間を稼いでいる間に、確実に塩を確保し、ここへ戻ってこい。それが、全員が生き残るための最善手だ」
沙耶の決意は固く、もはや誰も彼女を止めることはできなかった。作戦は決まった。沙耶が単独で岩石オーガの陽動を行い、その間に小林先生、恭二、正人、康二、そして地理に詳しい暦の五名が学生食堂へ向かい、塩を確保する。奈々と桜は比較的安全と思われるこの旧ボイラー室で待機し、万が一に備える。
「…必ず、戻ってこい。村田」
出発の直前、小林先生が沙耶の肩に手を置き、低い声で言った。沙耶は、無言で一度だけ強く頷くと、闇に溶け込むようにボイラー室から姿を消した。彼女の気配は、あっという間に周囲の闇と一体化し、感じ取れなくなる。
「…行くぞ!」
小林先生の号令で、塩確保チームもまた、沙耶とは逆方向の、学生食堂へと続くルートへと慎重に足を踏み出した。
沙耶は、まず岩石オーガの注意を引くため、図書館の方向へと大胆に接近した。そして、建物の壁や大きな木々を利用し、まるで重力を無視したかのようなアクロバティックな動きでオーガの視界に入っては消え、を繰り返す。時折、石や金属片をオーガの巨体に投げつけ、その注意を自分へと集中させた。
「グルルルォォォォ!!」
岩石オーガは、ちょこまかと動き回る小さな影(沙耶)に苛立ち、巨体を揺らしながらそれを追い始めた。その度に、地面が揺れ、周囲の木々がなぎ倒される。沙耶は、その圧倒的な破壊力を紙一重でかわしながら、巧みにオーガを図書館から遠ざけ、キャンパスの西側、運動場のある方向へと誘導していく。その姿は、巨大な獣を手玉に取る、危険な踊り子のようでもあった。
一方、小林先生率いる塩確保チームは、沙耶が稼いでくれた時間を利用し、学生食堂へと続く最短ルートを急いでいた。暦が持つ古いキャンパスマップと、康二の記憶している現代の建物の配置情報を頼りに、彼らはレヴァナントの群れを避け、時には息を殺してやり過ごしながら、慎重に、しかし迅速に移動を続ける。
「…見えてきました!あれが、学生食堂です!」
暦が、前方を指差した。そこには、ガラス張りのモダンな二階建ての建物が見える。しかし、そのガラスは所々割れ、入口の自動ドアも中途半端に開いたまま止まっている。内部からは、微かに腐臭が漂ってきていた。
「…警戒を怠るな。中に奴らが潜んでいる可能性が高い」
小林先生は、鉄パイプを握り直し、恭二と正人に目配せする。五人は、食堂の従業員用と思われる裏口へと回り込み、そこから内部へと侵入した。
食堂の内部は、ひっくり返ったテーブルや椅子、床に散乱した食器や食べ残しなどで、見るも無残な状態だった。そして、その間を、数体のレヴァナントが徘徊している。
「…やはりいたか。数は五体。手早く片付けるぞ!」
小林先生の指示で、再び戦闘が開始された。恭二と正人は、以前よりも連携が取れた動きでレヴァナントに立ち向かう。暦は、後方で周囲を警戒し、康二はレヴァナントの動きを冷静に観察しながら、弱点となりそうな箇所を指示する。
「新井!、そいつの左足の動きが鈍い!そこを狙え!」
小林先生は、的確な指示と自身の戦闘力で、生徒たちを援護しながら確実にレヴァナントを仕留めていく。
数分後、食堂内のレヴァナントは全て沈黙した。幸い、こちらの被害は軽微な擦り傷程度だ。
「よし、今のうちに厨房を探すぞ!塩は、おそらく業務用の大きな袋で保管されているはずだ!」
小林先生の言葉に、一行は食堂の奥にある厨房へと向かった。厨房のドアを開けると、そこには食料を求めて侵入したのか、数体のレヴァナントの死骸と、そして…壁際に積まれた、白い粉が入った大きなビニール袋の山があった。
「…あった!塩だ!」恭二が、歓喜の声を上げる。
袋には、「業務用食塩 25kg」というラベルが貼られていた。それが、少なくとも五袋以上、無造作に積まれている。
「これだけあれば…!」暦も、興奮したように言った。「高濃度の食塩水を作るには十分すぎる量です!」
彼らは、手分けしてその塩の袋を、持ってきたリュックや、厨房で見つけた丈夫そうなゴミ袋などに詰め込み始めた。それは、絶望的な状況の中で掴んだ、確かな希望の欠片だった。
しかし、彼らが作業に没頭している間にも、沙耶が陽動している岩石オーガの咆哮と破壊音は、徐々にその方向を変え、再びこちらへ近づいてきているような不気味な予感を漂わせていた。




