表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
REVENANT: SHONAN ZERO  作者: 狐目の仮面
27/69

第二章:終末都市の彷徨 [第十九話] 巨影


 沙耶が連れてきた藤森暦と、彼女が発見したおびただしい量の不穏な研究資料を前にして、図書館の一室に集まった一行は、しばし言葉を失っていた。暦と宮増康二が交わす専門的な用語や、資料の断片から垣間見える非倫理的な実験の痕跡は、この大学の静寂の裏に隠された闇を雄弁に物語っているようだった。

沙耶は、それらの資料から意識的に視線を外し、部屋の隅で静かに息を整えていた。先ほど資料の一部に触れた際に感じた、胸の奥底で疼くような不快な感覚の正体はまだ掴めない。しかし、今はそれを探る時ではないと、彼女の本能が告げていた。

「…改めて紹介する。こちらは藤森暦さん。この湘南大学の学生で、この図書館で独自に調査を続けていた。今日から、我々の仲間だ」

小林先生が、重苦しい空気を破るように暦を正式に紹介した。

「藤森暦です。専門は歴史学ですが…この状況では、あまり役に立たないかもしれません。でも、皆さんの力になれるよう、精一杯頑張ります」

暦は深々と頭を下げた。その表情には、緊張と、そして新たな仲間を得たことへの僅かな安堵が浮かんでいる。

「よろしく、藤森さん。俺は新井恭二。こっちは…」

恭二が代表して挨拶し、加藤正人、遠藤桜、そして工藤奈々を順に紹介した。奈々は暦に優しく微笑みかけ、桜も少しおどおどしながら会釈する。正人は無言で頷いた。

「宮増康二だ。君の持ってきた資料、非常に興味深い。ぜひ、一緒に分析させてほしい」

康二は、既に暦が抱える資料の束に熱い視線を送っていた。その瞳は、研究者特有の強い探究心に輝いている。

「ええ、もちろん!私も、一人ではどう分析していいか途方に暮れていたところだったから、助かるわ!」

暦と康二は、すぐに意気投合したようだった。

「よし」小林先生は、二人の様子に頷くと、改めて全員に指示を出した。

「康二と藤森さんは、この部屋で資料の初期分析を開始してくれ。ただし、無理は禁物だ。交代で休息も取るように。我々他の者は、館内の他のエリアの安全確認と、追加の物資探索を行う。特に、医務室や学生食堂、そして大学の売店なども確認しておきたい」

「食料は、ほとんど期待できないかもしれませんね」恭二が言った。

「大学の売店なんて、真っ先に狙われそうですし」

「かもしれんな。だが、確認する価値はある。それに、医薬品や衛生用品、あるいは電池やロープといったサバイバルに役立つ道具が見つかるかもしれん」

小林先生は、図書館の見取り図を広げ、探索ルートと分担を指示し始めた。沙耶、恭二、正人が先行し、危険がないか確認しながら進み、小林先生がその後方から全体を指揮し、奈々と桜は、康二と暦のいるこの閲覧室に残り、彼らのサポートと、確保した物資の整理、そして万が一の際の救護を担当することになった。

「村田さん」出発の準備をしながら、恭二が沙耶に小声で話しかけた。

「さっきの資料…何か気になることでもあったのか?顔色が悪かったように見えたが…」

沙耶は、一瞬だけ恭二の顔を見たが、すぐに視線を逸らした。

「…別に。少し、空気が悪かっただけだ」

その素っ気ない返事に、恭二はそれ以上何も聞けなかった。

だが、彼女が何かを感じ取っているのは明らかだった。

こうして、湘南大学図書館を拠点とした、彼らの本格的な探索と情報収集が始まった。

康二と暦は、持ち込まれた資料の膨大な量に圧倒されながらも、一枚一枚丁寧に目を通し始めた。そこには、おぞましい変異を遂げた生物のスケッチ、意味不明な文字列や記号で暗号化された実験データ、そして「被験体」と呼ばれる人間たちへの非人道的な処置を記録したかのような記述が、断片的にだが確実に存在していた。

「…この記述のパターン…何か特定のコードで書かれている可能性があるな」康二が、タブレットにデータを入力しながら呟く。

「もし解読できれば、この病原体の特性や、あるいは開発者の意図が分かるかもしれない」

「こっちの古文書には、この地域で過去に発生した原因不明の『奇病』に関する記述があるわ」暦も、分厚い本をめくりながら報告する。

「症状の描写が、今回の『レヴァナント』と酷似している点がいくつか…。偶然とは思えない」

二人の若い知性は、互いの専門知識を補い合いながら、この世界の崩壊の謎へと、少しずつではあるが確実に迫ろうとしていた。

一方、沙耶、恭二、正人、そして小林先生の探索チームは、図書館の他のフロアや、隣接する講義棟へと足を踏み入れていた。広大なキャンパスは、依然として不気味なほどの静寂に包まれている。しかし、その静寂が、逆に彼らの警戒心を高めていた。

(この静けさは、嵐の前の静けさか…それとも…)

沙耶は、常に五感を研ぎ澄ませ、僅かな物音や気配も聞き逃すまいと神経を集中させていた。彼女の腰には、田辺巡査長から託された拳銃が、重い存在感を放っている。

彼らの探索は、果たして何をもたらすのか。そして、この静寂のキャンパスには、本当に彼ら以外の「生きている者」は存在しないのだろうか。


講義棟の内部は、図書館と同様に荒らされた形跡は少ないものの、人気はなく、床には学生たちが急いで避難した際に落としたであろうノートや筆記用具が散乱していた。いくつかの教室のドアは開け放たれており、中には誰かが一時的に寝泊まりしたかのような痕跡――毛布の代わりに使用されたカーテンや、空のペットボトル――が残されている場所もあった。

「…やはり、暦さん以外にも、まだ誰か隠れているのかもしれないな」恭二が、声を潜めて言った。

「だとしても、この状況だ。簡単に我々を信用するとは思えん」小林先生は、周囲への警戒を怠らずに答える。「むしろ、敵対してくる可能性も考慮すべきだ」

沙耶は、何も言わずに先行し、その鋭敏な五感で微かな人の気配や、レヴァナントの痕跡を探っている。彼女の腰のホルスターに収められた拳銃は、まだ一度も火を噴いていない。

数十分後、彼らが学生食堂や売店がありそうな厚生棟の一階にたどり着いた時だった。沙耶が不意に立ち止まり、片手を挙げて後続を制した。

「…中に、人がいる。複数だ」

彼女の視線の先、厚生棟の奥まった場所にある、おそらくは学生団体の部室か倉庫として使われていたと思われる部屋のドアが、内側から粗雑なバリケードで塞がれているのが見えた。そして、その隙間からは、微かに話し声と、何かをすするような音が漏れ聞こえてくる。

小林先生と恭二は顔を見合わせ、頷き合った。

「…声をかけてみるか」小林先生が、静かに言った。「我々は敵ではないと、まずは伝える必要がある」

彼は、ゆっくりとバリケードのドアに近づき、穏やかな、しかし通りの良い声で呼びかけた。

「もしもし、どなたか中にいらっしゃいますか?我々は、この大学に避難してきた者です。敵意はありません。少し、お話を伺えませんか?」

しばらくの沈黙の後、ドアの隙間から、怯えたような若い男の声が返ってきた。

「…な、何者だ!?レヴァナントじゃないのか!?」

「ああ、違う。我々も生存者だ。食料と安全な場所を求めて、ここへ来た」小林先生は、できるだけ相手を刺激しないように言葉を選んだ。

「…信用できるか!お前たち、何人いるんだ!?武器は持っているのか!?」

声は疑心暗鬼に満ちている。無理もない、と小林先生は思った。この状況では、人間こそが最も恐ろしい敵になり得るのだから。

「我々は五人だ。教師一名と、中学生が四名。武器は護身用に最低限持っているが、君たちを襲うつもりは毛頭ない。ただ、情報交換と、もし可能であれば、物資を少し分けてもらえないかと思って来た」

「物資だと!?ふざけるな!俺たちの分だってギリギリなんだ!とっとと失せろ!」

別の、より攻撃的な声がドアの向こうから響いた。どうやら、中には複数の人間がおり、意見も一枚岩ではないらしい。

「…話にならないようだな」沙耶が、小林先生の背後から静かに呟いた。その手は、既に文化包丁の柄にかかっている。

「待て、沙耶」小林先生は、沙耶を制するように片手を挙げた。「まだだ」

彼は、再びドアに向かって呼びかけた。「我々は、この大学の図書館を拠点にしている。もし、君たちが助けを必要としているなら、あるいは協力できることがあるなら、いつでも声をかけてくれ。食料は多くないが、医薬品なら多少の備えがある」

そう言って、小林先生は恭二たちに目配せし、ゆっくりとその場を離れようとした。力ずくで何かを得ようとするのは、最終手段だ。今はまだ、無用な争いを避けるべきだと彼は判断した。

しかし、彼らが背を向けようとした瞬間、バリケードのドアが勢いよく開き、中から三人の男子学生(大学生だろうか)が、角材や金属パイプを手に飛び出してきた。彼らの目は血走り、表情は恐怖と攻撃性で歪んでいる。

「待てと言っただろうが!お前ら、本当に何も奪う気はないんだろうな!?」

「だったら、そのリュックの中身を見せろ!」

「そうです!きっと、いいもの隠してるんでしょう!」

彼らは、明らかにパニック状態に陥っており、正常な判断能力を失っているようだった。

「落ち着け!我々は本当に敵意はないと言っているだろう!」恭二が、思わず声を荒げる。正人も、木刀を握る手に力を込めた。

一触即発の状況。

小林先生が、彼らの間に割って入ろうとした、その時――。

沙耶が、音もなく三人の学生たちの背後に回り込んでいた。その動きは、あまりにも速く、そして静かで、誰も彼女の移動に気づかなかった。

「…これ以上、時間を無駄にするな」

沙耶の冷たい声が、学生たちの背後から響いた。三人が驚いて振り返った瞬間、沙耶の手にした文化包丁の峰が、それぞれの首筋に的確に打ち込まれた。それは、殺傷を目的としたものではなく、的確に相手の意識を刈り取るための一撃。

「ぐっ…」「あがっ…」

三人の学生たちは、短い呻き声を上げ、その場に崩れ落ちた。

「…!」

恭二と正人は、あまりの早業に言葉を失う。小林先生も、沙耶の容赦のない判断力と実行力に、改めて戦慄を覚えた。

沙耶は、倒れた学生たちを一瞥すると、バリケードの奥、部屋の中にいるであろう残りの生存者たちに向かって静かに言った。

「…我々は、君たちに危害を加えるつもりはない。だが、これ以上の抵抗は無意味だ。食料、医薬品、情報…何か、我々が提供できるもの、あるいは君たちが提供できるものがあるなら、話し合いたい。なければ、我々は静かに立ち去る」

部屋の奥からは、怯えたような女性の啜り泣きと、もう一人、か細い男の声が聞こえてくるだけだった。

小林先生は、深くため息をつくと、沙耶の行動を制止しなかったことを内心で悔やみつつも、この状況を収拾するために、部屋の中へとゆっくりと足を踏み入れた。

この大学にも、確かに生存者はいた。しかし、彼らは暦のように理性的ではなく、極度の恐怖と疑心暗鬼に囚われた、新たな「脅威」となり得る存在だったのだ。


 沙耶によって三人の男子学生が瞬く間に無力化された後、バリケードの奥の部屋は恐怖に満ちた静寂に包まれた。か細い女性の啜り泣きと、もう一人、震える男の声が微かに聞こえてくるだけだった。

「…もう、何もしないでくれ…頼むから…」

小林先生は、深くため息をつくと、沙耶と恭二、正人に「外で待っていろ。ここの者たちとは、私が話す」と指示し、一人でゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。床には、先ほど沙耶に制圧された三人の学生が、呻き声を上げながら転がっている。

部屋の奥には、怯えきった表情の女子学生と、顔面蒼白で震えが止まらない男子学生が一人、隅で肩を寄せ合っていた。

「…私たちは、君たちに危害を加えるつもりはない」小林先生は、できるだけ穏やかな声で語りかけた。「ただ、この状況で、生き残るためには情報交換と協力が必要だと考えただけだ。残念ながら、君たちの仲間は少し…興奮しすぎていたようだが」

彼は、床に転がる学生たちを一瞥した。

「こ、殺さないで…私たちは、何も…」女子学生が、涙ながらに懇願する。

「繰り返すが、我々に君たちを傷つける意思はない。ただ、いくつか聞きたいことがある。君たちは、いつからここに?この大学の他の場所の状況は?そして、食料や医薬品の備蓄は…」

小林先生は、辛抱強く、しかし的確に質問を重ねた。最初は怯えていた二人も、小林先生の落ち着いた態度と、威圧感のない話し方に、少しずつ警戒を解き始めた。

彼らの話によれば、このグループ(リーダー格の男を含め、同じサークルの仲間5人)はアウトブレイク発生時からこの部室に籠城し、持ち込んだ僅かな食料で食いつないでいたらしい。外部の情報はほとんどなく、レヴァナントの恐怖と、他の生存者への不信感から、完全に孤立していた。医薬品はほとんどなく、食料も今日明日中には尽きるだろうとのことだった。

小林先生は、彼らの窮状を理解しつつも、今の自分たちに彼ら全員を保護する余裕はないと判断した。

「…分かった。君たちの状況は理解した。我々も、多くの物資を持っているわけではないが…これを」

彼は、リュックから缶詰数個と、沙耶が確保した医療品の中から未使用の包帯と消毒液を取り出し、彼らの前に置いた。

「え…?」二人は、信じられないという表情で小林先生を見る。

「気休めにしかならんかもしれんが、ないよりはマシだろう。ただし、これ以上の援助は難しい。我々も、多くの仲間を抱えている」

そして、彼は言った。「この大学の図書館の一階閲覧室に、我々の仮拠点がある。もし、本気でここから脱出し、助け合って生き延びたいと考えるなら、後でそこへ来るといい。だが、自分勝手な行動や、仲間を危険に晒すような真似は許さん。いいな?」

二人は、何度も頷いた。その瞳には、僅かながらも安堵と感謝の色が浮かんでいる。

小林先生は、床に倒れている三人の学生たちに目をやった。「彼らは…しばらくすれば意識は戻るだろう。よく言い聞かせておけ」

そう言い残し、彼は部屋を後にした。

外で待っていた沙耶、恭二、正人に、小林先生は状況を簡潔に伝えた。

「…やはり、芳しい成果はなかったな。だが、無用な争いは避けられた」

「あの…倒した学生たちは、どうするんですか?」恭二が尋ねる。

「放置するしかない。我々に、彼らの面倒まで見る余裕はない。それに、彼らが改心するかどうかも分からんからな」小林先生は、非情な現実を口にした。「行くぞ。図書館に戻り、奈々さんたちに報告だ」

探索チームは、重い足取りで図書館の仮拠点へと戻った。途中、いくつかの講義棟や研究室を覗いてみたが、めぼしい物資は見つからず、代わりに数体のレヴァナントの死骸(おそらく他の生存者が争った跡か、あるいは彼らが知らないうちに沙耶が処理したものか)を発見しただけだった。

閲覧室では、奈々、桜、そして暦と康二が、不安げな表情で彼らの帰りを待っていた。

「おかえりなさい!皆さん、ご無事で…!」奈々が駆け寄る。

小林先生は、探索の結果と、厚生棟での他の生存者グループとの遭遇、そして沙耶が三人を無力化した経緯を、ありのままに報告した。

その内容に、奈々と桜は顔を曇らせた。特に沙耶の行動については、先ほどの教室での出来事も相まって、彼女たちの中に複雑な感情が渦巻いているようだった。しかし、暦は冷静にその報告を聞き、康二は「やはり、他の生存者グループとの接触は慎重に行うべきですね。彼らが友好的とは限らない」と分析的なコメントを述べた。

「いずれにせよ、この大学も完全に安全とは言えないようだ」小林先生は、結論づけた。「康二、藤森さん、例の資料の分析は進んでいるか?」

「はい、いくつか気になる記述が…」康二が、タブレットの画面を示しながら説明を始めようとした、その時だった。

ドォォォン!!

突如として図書館の外から響き渡った凄まじい轟音と、それに伴う微かな地響きに、閲覧室にいた全員が息を飲んだ。宮増康二と藤森暦は、分析していた資料から顔を上げ、恐怖に目を見開いている。工藤奈々は遠藤桜を庇うように抱きしめ、新井恭二と加藤正人は、反射的に武器を構えて窓の方へと駆け寄った。

「な、なんだ今の音!?爆発か!?」恭二が叫ぶ。

「…レヴァナントではない。もっと…大きな何かだ」

沙耶は、既に文化包丁を抜き放ち、音のした方向――おそらくは図書館の正面玄関、あるいはキャンパスの正門に近い方角――を鋭く見据えていた。彼女の黒曜石のような瞳が、微かに細められる。

小林先生も、鉄パイプを手に取り、険しい表情で窓の外の気配を探っていた。「全員、落ち着け!むやみに動くな!」

閲覧室は一階にあり、窓は高い位置にあるため、直接外の様子を詳しく見ることはできない。しかし、先ほどの轟音の後、遠くで何かが崩れるような音や、獣の咆哮ともつかない、低く不気味な地鳴りのような音が断続的に響いてきている。それは、彼らがこれまでに遭遇したどのレヴァナントとも異なる、圧倒的な質量と力を感じさせる音だった。

「…確認してくる」

沙耶が、低い声で呟き、音もなく部屋の出口へと向かおうとした。

「待て、村田さん!一人じゃ危険だ!」恭二が慌てて制止する。

「いや、村田の言う通りだ。状況を確認しなければ、対策の立てようもない」小林先生は、沙耶の判断を支持した。「だが、一人で行かせるわけにはいかん。沙耶、恭二、正人、俺と四人で図書館の屋上へ出てみる。そこからなら、キャンパス全体を見渡せるはずだ。他の者は、ここで待機。万が一に備え、いつでもここから移動できるように準備だけはしておけ」

「先生、私も行きます!」奈々が、沙耶を心配して声を上げた。

「ダメだ、工藤」小林先生は、しかし首を横に振った。「お前は遠藤さんを頼む。それに、康二と藤森さんの資料分析も重要だ。ここが襲われた場合、その資料を持って安全に撤退させるのがお前の役目だ」

「でも…」

「これは命令だ」小林先生の言葉は、有無を言わせぬ響きを持っていた。奈々は、唇を噛み締め、悔しそうに頷いた。

沙耶、小林先生、恭二、正人の四人は、武器を手に、息を殺して図書館の階段を駆け上がり、屋上へと続く扉の前に立った。扉は施錠されていなかった。小林先生が慎重に扉を押し開け、まず沙耶が猫のようにしなやかな動きで屋上へと滑り込む。

屋上は風が強く、早朝の冷たい空気が肌を刺した。そこから見下ろす湘南大学のキャンパスは、依然として朝靄の中に静まり返っているように見えたが――。

「…あれは…」

恭二が、息を詰まらせて指差した。

キャンパスの正門近く、本来なら堅牢なはずのコンクリート製の外壁の一部が、まるで巨大な槌で打ち砕かれたかのように、無残に破壊されていたのだ。そして、その破壊された壁の向こうから、一体の異形の巨体が、ゆっくりとキャンパス内へと侵入してくるところだった。

それは、彼らがこれまでに遭遇したどの存在とも比較にならないほど巨大だった。身長は三メートルを優に超え、異常に肥大した上半身と岩のような腕を持ち、その全身はまるで様々な色の岩石や、もしかしたらコンクリート片のような無機物を無理やり融合させたかのような、歪な質感の硬い外皮で覆われている。その動きは鈍重に見えるが、一歩踏み出すたびに地面が微かに揺れ、周囲の植え込みをなぎ倒し、放置されていた自転車を玩具のように踏み潰していく。

「…なんだ、あれは…」正人が、呆然と呟いた。彼の剛腕をもってしても、あんな化け物に太刀打ちできるとは到底思えなかった。

「…新しい種類の変異体か…あるいは、あの病原体が、これほどまでの怪物をも生み出すというのか…」

小林先生も、その異様な姿に言葉を失い、戦慄を隠せない。

沙耶は、黙ってその巨体の動きを観察していた。その瞳は、相手の弱点や行動パターンを分析するかのように、冷徹な光を宿している。

「うわ…なんだよ、あれ…まるでゲームに出てくる岩のゴーレムか、オーガみたいじゃないか…」

恭二が、恐怖と興奮がないまぜになったような声で、思わずそう口にした。

「…そうだ、『岩石オーガ』だ!俺、今からあれをそう呼ぶぞ!」

この期に及んでの能天気なネーミングに、沙耶が僅かに眉をひそめ、正人も心底呆れたような顔で恭二を一瞥したが、恭二は気づいていない。

その「岩石オーガ」と名付けられた巨大な変異体は、キャンパス内を徘徊し始めた。その目的は不明だが、明らかに周囲のものを手当たり次第に破壊し、何かを探しているか、あるいは縄張りを主張しているように見える。そして、その進路は、不幸にも、彼らが拠点としているこの中央図書館の方向へと、ゆっくりとだが確実に向かっていた。

「まずい…!こっちに来るぞ!」恭二が、今度は本当に焦った声を上げる。

「全員、すぐにここを離れる!図書館はもう安全ではない!」小林先生が即座に決断を下した。「康二たちに連絡し、確保した資料と最低限の物資だけを持って、裏口から脱出する!急げ!」

屋上にいた四人は、慌てて階段を駆け下り、閲覧室へと戻る。

湘南大学の静寂は、この「岩石オーガ」の出現によって完全に破られた。彼らは、束の間の安息の地を追われ、再び死と隣り合わせの逃避行へと身を投じなければならなくなったのだ。そして、あの巨体が、彼らの行く手に立ちはだかる新たな絶望となることは、もはや疑いようもなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ