序章:沙耶の観察眼 – カフェにて
放課後、沙耶は駅前のカフェの窓際席に座っていた。特定の誰かと待ち合わせているわけではない。ただ、流れるように移り変わる人間模様を眺めるのが、彼女にとって数少ない「日常」の一部だった。
目の前を通り過ぎる人々。スマートフォンを見つめながら早足で歩くサラリーマン、楽しそうに腕を組んで笑い合うカップル、制服姿で大きなバッグを抱えた部活帰りの学生たち。沙耶は、彼らの表情、仕草、声のトーン、視線の動き、その全てを記憶し、分析しているかのようだった。特定の感情を抱くわけではない。それは、昆虫学者が観察対象を入念に調べるのに似ていた。
この街の人間は、何を考え、何を求め、何に怯え、何に喜ぶのか。
彼女の過去が、そうさせたのかもしれない。常に周囲を警戒し、他者の意図を読み解かなければ生き延びられなかった日々。その名残が、平和な日本の、この湘南の街でも、彼女を無意識の緊張状態に留めている。
一杯のコーヒーをゆっくりと飲み干し、沙耶は静かに席を立った。彼女の端正な横顔に、カフェの店員や他の客が思わず目を惹かれるが、沙耶は誰とも視線を合わせることなく店を出ていく。その姿は、都会の喧騒の中に溶け込みながらも、どこか異質な存在感を放っていた。