第一章:生存への選択 [第十一話] 分断された脱出2
第一章:生存への選択 [第十一話] 分断された脱出2
校舎一階の廊下で活性死者の大群に遭遇し、小林先生の苦渋の決断により、一行は二手に分かれることとなった。
「村田!工藤!お前たちはそのまま駐車場へ向かえ!なんとかしてバスを確保しろ!俺たちは職員室で鍵を手に入れ、必ず合流する!」
小林先生の悲痛な叫びを背に、村田沙耶は工藤奈々の手を強く引き、押し寄せる活性死者の間隙を縫って駆け出した。恭二と正人が、一瞬だけ彼らの退路を確保するように活性死者の数体を食い止めるのが見えた。
「こっちだ!」
沙耶は、校舎の裏手へと続く出口の一つへと奈々を導いた。そこから外に出れば、駐車場へは少し遠回りになるが、校舎内に密集する活性死者の群れを避けられるかもしれない。そして、そのルート上には、学校に隣接する市民公園があった。
息を切らしながら校舎の外へ転がり出ると、そこは先ほどまでの喧騒とは打って変わって、不気味なほど静かだった。しかし、遠くからは依然としてサイレンの音や、時折、銃声のような乾いた音も聞こえてくる。街全体が機能を失い始めているのは明らかだった。
「はぁ、はぁ…沙耶ちゃん、こっちで…本当に大丈夫なの?」奈々は、不安げに周囲を見回す。
「校舎の中よりはマシだ。だが油断はするな。公園内にも『奴ら』が入り込んでいる可能性は高い」
沙耶は文化包丁を握り直し、警戒を怠らずに公園の茂みへと足を踏み入れた。公園は、数時間前まで子供たちの笑い声が響いていたであろう遊具やベンチが、今はまるで墓標のように静まり返っている。所々に見える血痕や、引き裂かれた衣服の残骸が、ここでも惨劇があったことを物語っていた。
案の定、公園の中程まで進んだとき、茂みの中から一体の活性死者がふらりと姿を現した。それは、おそらく公園の管理人だった初老の男性の成れの果てだった。
「奈々、下がっていろ」
沙耶は短く告げると、地面を蹴った。彼女の体は、まるで羽が生えたかのように軽やかに宙を舞い、活性死者の頭上を飛び越える。空中で体勢を反転させると、落下しながら相手の首筋に文化包丁を深々と突き立てた。一切の無駄も躊躇もない、流れるようなアクロバティックな動き。活性死者は声もなく崩れ落ちた。その戦闘スタイルは、奈々にとって何度見ても現実離れしており、美しさと恐ろしさが同居していた。
さらに数体、公園内に潜んでいた活性死者を同様に処理しながら進むと、公園の出口に近い、大きな桜の木の下で、二人は信じられない光景を目にした。
数体の活性死者の死体が転がり、その中心で、一人の警察官が肩で荒い息をつきながら、拳銃を構えて周囲を警戒していたのだ。しかし、彼の左肩と脇腹は赤黒く染まり、立っているのもやっとという状態に見える。
「警察の人…!」奈々が声を上げる。
その声に気づいた警察官は、鋭い視線を二人へと向けたが、それがまだ幼い少女たちであること、そして沙耶のただならぬ雰囲気を察すると、僅かに警戒を解いた。
「…君たちは、中学生か?無事だったんだな…」
警察官は、苦痛に顔を歪ませながらも、努めて穏やかな声を出した。
「私は、神奈川県警藤沢北署の田辺勇だ。見ての通り…少し、ヘマをしちまってね…」
彼は自嘲気味に笑おうとしたが、激しく咳き込み、その場に片膝をついた。
「田辺さん!大丈夫ですか!?」奈々が駆け寄ろうとする。
「来るな!」田辺は鋭く制した。「私は…もう、ダメだ。肩を…深く噛まれた。こいつは…感染る…」
その言葉に、奈々の顔から血の気が引いた。沙耶は、黙って田辺の傷の状態と、彼の瞳の奥に宿る諦観、そしてまだ消えない意志の光を見つめている。
「…君たち、もし…もし市役所の方へ向かうことがあるなら…妻と、娘に…伝えてくれないだろうか…」田辺は、途切れ途切れに、しかし必死に言葉を紡いだ。「妻の名は、亜希子…総務課にいるはずだ。娘は…栞。まだ、小さいんだ…」
彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「二人には…心の底から愛している、と。そして…俺の分まで…どうか、長生きして欲しい、と…そう、伝えてくれ…」
その言葉は、あまりにも切実で、感動的だった。奈々は、こらえきれずに嗚咽を漏らし始めた。
田辺は、震える手で自身の拳銃と、腰のホルスター、そして胸ポケットから警察手帳を取り出した。
「これを…受け取ってくれ。お嬢さん、君なら…使いこなせるかもしれん」彼は、沙耶の静かな瞳を見つめて言った。沙耶は、黙ってそれらを受け取る。
「拳銃は…確か、残弾は四発のはずだ。少ないが、無いよりはマシだろう。警察手帳は、身元の証明になるかもしれん。…このホルスターも、まさかこんな可愛い女子中学生に着けられるとは思ってなかっただろうな…」彼は、最後の力を振り絞って、微かに笑った。
そして、その笑顔がふっと真剣なものに変わる。彼は、沙耶の目を真っ直ぐに見据え、言った。
「お嬢さん…こんな世界になっちまったからこそ…人間らしさを、失わないでくれ。それが…どんなに難しくても…」
その言葉は、まるで遺言のように、沙耶の心の奥深くに突き刺さった。
「…必ず、伝えます」沙耶は、静かに、しかしはっきりと答えた。「あなたの言葉も、あなたの想いも」
田辺は、その言葉に安心したように、穏やかな表情になった。奈々が、そっと彼の手を握る。
「…二人とも…気をつけて…行くんだぞ…」
それが、彼の最期の言葉だった。彼の体から力が抜け、握られていた奈々の手から、ゆっくりと滑り落ちていく。
「田辺さん…!田辺さーん!」
奈々の悲痛な叫びが、静まり返った公園に虚しく響いた。
沙耶は、田辺勇の亡骸を静かに見下ろし、そして受け取った拳銃をホルスターに収め、それを自分の腰にしっかりと装着した。警察手帳は、制服の内ポケットに丁寧にしまい込む。
彼女の瞳には、新たな決意と、託されたものの重み、そして…ほんの僅かだが、人間的な何かが揺らめいているように見えた。
田辺巡査長の亡骸に静かに別れを告げた沙耶と奈々は、再び駐車場を目指して歩き始めた。先ほどまでの公園内の戦闘で活性死者の数は減ったものの、いつどこから新たな脅威が現れるか分からない。沙耶は、奈々の手を固く握り、周囲を警戒しながら先導する。彼女の小さな手は、汗で湿り、微かに震えていたが、その力強さが奈々に唯一の安心感を与えていた。奈々は、時折立ち止まっては、記憶と勘を頼りに駐車場の方向を確認する。
しばらく無言で歩き続けていたが、不意に奈々が口を開いた。その声は、まだ恐怖と悲しみで震えている。
「…ねえ、沙耶ちゃん」
沙耶は、足を止めずに、視線だけで応えた。
「家庭科室でのこと…恭二くんたちが話してたの、少し聞いたんだけど…。本当に、あそこまでする必要、あったのかな…?」
奈々の問いかけは、非難というよりも、純粋な疑問と、そして沙耶の行動を理解したいという切実な願いが込められていた。
沙耶は、数秒の間を置いて、短く答えた。
「…考えている時間は、なかった」
その言葉には、一切の感情が乗っていなかった。だが、奈々は食い下がる。
「でも…彼らを、無理やりにでも一緒に連れ出すっていう選択肢は…なかったの…?みんな、同じ学校の生徒だったのに…」
沙耶は、そこで初めて足を止め、奈々の方へと向き直った。その黒曜石のような瞳が、じっと奈々を見つめる。夕焼けの赤い光が、彼女の端正な顔立ちを不気味なほど美しく照らし出していた。
「…これ以上の人数を、今の私一人の力で確実に護り抜くのは難しい」
静かだが、有無を言わせぬ響きだった。そして、彼女は言葉を続ける。その声には、ほんの僅かだが、これまで奈々が聞いたことのないような感情が滲んでいた。
「特に…奈々、お前には…感謝している。私に、何度も声をかけてくれた。お前は…生きていて欲しい。絶対に」
「沙耶ちゃん…」
奈々は、沙耶のその予期せぬ言葉に、胸が締め付けられるような思いだった。彼女が、自分に対してそんな風に思っていてくれたなんて。
「日本という国では、私のこれまでの行動は…冷徹だとか、非情だとか思われても仕方がないのかもしれない」沙耶は、自嘲するように、ほんの少しだけ唇の端を歪めた。「だが、私が生きてきた世界では、躊躇は死を意味した。感傷は、仲間を危険に晒すだけだった」
その言葉の端々から、奈々には窺い知れない、沙耶の壮絶な過去が垣間見えるようだった。
奈々は、沙耶の瞳の奥にある深い葛藤と、そして自分たちに向けられた切実なまでの庇護の意志を感じ取った。彼女が常に冷静沈着で、時に非情とも思える判断を下すのは、決して感情がないからではない。むしろ、この崩壊した世界で、大切な仲間たちを、特に自分を守り抜くために、必死に感情を押し殺し、最善手を模索し続けているのだ。彼女もまた、この極限状況の中で、人知れず悩み、苦しみ、戦っている。
(沙耶ちゃんも…悩んでるんだ…苦しんでるんだ…私たちのために…)
その理解は、奈々の心に温かい何かを灯した。それは、沙耶への恐怖を溶かし、より深い部分での共感と、そして彼女を支えたいという強い想いだった。
「…ありがとう、沙耶ちゃん。私…沙耶ちゃんの気持ち、少しだけ、分かった気がする」
奈々は、涙を堪えながら、精一杯の笑顔を作った。
沙耶は、その笑顔を黙って見つめ、そして再び奈々の手を引き、駐車場へと歩き始めた。二人の間に、言葉はなかった。だが、握られた手の温もりを通じて、確かな何かが通い合っているのを、奈々は感じていた。