第一章:生存への選択 [第九話] 教師たちのエゴ
第一章:生存への選択 [第九話] 教師たちのエゴ
沙耶が持ち帰った僅かな包帯と消毒液で、奈々は桜や他の生徒たちの擦り傷の手当てを急いでいた。教室のバリケードは応急処置的に補強されたものの、先ほどの襲撃でその脆弱性は明らかだった。いつまた活性死者がなだれ込んでくるか分からないという恐怖が、教室の空気を重く支配している。
「…ここも、もう安全じゃない」新井恭二が、苦渋の表情で呟いた。「食料も水もない。もっと安全で、物資のある場所を探さないと…」
「学校の備蓄倉庫だ」沙耶が、窓の外の気配を探りながら低い声で言った。
「災害時用の食料や毛布、医薬品が保管されているはずだ。場所は…体育館の裏手だったか」
その言葉に、生徒たちの間に僅かな希望と、しかしそれ以上の不安が広がった。備蓄倉庫へたどり着くには、再びあの危険な廊下や階段を通り抜けなければならない。
「だが、そこには…他の先生たちも避難しているかもしれないぞ」宮増康二が、懸念を口にした。
「僕たちだけに物資を分けてくれるとは限らない」
「それでも、行くしかない」恭二は決意を固めた。「このままじゃ、じり貧だ。沙耶さん、先導を頼めるか?」
沙耶は無言で頷いた。
再び、沙耶を先頭とした一団が、息を殺して教室を後にする。今度は、奈々と桜、そして動ける他のクラスメイト数名も同行していた。先ほど手に入れた金属バットや木刀が、彼らの唯一の頼りだ。
幸い、道中での大規模な遭遇は避けられ、彼らは体育館裏の備蓄倉庫にたどり着いた。扉には鍵がかかっていたが、内側から複数の話し声と物音が聞こえる。
恭二が代表してドアをノックし、「三年B組の新井です!他の生徒もいます!ここを開けてください!」と声を張り上げた。
扉が僅かに開き、男性教師――宮本が顔を覗かせたが、その表情は露骨な警戒心に満ちていた。
「新井か…今はまずい、後にしろ」そう言って扉を閉めようとする。
「待ってください、宮本先生!僕たちも避難させてください!食料も水も限界なんです!」
扉の隙間から、宮本を含む数名の教師たちが、段ボール箱から物資を取り出し、自分たちのリュックに大急ぎで詰め込んでいるのが見えた。彼らは生徒たちを見捨て、自分たちだけで脱出しようとしているのだ。
「…あなたたちは、生徒を見捨てるつもりですか」
静かだが、怒りを抑えた小林先生の声が響いた。彼は生徒たちの後方から現れ、その手には鉄パイプが握られている。
「宮本、お前たちのやっていることは何だ!生徒たちの安全確保が先だろう!」
「うるさい!小林、お前には関係ない!」宮本が逆上して叫ぶ。
「ふざけるな!」
小林は鉄パイプでドアノブを強引に破壊し、扉を蹴破った。倉庫内では、教師たちが一瞬驚愕したが、すぐに数名(3名ほど)が逆上し、武器になりそうなものを手にして小林に襲いかかってきた。
「小林先生!」
小林は、迫りくる最初の教師の振り下ろした角材を、最小限の体捌きで紙一重にかわすと、即座に体勢を立て直し、相手の脇腹に鋭い肘鉄を叩き込んだ。「グッ!」短い呻きと共に一人目が崩れ落ちる。
間髪入れず、二人目の教師がパイプ椅子を振りかざして殴りかかってくる。小林は、その攻撃を冷静に見極め、左手でパイプ椅子の脚を受け流すと同時に右足を踏み込み、体軸を回転させ、鮮やかな一本背負いで二人目の教師を床に叩きつけた。受け身も取れず叩きつけられた教師は、息を詰まらせて動けない。
三人目の教師は、その光景に怯みながらも、恐怖心からかヤケクソ気味に小林に組み付こうとする。小林は、その突進を柳のようにいなすと、相手の腕を掴んで手首の関節を極め、抵抗力を奪いながら床に制圧した。一連の動きは、沙耶の人間離れしたアクロバティックな戦闘とは異なり、熟練した武術家のような、一切の無駄がなく、相手の力を利用し最小限の力で的確に無力化する、洗練された技術だった。
だが、その時、最初に倒された宮本が、近くにあった消火器を掴み、小林の背後から不意打ちを食らわせようと振りかぶった。
「危ない!」恭二が叫ぶ。
小林が気付いた時には、既に消火器は彼の頭上へと振り下ろされようとしていた。絶体絶命かと思われたその瞬間――。
一陣の風が巻き起こったかのような錯覚と共に、黒い影が躍り出た。村田沙耶だ。
彼女の体は、床を滑るように加速し、次の瞬間には信じられないほどの跳躍力で宙を舞っていた。そして、完璧なフォームの飛び蹴りが、消火器を振り上げた宮本の鳩尾に叩き込まれた。
「ぐえっ!」
宮本は、カエルのように潰れた声を上げ、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
沙耶は、軽やかに着地すると、一瞬だけ小林と視線を交わし、再び残りの教師たちを警戒する。
「…助かったよ、村田」小林は、息を整えながら言った。「見事な蹴りだった」
そして、床に転がる宮本たちを一喝する。「お前たちには心底がっかりした。だが、今は言い争っている暇はない。生徒たちに必要な物資を確保するぞ」
彼は、沙耶たちのグループに向き直り、「さあ、遠慮はいらん。生き延びるために必要なものをリュックに詰めろ」と促した。
生徒たちが物資を集め始める中、奈々が心配そうに小林に歩み寄った。
「小林先生…先生は、これからどうなさるんですか?私たちだけでは、この先どうすればいいか…もし、先生さえよろしければ…私たちと、一緒に行動していただけませんか?」
奈々の真摯な瞳と、他の生徒たちの不安げな表情を見て、小林は僅かに口元を緩めた。
「…ふっ、工藤か。そうだな、こんなところで一人でいても仕方ない。君たちのような若者を死なせるわけにはいかんからな。ああ、一緒に行こう」
その言葉に、奈々だけでなく、恭二や他の生徒たちの顔にも安堵の色が浮かんだ。
「ありがとうございます!」
小林は頷き、倉庫の隅に目をやった。「この学校には、大型のスクールバスがある。あれを使えば、ここから安全に脱出できるかもしれん。問題は…」彼は言葉を切った。「バスの鍵だ。確か、職員室の金庫に保管されているはずだ」
そして、彼は沙耶と恭二に向かって言った。「次の目的地は職員室だ。バスの鍵を確保し、その後、バスを動かす。燃料については、職員室にそのありかを示す書類があったはずだ。異論はあるか?」
沙耶は、小林の言葉に、静かに、しかし力強く頷いた。
「ありません」
恭二も、「はい!僕たちも賛成です!小林先生、どうか僕たちを導いてください!」と力強く答えた。
こうして、小林先生という強力な指導者を正式にグループに迎え、彼らは次なる目標地、職員室へと向かうことになった。スクールバスという具体的な脱出手段が見えたことで、彼らの心には、再び確かな希望の光が灯り始めていた。