第一章:生存への選択 [第七話] 救出
第一章:生存への選択 [第七話] 救出
家庭科室での出来事は、恭二、正人、そして康二の心に重い楔を打ち込んだ。村田沙耶という少女の冷徹なまでの合理性と、人間離れした戦闘能力。それを目の当たりにし、彼らはこの崩壊した世界で生き延びるということの本当の意味を、そしてそのために必要な「力」の質を、漠然とだが感じ始めていた。手に入れた僅かな物資と、野球部の部室で見つけた金属バットや木刀が、今の彼らにとって唯一の物理的な支えだった。
「急ぐぞ。奈々たちが心配だ」
恭二は、先ほどまでの動揺を振り払うように声を上げ、自分たちの教室である三年B組へと足を向けた。彼の胸中には、残してきた奈々と桜、そして他のクラスメイトたちの安否への不安が渦巻いている。正人も無言で頷き、康二はリュックに詰めた缶詰の重さを感じながら、三人の後を追った。
沙耶は、常に周囲への警戒を怠らず、一行の先頭を静かに進む。その手には、家庭科室で手に入れた刃渡り20センチほどの文化包丁が、まるで体の一部のように握られていた。
三年B組の教室が近づくにつれ、異様な静けさが彼らを包んだ。いや、静けさではない。微かに、ドアの向こうから、何かを引きずるような音と、くぐもったうめき声、そして…啜り泣くような声が聞こえてくる。
「まさか…!」
恭二の顔色が変わった。彼は逸る心を抑え、バリケードが築かれているはずの教室の入口へと慎重に近づく。
そして、彼らは見た。
入口に積み上げられていた机や椅子のバリケードが、一部無残に破壊され、隙間ができている。そして、その隙間から、おぞましい活性死者の腕が、内側へと伸びようとしているのを。
「奈々!桜!」
恭二が叫び、バリケードの残骸を蹴散らして教室へと飛び込もうとする。
その瞬間、沙耶が恭二の肩を強く掴み、制止した。
「待て、状況が分からないまま突っ込むな」
彼女の声は冷たいが、その瞳は既に教室内部の状況を正確に把握しようと素早く動いていた。
破壊されたバリケードの隙間から見える教室の中は、地獄絵図だった。無惨に食い殺されたクラスメイトたちの遺体の先に三体の活性死者が、奥の教壇近くに追い詰められた奈々と桜、奈々は、恐怖に顔を引き攣らせながらも、震える桜を庇うように立ち、手にしたモップの柄で必死に抵抗しようとしていたが、その動きはか弱く、絶望的だった。
「村田さん!頼む!」恭二が懇願する。
沙耶は、恭二の言葉を待たずに行動を開始していた。彼女の体は、まるで影が滑るように静かに、そして驚異的な速さでバリケードの隙間をすり抜ける。
「私が攪乱し、一体引き受ける。新井、加藤は残りの二体を。宮増は入口を確保し、中の状況を伝えろ」
指示は、教室に飛び込みながら発せられた。
沙耶は、まず最も手前にいた一体の活性死者へと最短距離で肉薄。相手が反応するよりも早く、その体は床を蹴って跳躍し、まるで重力の影響を受けないかのような軽やかさで活性死者の肩を踏み台にした。空中でアクロバティックに身を翻すと同時に、手にした文化包丁が閃き、眼下の活性死者の首筋を正確に、そして深く切り裂いた。鮮血が噴き出し、一体目がどうと崩れ落ちる。着地した沙耶は、一切の体勢の乱れも見せず、即座に次の標的へと視線を移す。その一連の動きは、計算され尽くした機械のようでもあり、また、獲物を狩る美しい猛獣のようでもあった。
「うおおおっ!」
沙耶の動きに触発されたかのように、恭二と正人もバリケードを乗り越え、金属バットと木刀を構えて教室へと突入した。
「奈々!桜!大丈夫か!?」
恭二は叫びながら、奈々たちに迫っていた活性死者の一体に金属バットを力任せに叩きつける。鈍い衝撃音と共に活性死者がよろめくが、まだ倒れない。
正人も、もう一体の活性死者の側頭部に木刀を叩き込む。こちらは確かな手応えがあったが、相手は怯むことなく正人に掴みかかろうとしてくる。
「くそっ、しぶとい!」
一方、沙耶は二体目の活性死者と対峙していた。それは、他の個体よりもわずかに動きが素早く、知性すら感じさせるような目で沙耶を捉えていた。
活性死者が太い腕を振り回し襲いかかってくる。沙耶は、それを予測不能な角度で変化するアクロバティックな体捌きで回避。紙一重で攻撃を避けながら、相手のバランスを崩すように足元を蹴り、あるいは関節を狙って的確な打撃を加える。彼女の動きは、鋭く、無駄がなく、そして何よりも速い。まるで、見えない糸に導かれるかのように、最も効率的なルートで相手を追い詰めていく。
そして、活性死者が一瞬体勢を崩した隙を見逃さず、沙耶の体は再び躍動した。壁を蹴って三角飛びのような軌道で相手の死角に回り込むと、文化包丁の切っ先を、今度は活性死者の眼窩へと深々と突き立てた。
「ギィィィ…!」
短い断末魔と共に、二体目の活性死者も沈黙した。
その頃、恭二と正人は、それぞれの一体を何とか押し留めていたが、徐々に追い詰められつつあった。
「恭二くん、後ろ!」奈々の悲鳴。
恭二が相手に気を取られている隙に、別の方向から新たな一体(教室に潜んでいたのか、あるいは新たに入ってきたのか)が忍び寄っていたのだ。
「しまっ…!」
恭二が反応するより早く、沙耶が動いた。彼女は、倒した活性死者から包丁を引き抜くと同時に、その勢いを利用して床を滑るように移動。新たに現れた活性死者の攻撃をスライディングで回避すると、立ち上がりざまに、その鋭い刃を相手の膝裏の腱へと正確に叩き込んだ。体勢を崩して前のめりに倒れ込む活性死者。沙耶は、その背中に容赦なく跨ると、首の付け根に包丁を突き立て、とどめを刺した。
「はぁ…はぁ…」
恭二と正人は、それぞれの相手をようやく倒し(あるいは沙耶の助けで)、肩で息をしていた。教室には、三体の活性死者の死体が転がり、鼻を突く血の臭いが充満している。
康二は、入口のバリケードを補強し終え、青ざめた顔で中の惨状を見つめていた。
「桜井さん!工藤さん!無事ですか!?」
恭二の声に、奈々と桜は、教壇の陰からおそるおそる顔を出した。二人の顔は恐怖で引き攣り、涙で濡れていたが、幸い大きな怪我はないようだ。
「恭二くん…正人くん…沙耶ちゃん…!」
奈々は、三人の姿を認めると、安堵からかその場にへたり込んだ。桜は、ただただ震えながら奈々にしがみついている。
沙耶は、静かに奈々と桜に近づくと、その前に屈み込んだ。そして、先ほどと同じように、奈々の肩にそっと手を置いた。
「…怪我は?」
「だ、大丈夫…ありがとう…本当に、ありがとう…!」
奈々は、涙ながらに沙耶の手を握り返した。その手は、まだ微かに震えていた。
教室のバリケードは破られ、仲間たちは恐怖に打ち震えている。手に入れた物資も、この状況では焼け石に水かもしれない。
だが、それでも彼らは生き残った。村田沙耶という、圧倒的な力を持つ少女によって。
恭二は、転がる活性死者の死体と、その中心に静かに佇む沙耶の姿を交互に見つめながら、改めてこの世界の理不尽さと、彼女の存在の重さを痛感するのだった。