第一章:生存への選択 [第三話] 最初の恐怖と慰め
第一章:生存への選択 [第三話] 最初の恐怖と慰め
新井恭二の懸命な指示が、恐怖に凍りついていた教室の空気をわずかに動かした。男子生徒たちがおそるおそる机や椅子に手をかけ、教室の入口へと運び始めようとする。女子生徒たちも、言われるがままに窓のカーテンを引いたり、周囲を見回して何か使えそうなものを探したりし始めた。しかし、その動きはまだぎこちなく、誰もが目の前で起きた惨劇と、廊下から聞こえ続ける不気味な音に怯えきっていた。
工藤奈々は、気を失いかけていた遠藤桜を抱きかかえたまま、その場にへたり込んでいた。目の前でクラスメイトだった少年が「化け物」と化し、そして村田沙耶によって無慈悲に「処理」された光景が、網膜に焼き付いて離れない。胃の奥からこみ上げてくる吐き気と、全身の震えが止まらなかった。
(怖い…怖い…何なの、これ…沙耶ちゃんは…どうしてあんな…)
沙耶の、返り血を浴びてもなお一切の感情を映さない端正な横顔が、奈々の脳裏をよぎる。それは、あまりにも人間離れしていて、美しさと同時に底知れない恐怖を感じさせた。
その時、ふと、奈々の隣に影が差した。見上げると、沙耶が立っていた。その黒曜石のような瞳が、じっと奈々を見下ろしている。血糊が僅かに飛び散った制服姿の彼女は、この世のものとは思えないほど冷たく、そしてどこか神々しい気配さえ漂わせていた。
「立てるか」
沙耶の声は、やはり平坦で、抑揚がなかった。
奈々は、声を出そうとしたが、喉が引き攣って言葉にならない。ただ、小さく首を横に振るのが精一杯だった。足が、鉛のように重くて動かない。
すると、沙耶は黙って奈々の前に屈み込み、その華奢な肩にそっと手を置いた。そして、ぶっきらぼうに、しかし驚くほど優しい手つきで、奈々の背中をゆっくりと数回さすった。
「…大丈夫だ」
沙耶の唇から、囁くような声が漏れた。その声には、やはり感情は乗っていなかったが、不思議と奈々の心の奥にまで届くような響きがあった。
「私が、いる」
短い、しかし確信に満ちた言葉。
奈々は、沙耶の瞳をじっと見つめた。その奥に、ほんの僅かだが、人間的な温もりにも似た光が揺らめいたように感じたのは、気のせいだっただろうか。
沙耶の不器用な慰めは、それでも奈々の凍りついた心を少しだけ溶かした。彼女は、ゆっくりと息を吸い込み、震える声で「…うん」と頷いた。沙耶の手の温かさが、制服越しに伝わってくる。それは、この絶望的な状況の中で、奈々が感じた最初の確かな「繋がり」だったのかもしれない。
沙耶は、奈々が少し落ち着いたのを確認すると、すぐに立ち上がり、再び教室の入口へと向き直った。彼女の意識は、既に次の脅威へと集中している。
奈々は、まだ震えは残っていたが、沙耶のその背中を見つめながら、ゆっくりと桜を支え起こした。「桜ちゃん、しっかりしなきゃ…恭二くんたちが、頑張ってる…」
彼女もまた、自分にできることをしなければならない。沙耶が繋いでくれた、ほんの僅かな勇気を胸に。