第一章:生存への選択 [第二話] リーダーの資質
第一章:生存への選択 [第二話] リーダーの資質
村田沙耶の短い呟きは、氷のように教室の空気を凍てつかせた。先ほどまでのパニックは、彼女の常軌を逸した行動と、眼前の死体、そして廊下から迫る新たな脅威によって、別の種類の恐怖へと質を変えていた。生徒たちは、もはや叫び声をあげる気力もなく、ただ一点、教室の入口と、その前に静かに佇む沙耶の背中を見つめている。血糊が僅かに付着した彼女の制服と、床に転がるモップの柄が生々しい。彼女の端正な横顔は、依然として何の感情も映していないが、その全身からは張り詰めた弓のような緊張感が放たれていた。まるで、次の瞬間には獣のように飛び掛かる準備ができているかのようだ。
その重苦しい沈黙を破ったのは、新井恭二だった。
彼は、学級委員としての責任感か、あるいは極限状態が生み出した一種の昂揚か、震える足を踏みしめ、一歩前に出た。
「み、みんな、落ち着いてくれ!今はパニックになってる場合じゃない!」
声は上擦っていたが、その瞳には必死の光が宿っている。彼は、恐怖に顔を引き攣らせるクラスメイトたちを見回し、そして沙耶の背中に視線を送った。彼女の存在が、この場の誰よりも異質で、そして誰よりも頼りになることを、彼は本能的に感じ取っていた。
「廊下には…まだ奴らがいる。ここからバラバラに逃げ出すのは危険すぎる。まずは、この教室の入口を塞いで、籠城するべきだ!」
恭二は、机や椅子を指差しながら叫ぶ。
「そして、状況が少し落ち着いたら、校内の安全な場所を探して移動するんだ。放送室や職員室なら、外部との連絡手段があるかもしれないし、食料や医薬品も…理科室や家庭科室、保健室、それに購買部や備蓄倉庫なら、生き延びるための物資が見つかるはずだ!」
矢継ぎ早に飛び出す恭二の言葉は、混乱していた生徒たちに、僅かながらも具体的な行動指針を与えた。恐怖に支配されていた彼らの瞳に、ほんの少しだけ思考の色が戻る。
加藤正人が、恭二の言葉に最初に反応した。彼は無言で立ち上がり、一番近くにあった教師用の大きな机に手をかける。
「恭二…手伝う」
その言葉を皮切りに、数人の男子生徒が恐る恐る動き始めた。
沙耶は、恭二の提案を背中で聞いていた。彼女の思考は、既に数手先を読んでいた。籠城は一時しのぎにしかならない。だが、現状のパニック状態のまま無秩序に逃げ出せば、被害が拡大するだけだ。恭二の提案は、現時点での最善ではないかもしれないが、次の策としては合理的だった。そして何より、恐怖に囚われた烏合の衆をまとめ、具体的な行動に移させるという点で、彼の言葉は意味を持っていた。
沙耶は、ゆっくりと振り返った。その視線が恭二と交錯する。
「…悪くない判断だ」
彼女の静かな肯定は、恭二にとって何よりも力強い後押しとなった。彼の顔に、安堵と僅かな自信が浮かぶ。
「村田さん…」
「入口のバリケード構築は急務。だが、完全に塞ぐな。いつでも移動できるように、一部は開閉可能にしておく必要がある。それと、窓からの侵入も警戒しろ」
沙耶は淡々と指示を出す。その口調は命令に近いものだったが、今の生徒たちにとっては、それが唯一の指針のように感じられた。彼女の言葉には、不思議な説得力と、有無を言わせぬ圧があった。
「わ、わかった!」恭二は力強く頷き、改めてクラスメイトたちに向き直る。「みんな、聞いたな!男子は机と椅子を運んでバリケードを作る!女子は窓際のカーテンを閉めて、何か武器になりそうなものを探してくれ!宮増、お前は何か情報はないか!?」
宮増康二は、恭二の言葉にハッとしたように顔を上げ、震える手でタブレットを操作しながら、「つ、通信はほとんどダメだ…でも、学校のサーバーにアクセスできれば、校内LAN経由で何か情報が…あるいは、避難マニュアルのデータが残っているかもしれない…!」と早口で答えた。
工藤奈々は、気を失いかけていた遠藤桜を抱きしめながら、「桜ちゃん、しっかりして!大丈夫、大丈夫だから…」と必死に声をかけている。彼女もまた、恐怖と戦いながら、自分にできることを見つけようとしていた。
こうして、三年B組の生徒たちは、絶望的な状況の中で、僅かな希望の光を求めて動き始めた。その中心には、圧倒的な戦闘能力を持つ謎めいた少女・村田沙耶と、必死にリーダーシップを発揮しようとする少年・新井恭二の姿があった。
彼らの最初のグループ行動が、今、始まろうとしていた。廊下からは、依然として不気味なうめき声と、引きずるような足音が、間断なく聞こえ続けている。