竜王の嫁は、最強にして最愛の義妹です
今代の竜王ハインゲルは病弱らしい、というのは冒険者たちの間でまことしやかに話される噂だった。
病弱ならば討伐も可能と竜王の棲まう霊脈に足を踏み入れる冒険者は数しれず。
しかし誰ひとりとして竜王を倒せたものはいなかった。
みながみな、霊脈に入ってからの記憶を失って帰ってくるのだった。
「不届き者ーーーッッ!」
毎日毎日毎日毎日、霊脈へとやってくる冒険者たちに鍛え抜かれた手刀をお見舞いするのは小柄で可愛らしい少女、ハミィ。
先代の竜王オイゲンから娘として認められたハミィは、愛する義兄のために全力を尽くしている。
§
先代の頃は霊脈にただ足を踏み入れるだけでは特に何のお咎めもなかった。
己の限界を知るために武者修行をしていたハミィは、竜王の力を一目でも見られればと霊脈にやってきたのだった。
そしてそこで、療養のために聖なる泉に身を沈める若きハインゲルを発見し、見事に一目惚れした。
ハインゲルとお近付きになりたい一心で己を磨き、オイゲンに果敢に挑戦したハミィは彼の鱗に傷を残した。竜王の回復力を持ってしても残る傷跡を付けたことで、オイゲンはハミィを大層気に入り、ハミィを娘と呼んで可愛がるようになったのだった。
ハミィとしては、息子さんを私にくださいという気持ちでいっぱいだったのだが、竜王の城に自由に出入りを許されること自体が奇跡に近いことは理解していたため、長期戦を覚悟の上でハインゲルを義妹として存分に慕うことにしたのである。
何処の馬の骨とも分からぬ女相手では会うことも叶わないが、義妹となればハインゲルも多少の交流は許してくれた。
先代が存命の頃は、ハインゲルは人間ではなく他の竜種たちから命を狙われることが多かった。ハインゲルを倒せれば、次代の竜王になれると思われたからだ。
そのためハインゲルの警戒心は強く、ハミィを見る瞳は懐疑に染まっていた。
「お義兄様、一緒に体操しましょう!」
「お義兄様、一緒にご飯を食べましょう!」
「お義兄様!」
どれだけ塩対応されようとめげることのないハミィに、ハインゲルは次第に絆されていった。
オイゲンが亡くなる前に結婚報告ができたらと思っていたハミィだったが、それは叶わなかった。
オイゲンの亡骸を前に静かに涙をこぼすハインゲルを見て、ハミィは気合いを入れ直す。
彼のことは、もう誰にも傷付けさせないと。
§
そうして、今まではオイゲンが行っていた露払いを、強度を上げてハミィが担うことにした。
竜王の眷属たちもハミィに倣い、彼女一人では捌ききれぬ冒険者たちを一撃で気絶させるのだった。
霊脈で一番強いのは誰かと問われると、眷属たちは首を傾げる。
<サイキョウ ハ ハミィ>
<でもハミィ、竜王さまに勝てない>
<竜王様の前では本気が出せませんからな>
「ねぇ、誰かあたしの噂した?」
<<<イイエ>>>
鎧など不要と言わんばかりの肉体美を惜しげもなく晒す戦闘態勢のハミィは、竜王の城に帰るなり部屋に籠る。
湯船にお湯を張り、全身をいい香りのする石鹸で丹念に洗い、貴族のお嬢様と見まごうばかりの可憐なドレス姿になってから、ようやく竜王の待つ部屋へと向かうのだった。
「お義兄様、ハミィです」
「あぁ、入ってくれ」
数日前から調子が悪くベッドに伏せっていた竜王の声はまだ掠れている。
ベッドからはみ出した尻尾が申し訳なさそうに床をぺしぺしと叩くのを見て、情けなく崩れそうになる顔をハミィは鋼の精神力で誤魔化した。
「調子はいかがですか?」
「だいぶいいよ。すまないな、迷惑をかけて」
「いえ、お義兄様のお役に立てることがハミィの一番の幸せですから」
「あぁハミィ! こんなにか弱いお前に霊脈の守護を任せて……俺は……ッ!」
「お義兄様……ッ!」
義兄からの抱擁を存分に受け止め、顔が見えないのをいいことにニヤニヤを自重しないハミィ。
ハミィの本来の姿を知っている執事やメイドたちは、やれやれと溜息をこぼしそうになるけれど、そんなことをすれば鉄拳が飛んでくることを理解しているため、表情を崩すことはなかった。
ハミィが何故オイゲンに娘として認められたのか。その理由をハインゲルは知らない。
人間の少女の細く小さな肉体が、庇護欲をそそったのかとぼんやり思う程度。
ハインゲルの前に立つハミィは、吹けば飛んでしまうような可愛らしい少女でしかなかったのである。
「お義兄様は私が守ってさしあげますからね!」
「ハミィ!」
キラキラと輝く笑顔が、可愛らしく見えるように計算され尽くしたものだとハインゲルは知らない。
ずっと知らないままでいるはずだった。
「たのもー!」
「?!」
竜王の城に人間が辿り着くことなど不可能だと慢心していた。ハミィは即座に笑顔を貼り付けてハインゲルに一礼し、素早い動きで部屋を出る。
すぐに霊脈全体の様子を探ると、意識を失っている眷属たちが数体確認できた。
護りの薄くなったルートを的確に選び、登ってきたらしい。
チッと舌打ちが漏れ、殺気が膨れ上がりそうになる。
ハインゲルに悟られぬように排除せねば。ハミィは正面玄関へと急いだ。
「竜王の城に、何の御用かしら」
ドレス姿のまま、馬鹿正直に乗り込んできた不届き者の前に躍り出る。
ハミィを認めた途端、その男は目を輝かせて破顔した。
「おお! 麗しの乙女! ドレス姿も美しいが、貴女の魅力は鍛え上げられた筋肉では?」
「は?」
数日前に処理した男だった。一撃必殺と自負していた手刀で意識を刈り取れなかった男は初めてだったため、その顔を覚えている。
記憶を飛ばすつもりで腹に拳を叩き込んだつもりだったが、どうやらそれでも足りなかったらしい。
記憶を失わないどころか、自分を完膚なきまでに叩きのめしたハミィに惚れ込んだのである。
「貴女の強さに惚れたのだ! ぜひ俺の嫁になってくれ!」
「強さ? 嫁?」
「お、お義兄様?!」
玄関ホールに響く低音に、ハミィは震えた。長い黒髪と尻尾を引きずり、玄関ホールの手すりに掴まって男を見下ろすのは、紛れもなくハインゲルで。
恐ろしいくらいに整った顔に、鋭く光る虹色の瞳は怒りに染まっている。
珍妙な侵入者に混乱していたせいで、ハインゲルが近くに来ていたことに気付かなかったのは完全なる落ち度である。
ハミィは自分の甘さに苦い顔をしながら、ハインゲルの後ろに控える執事たちを睨んだ。
(どうしてお義兄様がここにいるのよ!)
(我々では止められません……!)
必死で思考をフル回転させたけるど、現状を丸く収める名案はひとつも浮かばない。
「やだ、何を仰るのかしら。誰かと勘違いなさっているのね。ほら、お義兄様、大丈夫ですからお部屋にお戻りになって」
どう考えても無茶な発言をすることしかできなかった。
しかしまだ諦めるわけにはいかない。ハミィは執事たちにハインゲルを部屋に戻すよう促した。
「勘違いではない! 己の身に刻まれた拳の痕! これはまさしく貴女のものだ!」
ただただハミィのことしか考えていない男は、着ていた服の胸元を両手でぐいっとはだけさせ、みぞおちに刻まれた拳の痕を見せ付ける。
男の肌など、一目惚れした際に見たハインゲルのものを見たのが最初で最後。顔を真っ赤にしたハミィは反射的に男の顔面に飛び蹴りを放ってしまったのだった。
「ごふぅ……ッ、こ、これこそ乙女の痛み……ッ!」
「は、ハミィ……?」
「え、あ、いや違うのよ、お義兄様これは」
地に臥した男の顔面を踏み付けながら違うと言っても、何の説得力もなかった。
「やはり素晴らしい! 結婚してくれ!」
ハミィから与えられる痛みに興奮しきりの男がそう叫んだ瞬間、ハミィの身体は男から引き離され、ハインゲルに抱きしめられていた。
いつの間に階段から降りてきたのか、もうこれ以上男に触れることなど許さないとでも言うような顔で。
「えっ?」
訳が分からなかった。ハミィは戸惑いつつ、ハインゲルの様子を窺う。
「ハミィはやらん」
「!!」
ぎゅうと、自分を抱く腕に力が入る。今まで何度もハインゲルからの抱擁を経験してきたハミィだったが、こんなにも情熱的に抱きしめられたことはない。
しかも、自分を嫁にはやらないという言葉付きで。
ハミィの心臓は大きく高鳴った。
「可愛らしいハミィも、逞しいハミィも、全て俺のものだ!」
「ええっ!」
(見ていますかオイゲン様、ついに、私の時代が来たかもしれません!)
天を仰いで涙するハミィ。もうこのまま結婚式を挙げましょうと言いたくなるところに、男の声が邪魔をする。
「いやだ! せめてお友達から!」
「邪魔だ」
「邪魔よ」
綺麗に重なった二人の言葉と、同時に放たれた二つの拳。
城の屋根を突き破りながら、男は空の星となって消えた。
「お義兄様、さっきのお言葉……」
もう、邪魔者はいない。
ハミィはハインゲルを見上げ、その時を待った。
髪は乱れ、化粧も崩れているだろうに、そんなハミィを見つめる瞳はひどく甘い。
「他の男に言い寄られるお前を見て分かったんだ、幼い頃からずっとモヤモヤしていたこの気持ちの名前に」
「お義兄様……」
「ハインゲル、と……そう呼んでくれ、ハミィ」
「ああ、ハインゲル!」
ハミィは自分よりずっと高いところにあるハインゲルの首にしがみつくように抱きついた。
ハミィが落ちないようにしっかりと支えてくれる腕を頼りに、そのままハインゲルの薄い唇に己のそれを重ね合わせる。
見守っていた執事やメイド、眷属たちの拍手に包まれて、ついに二人は結ばれたのだった。
§
「ハミィ、無理はしないでくれ」
「えぇ、大丈夫よ! 一人の身体ではないってちゃんと分かってるから!」
相変わらず病弱なハインゲルは、今日もベッドからハミィを見送る。
過度に着飾ることは止めたものの、ハインゲルの前でだけオシャレをするハミィは、少し膨らんできたお腹撫でた。
お腹を冷やさない程度の軽装に身を包み、愛しの夫の額に口付け、霊脈にのこのこやってくる冒険者たちを追い払いに行くのだった。